日本サッカーリーグ(にほんサッカーリーグ、Japan Soccer League、略称:日本リーグ、JSL)は、1965年から1992年まで存在した日本のサッカーリーグである[1]。日本サッカーの競技レベル向上を目的に発足した。
1993年から始まった日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の基礎になったリーグである[出典 1]。
歴史
創設経緯
日本代表コーチを務めたデットマール・クラマーの残した「リーグ戦形式にしなければ日本の強化にはならない」との提言から[出典 2]、西村章一、重松良典を中心に設立委員会を作り[出典 3]、長沼健、岡野俊一郎、平木隆三が後に加わり[出典 4]、創設された[出典 5]。当時の日本サッカー協会(JFA)は大学サッカー部出身の幹部が多く「君たちだけで考えなさい」と丸投げしたといわれる[9]。また、クラマーの提案は、ドイツの北部・南部・西部3リーグ制の地域リーグであるレギオナルリーガを想定していたが、新幹線と在来線を乗り継げば「全国リーグ」が出来ると反撥したのは長沼たちであった[出典 6]。長沼は1966年のサッカー協会機関誌の座談会で、JSL発足の目的を「会社員として仕事を守りながら、高い技術のスポーツを続けていけること。サッカーの普及に役立つこと。第一線選手に日常トレーニングの目標を与え、激しい試合経験を積ませることで、国際試合への準備をすること」の三つの柱を挙げた[14]。日本サッカーのレベルの向上、特に試合機会の増大とパターン化により全体のレベルを上げて行くことが目的であった。アマチュア競技で全国レベルのリーグ戦を行ったのは日本ではサッカーが初めてである。それ以前は年に幾度か数週間程度の期間を取ってトーナメント方式の試合を行っていたが、週末を中心とした日程でリーグ戦を行うことによって試合の機会を増やし、なおかつ社業に対する影響を軽減しようとしたものである。
当初は社会人クラブの強豪・東洋工業、八幡製鐵、古河電工、三菱重工、日立の5チームでやろうという話もあった[4]。この後、関西からヤンマー、東海から豊田織機、名相銀が加わり、計8チームになった[出典 7]。東北や四国には有力チームがないことから、地域リーグとせず、一気に「日本サッカーリーグ」の名称とすることが決まった[4]。社会人だけでなく大学にも門戸を開放しようとリーグ名に「実業団」を入れず、「日本サッカーリーグ」という名称にしたという理由もあった[出典 8]。早稲田大学を誘ったが[4]、大学リーグの日程との調整が難しいと参加が見送られた[12]。先の8クラブ参加により[出典 9]、国内初のサッカー競技のリーグ戦が開催されることが決定した[出典 10]。古河、三菱重工、日立の3クラブはいずれも東京丸の内に本社を構えていたことから「丸の内御三家」と呼ばれ、意思疎通がしやすいことで、リーグの運営や日本代表の強化方針に対して後々まで強い発言力を持つに至った[16]。
1960年代
第1回大会は1965年6月6日に開幕し、広島市に本拠を置く東洋工業が初代王者に輝いた[出典 11]。最終節で優勝を決めた東洋工業監督の下村幸男が胴上げされたのは、広島大学附属高校のグラウンドであった[8]。東洋工業は第1回から第4回大会まで四連覇し[出典 12]、第6回と合わせて5度優勝した[出典 13]。大半を広島出身者で固めた東洋工業は、結束力が強く、練習環境にも恵まれ他チームを圧した[出典 14]。
発足初年度はアマスポーツ界初となる全国リーグで関心も高く[5]、1試合平均観客数は2,382人と、関係者以外には関心を持たれなかったそれ以前に比べれば驚異的な動員といえた[5]。JSLを発足させたのは、日本のサッカー界では当時は若手にあたる人たちで[5]、1年目のリーグ年鑑に西村章一、長沼健、岡野俊一郎、重松良典の座談会が載り、海外のサッカーにも精通する彼らは、プロが目指す姿であると自負はしているものの、せっかく会社が認めてくれた全国リーグを、物騒なことを口走って潰されては元も子もない警戒心から、それらがない交ぜになった発言に終始した[5]。この中で一番過激な発言をしたのが重松で、この後10年後に広島カープの球団代表になる重松が[10]「東洋工業を母体にプロは出来ませんよ。これははっきりしている」「大きなスポンサーがついたセミプロ的なクラブができて、日本リーグを乗っとりゃ別だよ」などと先見の明のある発言を行った[5]。セミプロ・読売クラブがリーグ優勝を果たすのがこの17年後[5]。東洋工業を母体とするサンフレッチェ広島が立ち上がるのがさらにその8年後となる[5]。
