ビューティ・ペア
ビューティ・ペア(Beauty Pair)は、かつての全日本女子プロレスのタッグチーム。 来歴ジャッキー佐藤(ジャッキーさとう、1957年10月30日 - 1999年8月9日)とマキ上田(マキうえだ、1959年3月8日 - )の二人によって1976年2月24日に結成、その日に行われたWWWA世界タッグ王座決定戦で、シルビア・ハックニー&ソニア・オリアーナペアに勝利し、タイトルを獲得する。ブラック・ペア(池下ユミ&阿蘇しのぶ)との好勝負は人気を不動のものとした。 またRVCより『かけめぐる青春』でレコードデビューし、試合前のリング上で歌う斬新なスタイルで、女子プロレス界のアイドル的存在となる。このレコードは80万枚を売り上げたという[1]。また、当時人気絶頂だった女性アイドルデュオのピンク・レディーと、音楽番組などで度々共演することもあった。しかしレコードを出した当初は鳴かず飛ばず、観客席も閑散としており酔った客とストリップと間違えている男性客しか来ない状態で、全日本女子プロレス(以下「全女」)の経営は破綻寸前であったという[2]。 1998年放送の「女子プロレス40年史」によると、人気のブームは突然だったという。沖縄遠征後、池下ユミの地元である福山で試合後にジャッキー佐藤の元に鉢巻を巻いたファンが2~3人現れたのが最初で、その後の千葉公園体育館では会場はほぼ満員、横浜文化体育館で超満員になりブームに火が付いた。これが女子プロレス第一期黄金期でもある。 タッグでの必殺技は、ジャッキーがボディスラムで投げつけた相手にマキがコーナー最上段からダイビング・ボディ・プレスを決める「ビューティ・スペシャル」。 しかし、結成から3年後の1979年2月27日、「敗者は引退する」というルールの元で、王者・ジャッキーに挑戦者・マキが挑むビューティ・ペア同士のWWWA世界シングル王座戦が行われ、マキは敗れ引退、ビューティ・ペアは解散した(詳しくは 後述 「現役時代と引退試合について」)。 エピソード現役時代と引退試合についてマキによると現役時代は、ジャッキーとビューティ・ペアとしてコンビで活動することはあった。しかし社交的なマキと一匹狼的なジャッキーとは性格的に合わず、仲はあまり良くなかった。そのため試合後などもほとんど会話をすることがなく、プライベートに至っては後述の温泉旅行に行くまでは遊んだりしたことは一度もなかったという。 コンビ結成から3年後、性格による方向性の相違からビューティ・ペアとしての活動に限界を感じたマキは、ジャッキーになんの相談もせず解散することを一人で決めて、全女の社長に直談判した。社長から「それなら最後にお前たち二人で試合をやって、負けた方はプロレスラーを引退すればいい」と条件を提示され、マキはそれを受け入れた。しかしジャッキーはそんな裏事情を知らされないまま突然ビューティ・ペアの解散・女子プロレス引退を懸けた試合をすることになった。一方ではこの試合の1年ほど前にジャッキーは恋愛禁止ルールを破り、地方巡業中でも恋人のために東京へ戻ろうとしたことで、マキは仕事より恋を取ったジャッキーが許せなくなって「ペアを続けられない」と伝えたということもあった[3]。これまでにマキは「ジャッキーに直接怒ったことは一度もなかった」ということだったが、「解散を言い出した私が負けなければならない、とも思っていた」とも後日明かしている[3]。 1979年1月4日、全女の後楽園ホール大会で行われたビューティ対決の発表では、マキが「私の持っているもの全てを懸けて挑戦します」と言ったことに対して、ジャッキーが補足する形で敗者引退ルールを明かし、「何で今回に限ってマキちゃんが引退を懸けて挑戦するのか、私にはよくわからない訳ですね」とも語っていた。 試合直後の二人はお互いの控室を訪れることもなく、一言も会話を交わさずに解散した。これについてマキは「引退を懸けた試合に、負けた自分から話しかけるのも変だからという理由で、声をかけづらかった」とのこと。対してジャッキーは「別に永遠に会えなくなるわけじゃないし、お互いそれぞれの道を歩んで、将来一人の人間として大きくなった時に再会したい」と言っていたことを、後にマキは知人を通じて知った。 1986年頃に、ジャッキーが加入した新団体「ジャパン女子プロレス」にジャッキーからマキを勧誘していたが、マキはこれを断っている[3]。 再会、その後テレビ番組などで顔を合わすことはあったが、1988年までプロレスラーとして活動し神奈川県で体操教室を運営していたジャッキーと、約1年の芸能活動後に出身の鳥取県に戻っていたマキとは、約20年間連絡が途絶えることになった[4]。 1998年、マキの方から鳥取県で経営する店の10周年記念ゲストとして招待するためにジャッキーへ連絡を取り、後日二人きりで温泉旅行に出掛けて現役時代からは考えられない程、楽しく過ごせたという。その後ジャッキーから手紙が届き「この前は本当に楽しかった。また、今度一緒にどこか行きましょう」という内容にマキも再会を楽しみにしていた。しかし約1年後、ジャッキーが胃がんにより逝去してしまい、二人の再会が叶うことはなかった。 生前のジャッキーは知人に対し、マキに自身の病気のことを口止めをしており「マキには弱っている自分を見せたくない。病気を治して元気になった時に笑顔で会いたい」という考えによるものだった。そのため、マキはジャッキーの死の直後にかかってきたナンシー久美からの電話で、初めてジャッキーの病気のことを知った[5]。 ディスコグラフィシングル
アルバム
映画
『ビューティ・ペア 真赤な青春』(ビューティ・ペア まっかなせいしゅん)は、1977年公開の日本映画。カラー、57分[6]。監督:内藤誠。主演:ビューティ・ペア。ビューティ・ペアとブラック・ペアの対決を軸に、ビューティ・ペアのプロレス界入りの経緯やトレーニングが本人出演のドラマとして描かれる。封切り時の同時上映作は『ドーベルマン刑事』。 スタッフ監督を除く順および職掌は本作冒頭のタイトルバックに基づく。
出演者順は本作冒頭のタイトルバックに、本人役を除く役名の一部はキネマ旬報映画データベース[7]に基づく。
映像ソフトネット配信外部リンク(映画)テレビ
同時期のタッグチームビューティ・ペアの成功を受けて、全女内ではいくつかの名称が付いたタッグチームが結成された。「○○・ペア」と称したものが非常に多かった。1978年10月には下記の7チームにビューティを入れた8チームで総当りのリーグ戦が開催されたが(池下のパートナーは熊野)、12月の優勝戦でビューティはクイーン・エンジェルスに敗れ、ビューティ・ペアとしての活動は事実上終結した。
備考
脚注
関連項目
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