新宿音楽祭
新宿音楽祭(しんじゅくおんがくさい)は、1968年から1994年(1988年は昭和天皇の容態悪化に配慮して中止となったため、入賞した歌手20組は全員銅賞扱い)にかけて開催された、新人歌手対象の音楽祭である。開催時期は毎年10月初旬から中旬となっており、ニッポン放送「銀座音楽祭」、ラジオ日本「横浜音楽祭」、ABC「ABC歌謡新人グランプリ」と並んでラジオ局による歌謡新人賞レース序盤の重要な大会であった。 概要新宿音楽祭は1968年に創始された新宿祭[注釈 1]の一環として、紀伊國屋書店創業者である田辺茂一を会長とする新都心新宿PR委員会[注釈 2]の主催で同年に東京厚生年金会館で第1回大会が行われ、1969年から1972年は新宿コマ劇場、1973年から1975年および1991年以降は東京厚生年金会館、1976年から1990年にかけては千代田区の日本武道館が使用された。後援は東京都・新宿区。大会顧問は平井賢、斎藤茂、高木清他。 大会の模様は文化放送で生中継され、放送時間は1974年 - 1987年までは16時 - 20時30分。[注釈 3]1989年以降は18時 - 22時。正味、4時間の放送であった。また文化放送だけでなく地方民間放送共同制作協議会(火曜会)加盟各局でも同時放送されていた。 1986年まではフジテレビの『土曜スペシャル』で90分(後に75分)編集版が関東ローカルで、テレビ放送されていたことがある[注釈 4]。編集版では第2部の全て、大会顧問の講評、EDを割愛された他、金賞発表をまとめてカットされたこともあった。 大会は基本的に3部構成で、第1部は参加歌手による歌唱。第2部は前年度の金賞受賞者など、ゲストによる歌唱コーナー。第3部は審査結果発表と金賞受賞者の再歌唱となっていた。 最高賞は「金賞」で、原則として2組が選ばれた。受賞歌手にはトロフィー、賞金[注釈 5]と新宿区長賞。副賞としてスポンサーから賞品が贈呈されていた。1974年 - 1982年まではイタリアの「サンレモ音楽祭」へ派遣された(受賞者にはアリタリア航空より航空券とバッグ。サンレモ音楽祭 組織委員会より、サンレモ音楽祭賞と特別招待状が贈呈されていた)。以下、「審査員特別奨励賞」(1組)「銀賞」(5組)「敢闘賞」(1組)と続き、入賞は「銅賞」となった。 (毎年ではないと思われたが)本選の2週間程前の週末に新宿三井ビル入口の野外ステージ(フォンターナ)においてエントリー歌手を紹介する(勿論全歌手が出演し歌唱する)プレステージが催された。観覧は自由な為、特に1982年の新人豊作の年には親衛隊や通行人がごった返し大変なイベントとなった。 オープニングとエンディングで「新宿音楽祭の歌」(正式な題名不詳)がバンドとスクールメイツによるコーラスで流れた。 提供スポンサーはパイロット萬年筆、トモヱそろばん、富士重工、ヤクルト、森永製菓、大王製紙、スワローヘア化粧品、ニコマートなどの複数企業。後年は一社提供で[注釈 6]、ライオン、シャープを経て、最終回はクラリオンが務めた。音楽の多様化等により、1994年度を以て終了した。 司会司会は文化放送の男性アナウンサーが代々、務めており、同局アナ時代のみのもんた、梶原しげるがその名を連ねていた。第2部は同局の若手・中堅 男性アナが司会を務めていた[注釈 7]。女性アナウンサーは、局アナ時代の落合恵子が務めたことがある程度である。 受賞者一覧金賞
審査員特別奨励賞
銀賞
敢闘賞
銅賞
※1988年は昭和天皇の容態悪化に配慮して中止されたため、入賞歌手20組は全員銅賞扱いとなった。 当音楽祭の編成に伴う影響等当時、ナイターオフの開始前後にこの音楽祭が組まれていた関係で平日に当たる場合、その年のナイターオフ番組の開始日を1日ずらし、音楽祭の模様を放送していた。 極稀に音楽祭の開催日が土曜や日曜にずれたケースもあり、その時は当時の土・日曜のナイターオフ番組の開始日を1週ずらし、この音楽祭の模様を放送していた。そのため、ネット番組の第1回を文化放送では、ナイターオフの2週目から遅らせて放送した[注釈 8][注釈 9]。 TV中継スタッフ1977・85年当時
脚注注釈 |