1960年代後半から1970年代前半にかけては、全日本(以降、日本代表)のメキシコ五輪での銅メダル獲得もあり注目を集めた。メキシコ五輪のあった1968年シーズンは1試合の平均観客は7,491人[19]。その中でも釜本邦茂を擁するヤンマーディーゼルと、杉山隆一を擁する三菱重工は実力と人気を二分した。しかしその後の日本代表の成績不振もあり、1970年代中盤以降は観客動員の低迷が続き冬の時代と呼ばれた。
1970年代
JSLが発足以来、初めて赤字を出したのは、創設から10年目の1974のこと[20]。収入6,873万4,924円に対して支出7,393万2,117円で519万7,193円の大赤字[20]。利益金をサッカー専用球技場の建設資金にと、1970年まで4,339万3,750円まで積み立ててきたが、翌1971年からストップした[20]。専用球技場など夢のまた夢となり、運営積立金で赤字は埋めたが、恒例だった優勝チームの海外派遣は1975年シーズンは難しいと噂された[20]。『デイリースポーツ』1975年4月9日付に「沈没サッカー ギッコンバッタン人気は浮気者? ソッポ弱い全日本 日本リーグ初の赤字 若い芽は育ったが 上昇テニス 賞金3千万円(総額) 入場券も売り切れ」という見出しの記事が載る[20]。「人気は浮気者?」の意味は、この年4月9–12日に開催された高額賞金[注釈 1]で話題を呼んだテニス大会「ブリヂストン・ダブルス」に、ウーマンリブの闘将・キング夫人にチェコの新星・ナブラチロワが初来日するといった話題性があり、入場券がすぐに売り切れ、サッカーがテニス人気に喰われたという対比だった[20]。日本のサッカー選手はプロでないため無報酬[20]。各企業の正社員で、会社員と同じ給料で生活する。試合はタダ働きである[20]。移動はグリーン車ではなく、宿泊も学生が修学旅行と泊まる程度の旅館[20]。国立競技場で行われた1975年の日本リーグ開幕戦、三菱重工対日立は東都の人気チーム同士の対戦で、リーグ関係者は楽に2万人は入るだろうと胸算用していた。ところが中学生の団体を無料招待したのに結果は8千人[20]。これは関係者発表で水増しがミエミエ[20]。広い国立競技場で余計に閑古鳥が目立ち、いいとこ6千ー7千人[20]。二連覇を狙うヤンマーが藤和を地元神戸に迎えた開幕戦でも観客は1,500人。ところがサッカーファンは減ってはおらず、この年正月、チャンピオンズカップを連覇中の皇帝ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、19歳のルンメニゲらも来日したバイエルン・ミュンヘン[注釈 2]と日本代表の第一戦は国立競技場に5万5,000人[出典 15]。また3月のスウェーデン代表と日本代表の試合は、スウェーデン代表が前年のWカップに出場した選手は一人も来日しない若手中心の実質スウェーデン選抜チームで[出典 16]、日本代表は3連敗を喫したが、それでも最終戦には2万人のお客が入った[20]。1968年のメキシコ五輪銅メダルで、サッカーブームが到来し[出典 17]、『ダイヤモンド・サッカー』に代表されるテレビでヨーロッパのハイレベルなゲームを毎週のように放映するようになり[20]、Wカップも1978年のアルゼンチン大会からNHKの中継も始まり[22]、これらに映し出される海外のサッカー選手の妙技は、当時のサッカー少年たちにとっては絶好のお手本[20]。またサッカーはやっていないサッカーファンにとってもサッカーの醍醐味を満喫させるものであった。来日したベッケンバウアーから「親善試合だから」と明言されるほど、当時の日本代表は手を抜いても勝てるほど弱かった[20]。そのメンバーがバラバラに散ったJSLの試合を観るために競技場に足を運ぶ人はよっぽどのサッカーファンだった[20]。