小笠原満男
小笠原 満男(おがさわら みつお、1979年4月5日 - )は、岩手県盛岡市出身の元プロサッカー選手。元日本代表。ポジションはMF。2009年シーズンJリーグ最優秀選手賞受賞。 来歴プロ入り以前岩手県盛岡市に生まれ、地元の太田東サッカー少年団に入団しサッカーを始める。6年生の時に第15回全日本少年サッカー大会にチームのキャプテンとして出場している。 1995年、斎藤重信監督率いる岩手県立大船渡高等学校に進学し、斎藤の家で下宿生活を送る[1]。“東北のファンタジスタ”と言われ天才派選手[1] として注目され、U-16日本代表に初招集されてからは年代別日本代表に選出される。 1997年、第76回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、ベスト16進出の原動力となり大会優秀選手に選出された[2]。高校選抜でチームを組んだ日本代表に選出され、第58回ベリンツォーナ国際ユース大会等に出場した。 鹿島アントラーズ1998年、高校卒業後に鹿島アントラーズに加入。同期は本山雅志、中田浩二、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗。4月15日の対ガンバ大阪戦でJリーグデビュー。 1999年、5月5日のジュビロ磐田戦でヘディングシュートでJリーグ初得点を記録。 2000年、レギュラーに定着して活曜。ナビスコカップ優勝、Jリーグ優勝、天皇杯優勝と、鹿島のJリーグ史上初の3冠獲得達成に貢献した。J1第1ステージ最終節でハーフライン付近から放ったシュートは、クロスバーに当たってゴールとはならなかった。チャンピオンシップ第2戦の試合中にビスマルクとフリーキックのキッカーを巡って揉め、名良橋晃の説得によりビスマルクがキッカーを譲る一幕があり、小笠原の蹴ったフリーキックは惜しくも外れてしまった。Jリーグチャンピオンシップ、天皇杯の両大会においてMVPに選出された。2001年1月1日に行われた天皇杯決勝の清水エスパルス戦では、先制点と、Vゴールとなるビスマルクからのパスをボレーで合わせるミドルシュートを延長前半に決めて3対2で勝利し、チームを優勝に導いた。先制点となったフリーキックは、主審に守備側の壁を適正な位置へ移動させるためのプレーの停止を要請せず、清水の選手たちが態勢を整える前にボールを蹴りこむという頭脳プレーだった。このVゴールはAFC月間最優秀ゴール賞に選ばれた。 2001年、背番号を17から8に変更。5月の柏レイソル戦で左肘を骨折するものの8月に復帰し、チャンピオンシップ第2戦のジュビロ磐田戦においては、延長戦10分にVゴールとなる直接FKを決めてリーグ連覇に貢献し、2年連続でチャンピオンシップMVPを獲得。この年、Jリーグベストイレブンに初選出され、以後2005年まで連続で選出された。 2002年、ナビスコカップ優勝に貢献して大会MVPを獲得。2003年のシーズン終盤、当時ゲームキャプテンを務めていた秋田豊から、「全部背負ってみろ」とキャプテンマークを託された。これ以降、柳沢敦が主将に就任するまで、小笠原がゲームキャプテンを務めることになった。 2005年シーズン途中にイタリア・セリエAのレッチェからのオファーを受け移籍を志願したが、優勝争いをしている最中ということもあり、クラブがオファーを断り破談に終わった。交渉が決裂した直後の19節広島戦はメンバー外となった。第24節神戸戦では初めてボランチとしてスタメン出場した。このシーズンはMFながら11得点と自己最多得点記録を大幅に更新した。 2006年7月15日にカシマサッカースタジアムで開催されたJリーグオールスターサッカーに、史上最多得票で選出された。 FCメッシーナ2006年8月、セリエAのFCメッシーナへ2007年6月まで10ヶ月間のレンタル移籍することが発表され、以前から望んでいた海外への初挑戦となった。9月20日の対レッジーナ戦において後半8分から途中交代で出場しセリエAデビューを果たした。10月21日のエンポリ戦でセリエA初ゴールを記録した。その後は出場のチャンスに恵まれることがなく、ほとんどの試合でベンチ外を強いられた。 小笠原自身は後に、セリエAでの一年間を通してボランチとしての守備力を磨き、人間としても成長することができたと述懐している[3]。 