落合弘
落合 弘(おちあい ひろし、旧姓:山田、1946年2月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)領家出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテン。元々はFWや攻撃的MFを務めていた[1] が年齢と共にポジションを下げ、守備的MFやセンターバック、サイドバックをこなすなど守備のユーティリティプレーヤーとして活躍した[2]。 来歴父が幼少の頃に亡くなり、母子家庭で育った。貧しかったことから技術を身に着けるために埼玉県立川口工業高校への進学を目指すも、中学時代の教師の勧めもあり浦和市立高校に入学した[3]。浦和市立高校では1962年と63年の国民体育大会で2連覇。全国高等学校サッカー選手権大会では1年次から3大会連続出場を果たし2年次に準優勝、3年次には3位入賞。日本ユース代表としては1963年から1965年の間にAFCユース選手権1965などで13試合に出場して5得点を記録した[2]。 1964年に高校を卒業。いくつかの大学から学費免除の申し出もあったが、家計を助けるために東京芝浦電気に入社した。東芝ではサッカー部に加入したが、東芝が日本サッカーリーグ(JSL)に参加しなかったこともあり、JSLへ挑戦することなどを理由として1966年に東芝を退社。同年に三菱自動車販売に入社して、三菱重工業サッカー部に加入した[3]。1969年に結婚して「落合」に改姓。同年の日本サッカーリーグでは釜本邦茂を2得点差で上回り得点王となったが、この年を境に相手DFからのマークが厳しくなったことから得点は激減し[1]、攻撃的MFとしてゲームメイクに専念するようになった。 1973年に三菱の監督だった二宮寛によりストッパーにコンバート[1]。その後リベロにポジションを移し、この年から9年連続でベストイレブンに選ばれるなどリーグ屈指のDFとして活躍した。三菱では主将として天皇杯優勝4回、JSL優勝3回、JSLカップ優勝2回に貢献。1978年9月23日に駒沢競技場で行われた日本鋼管戦でリーグ初の200試合連続出場を達成、同年には年間最優秀選手賞を受賞した。その後1982年に連続試合出場記録を260まで伸ばし[2]1984年に現役を引退した。JSLでの通算記録は267試合出場(歴代2位[2])56得点。また、天皇杯においては、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で開催された試合のうち19試合に出場しており、これは2位の釜本邦茂の16試合を3試合上回る歴代1位の記録である[4]。 日本代表としては1966年にデビュー。1976年のモントリオールオリンピック予選や1980年のモスクワオリンピック予選に出場するなど国際Aマッチ63試合に出場し17得点を記録した[2]。1968年のメキシコシティオリンピック以降低迷の続く日本代表の中でチームを牽引する存在だった[2]。 引退後は指導者に転じ、1988年から1992年まで日本代表コーチ、1992年から1993年まで三菱重工の後継である浦和レッドダイヤモンズのコーチを歴任。2003年からは、サッカーを通じてコミュニケーションを図ることを目的とした、「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテンに就任し、各地の小・中学校、高校、大学などを訪問し普及に努めている。 2010年8月17日、日本サッカー殿堂入りが発表された[2][5]。 所属クラブ個人成績
・JSL東西対抗戦 11回選出 ※歴代最多 ・JSL東西対抗戦 最優秀選手賞(1981年) 代表歴
出場大会など
試合数
出場
得点数
指導歴
脚注参考文献
外部リンク
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