先述のスウェーデン選抜との3試合は、0–1、1–4、0–2の完敗だったが、日本代表が挙げた1得点は森孝慈–釜本邦茂のコンビによるもの[20]。この二人は11年も前になる東京五輪からの生き残りで、代表戦で海外チームと対等に戦えるのはこの二人だけという現実[20]。1977年のシーズンは1試合の平均観客は1,733人[19]。これは水増ししてでの数字で[19]、対戦カードによってはチーム関係者を除くと観客数10人のケースもあった[19]。試合が終わると選手たちは一列に並んで空っぽのスタジアムに向かって頭を下げた[19]。西村章一は3年で社業に専念となったが[22]、長沼健は1976年に日本サッカー協会専務理事に就任し、実質的に日本サッカー界の舵取り役を担う立場になった[出典 18]。長沼はわずか一握りの選手たちを精鋭化してメキシコで銅メダルを獲った反省から[出典 19]、不振の最大の原因は、サッカーのピラミッドが日本にできていないからだと考え[22]、底辺の拡大と分厚い日本代表チームの構成を目指した[出典 20]。中体連から猛反発を受けたが、個人登録制度を導入するなどで資金を集め[出典 21]、コーチング・スクールの開校などに時間と金を投入し、代表チームをそれまで派遣していなかったアジア大会や各種ユース大会に派遣させ[20]、各地で小・中学生のサッカースクールが開校されるようになり、底辺拡大の芽は育ちつつはあった[出典 22]。
1980年ー1990年
1980年代でも日本代表やJSLを含めたサッカーの記事がスポーツ新聞の載るのは年3回あるかどうか[27]。岸記念体育会館301号室の日本サッカー協会内に机2つのJSLの事務所にはいつも無料招待券が無造作に積まれていたが、出入りの業者も持って行かない状況で、シーズンのどの試合でも使える汎用チケットでも同じだった[27]。当時のJSLの観客数はざっと見の3倍の観客数を発表するのが暗黙の了解になっていた[27]。300人いるように見えたら1,000人、500人だったら1,500人という具合[27]。記者たちも百も承知のことで誰も問題にしていなかった[27]。入場料収入は無いに等しく、JSLのテレビ放映は年2、3回[28]。JSLの運営資金はほとんど全て加盟チームの分担金によって賄われていた[28]。ところが1981年から日本で開催されたトヨタカップに年々お客が増えていったのは、前述と同じ理由で、海外の一流のプレーなら見たいというサッカーファンは多いということだった[27]。また全国サッカー高校選手権も1976年の首都圏開催以降はお客を増やす傾向にあった[27]。同じ球技では野球人気は別格ながら[27]、バレーボールも1980年代においても人気を保ち[28]、大学ラグビーは国立競技場を満員にすることもあり[28]、社会人ラグビーでも神戸製鋼×新日鉄釜石戦などの好カードでは秩父宮ラグビー場がほぼ満員になった[28]。サッカーは他の球技に大きく水をあけられている状況だった[28]。また日本代表もメキシコ五輪以降は、Wカップは勿論、オリンピックさえ出場できない暗黒時代が長く続き。JSLも含めて日本サッカー界がいつ果てるとも知れない長い下り坂をゆっくり下っていくことになった[22]。
1980年代に入ると読売クラブや日産自動車といったプロ化を視野に入れたクラブが台頭した[29]。1986年のスペシャル・ライセンス・プレーヤー[出典 23]、制度の導入以降はこの2クラブがタイトルをほぼ独占した。この両者の対戦はサッカーファンの人気を集め、最後のシーズンとなった1991-92シーズンの第21節、1992年3月22日に国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われた試合では6万人の観衆を集めた。