鹿島アントラーズ復帰2007年7月3日にレンタル移籍終了で鹿島への復帰が発表された。背番号は40を選択、これは過去に背負った8番を野沢拓也が付けていたため、当時のJリーグ規定における最大数の背番号を選んだもの。7月15日のサンフレッチェ広島戦(ナビスコカップ)で323日ぶりの復帰戦を勝利で飾った。鹿島復帰後は主にボランチとして攻守ともにチームの要となり、チームの6シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。12月1日の対清水戦のPKによる得点でJリーグ通算50得点を達成した。 2008年、元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。この年主将に就任し、AFCチャンピオンズリーグ2008では、規定により30を超える背番号が認められないため、かつて本田泰人が背負っていた背番号「6」を着けて出場した。4月2日に対アルビレックス新潟戦で、日本及びイタリアリーグ通算10シーズン連続得点を達成した。 9月20日、対柏レイソル戦で左膝半月板損傷及び前十字靱帯を損傷し、全治10ヶ月という怪我を負った[4]。一時は引退を考える程の怪我であったが、手術後はチームを盛り上げるために、異例の早い時期でのピッチ内リハビリを開始したり、シーズン終盤の優勝争いでは、ホペイロにベンチ外メンバーのユニフォームを試合会場に持ってきてもらうように頼み、試合開始前の円陣に全員がユニフォームを着て参加[5] するよう呼びかけるなど、ピッチ外から鹿島のリーグ連覇を支えた。全国高校サッカー選手権大会のイメージキャラクターに選ばれ、CM出演や雑誌へのコメントなどのPRに努めた。 2009年シーズン開幕に向けて、フィジカルコーチにリハビリに協力してほしいと頼み込み、コーチの年末年始のオフを短縮してもらってリハビリに取り組んだ結果、キャンプ初日から主力組で練習を開始することができた。優勝を飾ったゼロックススーパーカップには出られなかったが、3月7日のJリーグ開幕戦の対浦和レッズ戦において、2-0でリードしている後半41分から途中出場、168日ぶりの復帰を果たした。この試合を含め公式戦3試合連続途中出場後の3月18日、ACL第2戦の対上海申花戦において公式戦での179日ぶり先発出場と182日ぶりのフル出場を果たし、勝利に貢献した。4月22日ACL・シンガポール・アームド・フォーシズ戦で268日ぶりの公式戦ゴールを決め、5月2日対ジェフ千葉戦でリーグ戦279日ぶりの得点をPKで決めた。8月8日のJOMO CUPにJリーグ選抜メンバーに選出され、試合前に選手間投票によりキャプテンとして出場した。チームはJリーグ史上初の3連覇を果たし、自身は2005年以来のフル稼働となった。12月、JリーグアウォーズにてJリーグ最優秀選手賞を受賞した。 2010年元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。2月8日、全国のサッカー担当記者の投票により決められる2009年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を初受賞した。 2011年3月18日から5日間東日本大震災の被害を受けた地元岩手で支援活動を行う。3月29日サッカー復興支援チャリティーマッチ、日本代表対Jリーグ選抜にJリーグ選抜として出場。以降、積極的に被災地を訪れ支援活動を行っている。5月31日東北地方におけるサッカー復興のために、東北人魂を持つJ選手の会を立ち上げた。 2012年7月14日対セレッソ大阪戦において2006年4月2日の大宮戦以来、約6年3カ月ぶりの通算13得点目の直接FK弾を決め、歴代4位に浮上した。 2014年8月23日の清水戦で、J1新記録となるリーグ戦16シーズン連続得点を達成。 2016年シーズンはプロ入り後初の無得点に終わった。 2017年4月16日、第7節のベガルタ仙台戦でJ1通算500試合を達成した[6]。 2018年、1998年のJリーグ優勝から国内とアジアで出来る優勝を鹿島で経験していたが、唯一取れていなかったAFCチャンピオンズリーグを優勝。