『サンデー毎日』は1985年6月9日号で、珍しく日産の木村和司をグラビア2頁で取り上げ[30]、元毎日新聞東京本社運動部長・石川泰司が、木村と同世代のプロ野球界の若きスーパースター・巨人原辰徳を引き合いに出し「木村和司君と電車に乗り合わせたとき、『アッ、サッカーの木村だ』と気がつくのは『狂』の字のつくサッカーファンに限られるだろう。例えば巨人軍のハラタツ君(原辰徳)だったら、お騒ぎになることうけ合いだ。この木村君も釜本(釜本邦茂)なき日本サッカーのエース、世が世なら、つまり日本にプロサッカーがあろうものならスーパースターであるべき人なのだ。二年連続のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー、つまりMVPとはハラタツ君など及びもつかない実績(中略)サッカー途上国の日本を見限って外国プロになる選手もいる時代。しかし26歳にして二女の父『一番大事なのは家庭』という木村君は西ドイツからの誘いを断った(中略)メキシコ・オリンピック3位直後のサッカー・ブームをとり戻すためには、第一に日本が国際レベルで勝たねばならない。そして第二に皆さんが、なかなか男前のこの顔を『サッカーの木村だ』と知らなければならない」などと書いた[30]。
森孝慈監督率いる日本代表が、1985年にWカップアジア予選でプロ化を先んじていた韓国に完敗を喫したことで、日本のサッカー界でもプロ化への動きがようやく具体化し始めた[出典 24]。しかし1970年代に低迷したJSLの人気は一向に回復せず[31]、本格的なプロ化は難しいものと見られていた[31]。1988年に森健兒日本リーグ総務主事が「活性化委員会」を設置[出典 25]。以降、1989年に「プロリーグ検討委員会」[31]、1991年「プロリーグ設立準備室」を経て[31]、1991年11月に社団法人日本プロサッカーリーグが正式に発足すると1992年3月29日の最終節を持ってJSLは廃止され[31]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)と下部組織のジャパンフットボールリーグ (JFL) とへ発展解消されることとなった[31]。
機構
当初は東京都渋谷区の岸記念体育会館内にあるJFAのオフィススペースに間借りしていたが[28]、後に同千代田区小川町に単独の事務所を確保できるようになりJFAと独立し、独自の事務局を持ち運営していた[28]。
運営スタッフは事務員が数名程度で常任のスタッフも数名程度、ほかに各クラブから出される運営委員が社業のかたわらリーグの運営業務を行っていた[28]。
現在のJリーグチェアマンにあたる役職としてJSL総務主事があった[28]。ただし全クラブの運営委員の代表といった程度で、JFAへの出向という形をとっていた者もいれば、社業の傍らに総務主事に就いた者もいた。またJSL1部とJSL2部で別の総務主事がいた。JSL1部の歴代総務主事はすべて丸の内御三家の古河・三菱・日立から選ばれている。
効果
日本リーグ先駆け
社業との両立は後にまったく考慮されないようになるが、このシステムはバレーボール、バスケットボール、ラグビーなどでも全国リーグを立ち上げるといった影響を与えた[出典 26]。日本サッカーリーグ(以降、JSL)は、1960年代の日本スポーツ界の新しい旗手となり、バレーボール、バスケットボール、アイスホッケーなどが、あいついで全国リーグに踏み切り、日本リーグと称するようになった[出典 27]。
施設面の充実
地方のクラブを筆頭に、当初からある程度の練習施設を確保しているクラブは少なくなかった。特に工場内に練習場を確保していた東洋工業(マツダ)が1965年から68年にかけて4連覇を達成すると、他クラブもこれにならって練習施設の充実を図るようになった。首都圏では土地の確保などが難しかったものの、多くのクラブが自前の練習場やクラブハウス、夜間照明なども確保するようになった。Jリーグクラブの中にはこれらの施設を現在でも使用しているところがある。
企業アマの確立
当初は社業に影響がないように純粋なアマチュア主義の確立を目指していたが、後にこれは形骸化し、サッカーの練習が社業に優先するようになったり、サッカーをしていても賃金に影響しないようにすることが当たり前になってきた。
このような体制を企業アマといい、サッカーに関わらず日本のスポーツ界では広く見られた。旧共産圏や東欧で見られた「ステート・アマ」の企業版であるが、企業アマは日本独自のものである。
アマチュアの形骸化