セレモニーでは、ゲームキャプテンであった昌子源がトロフィーを受け取るも、小笠原に最初にトロフィーを掲げる役を譲った[7]。12月27日、2018年シーズン限りでの現役引退を表明した[8][9]。 2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した[10][11]。 日本代表1998年、U-19日本代表としてAFCユース選手権1998に出場し準優勝に貢献。 1999年、U-20日本代表として1999 FIFAワールドユース選手権に全試合出場し、1次リーグのアメリカ戦で1得点を決めるなど準優勝に貢献した。U-22日本代表にも選出されるが、監督のフィリップ・トルシエからプレー中におけるコミュニケーションの乏しさを指摘され、9月にスタメン出場した韓国との親善試合を最後に招集外となった。 2002年、3月21日の対ウクライナ戦でフル代表デビュー。22歳で2002 FIFAワールドカップ日本代表にも選出され、グループリーグ第3戦の対チュニジア戦で、6分間という短時間ではあったがワールドカップ初出場を果たした。 2004年2月7日、キリンチャレンジカップの対マレーシア戦で代表初得点を記録。その直後の2月9日、茨城県鹿嶋市で行われていた代表合宿中に、他7人の選手と共に無断外出してキャバクラで飲食し、問題を起こしていたことが発覚。代表監督であったジーコは「裏切り行為と感じた」として小笠原ら8人を代表から外した。 2005年、ワールドカップ・アジア最終予選の北朝鮮戦とバーレーン戦で得点をあげるなど、日本のアジア予選突破に貢献した。 2006年6月、自身2度目のワールドカップとなる2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。グループリーグ第2戦の対クロアチア戦にフル出場し、さらに第3戦の対ブラジル戦にも先発出場したが、2敗1分で決勝トーナメント進出はならなかった。 その後、オシム体制においては全く召集されなくなり、岡田体制に代わった2010年2月2日、キリンチャレンジカップ・対ベネズエラ戦にて1321日ぶりの日本代表復帰を果たした。リーグでは好調を維持していたが、2010 FIFAワールドカップでは予備登録メンバーに選出されるに留まった[12]。 プレースタイルJリーグ屈指のゲームメーカー。90分のゲームの中の変化、行く、抑える、堪えるという判断力に優れている。 パス、シュートにおける多彩なキックを使い分けて攻撃を司る。プレースキックの精度も高く、直接FKによるJリーグでの通算得点13点は歴代4位タイであり、2005年には年間直接FKゴール数歴代3位の4本の直接フリーキックを挙げている。高さはないが、体幹の強さを生かして周囲の激しいプレスを跳ね除けるボールキープ力、そしてボール奪取能力に優れている。勝利への意志が非常に強い[13]。 ボール奪取率の高さから「人間掃除機」と評されている[14]。 評価内田篤人からは「メンバーに“神様”みたいな人もいますからね」[15]、「ボスというかドン」[16] と評された。 名波浩からは「中田英寿や今野泰幸らと並んで守備センスがすばらしい」とコラムで絶賛された。また「時間の使い方をよく知っている選手」[17] とも評された。 2008年、鈴木満は、「試合を90分という中で把握でき、さらにコントロールできる唯一無二の選手」、「ラインに逃げずにボールをとれるのは今野と小笠原くらい」[18] と評した。 2008年のFUJI XEROX SUPER CUPで主審を務めた家本政明は、小笠原は判定に激しく反発する鹿島の選手らを制止し、家本から判定についての説明を受けた後は、チームメートやスタッフを落ち着かせていたとして「心から敬意を表する」と著書で述べている[19]。 人物
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
その他の国際公式戦
代表・選抜歴
出場大会
試合数
出場
ゴール
タイトルクラブ
代表
個人
出演イメージキャラクター
脚注
関連項目
外部リンク
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