さらに企業アマが進んで、試合の結果に対して選手に報酬を渡すクラブが出てきた。特に読売クラブの選手は「社業」といえるものを持っておらず、彼らがサッカーを職業とし、その対価として給与をもらっているという事は公然の秘密であった。JFAではこれを追認する形で1985年からスペシャル・ライセンス・プレーヤーという、事実上プロ選手としての登録を認めた[出典 28]。「プロ」という呼称を使っていないのは、その方が日本体育協会としても認めやすいという日本テニス協会の先例があったためである(テニス協会ではこれ以前に選手のプロ登録を認めていた)。
これによって、当初JSLが目指した「アマチュアによるリーグ」は全く形骸化してしまった。
プロリーグの待望
こうして選手の実質的な「プロ化」は進んだが、実力・運営ともにアマチュアレベルで、当時のラグビーなどと比べても人気も高いとはいえなかった。またいくつかの問題がアマチュアレベルでは解決できないとして、プロリーグへの待望論が生まれてくる。
プロリーグ構想は「読売」や「日産」「全日空」「ヤマハ」といった後発クラブの方が積極的であり、「古河」「三菱」「日立」といったクラブは消極的であった。しかし、後発クラブに「古河」「三菱」からのスタッフを加えたプロジェクトチームがプロリーグ構想を推し進め、1991年に日本プロサッカーリーグの構想が発表され、1993年にJリーグが開幕した。Jリーグの発足を受け、1992年をもってJSLは終了した。
JSLでは解決されなかった問題
- 観客動員
- 国内サッカーの知名度
- スタジアムの充実。特に関東のクラブが主催する試合では東京都の国営施設・国立霞ヶ丘競技場陸上競技場・国立西が丘サッカー場での開催が比較的多かった。また他の関東圏でも三ツ沢公園球技場など、充実した施設が整備されたのはごく限られていた。
- 日本サッカーのレベルアップ
- 地方クラブの充実
- 企業の業績に左右される体質
- 現役を引退した選手のその後の職の確保(コーチ業、解説者等)
- 下部組織の充実
JSLに参加したクラブ
JSLに参加したクラブを挙げる。途中で名称が変更になっているものはその旨を記す。(「株式会社」表記は省略)
創設時の8クラブ(オリジナル8)
昇格によりJSL1部に所属したクラブ
JSL2部にのみ所属したクラブ
クラブ一覧
は現在Jリーグのクラブ
は現在活動していないクラブ
JSL1部
成績
回 |
シーズン |
クラブ数 |
優勝クラブ |
準優勝クラブ |
JSL1部からの降格クラブ |
JSL1部への昇格クラブ |
総観客動員数 |
総得点数
|
1 |
1965 |
8 |
東洋工業
|
八幡製鉄 |
- |
- |
133,400 |
216
|
2 |
1966 |
東洋工業
|
八幡製鉄 |
名古屋相互銀行 |
日本鋼管 |
201,700 |
183
|
3 |
1967 |
東洋工業
|
古河電工 |
豊田自動織機 |
名古屋相互銀行 |
322,550 |
225
|
4 |
1968 |
東洋工業
|
ヤンマー |
- |
- |
419,500 |
185
|
5 |
1969 |
三菱重工
|
東洋工業 |
- |
- |
328,150 |
176
|
6 |
1970 |
東洋工業
|
三菱重工 |
- |
- |
301,800 |
179
|
7 |
1971 |
ヤンマー
|
三菱重工 |
名古屋相互銀行 |
藤和不動産 |
308,700 |
172
|
8 |
1972 |
日立製作所
|
ヤンマー |
- |
トヨタ自工 田辺製薬 |
281,500 |
177
|
9 |
1973 |
10 |
三菱重工
|
日立製作所 |
田辺製薬 |
永大産業 |
260,800 |
264
|
10 |
1974 |
ヤンマー
|
三菱重工 |
- |
- |
299,600 |
262
|
11 |
1975 |
ヤンマー
|
三菱重工 |
- |
- |
268,200 |
268
|
12 |
1976 |
古河電工
|
三菱重工 |
永大(脱退) |
富士通 |
232,400 |
238
|
13 |
1977 |
フジタ工業
|
三菱重工 |
トヨタ自工 |
読売クラブ |
159,650 |
315
|
14 |
1978 |
三菱重工
|
ヤンマー |
富士通 |
日産自動車 |
191,900 |
245
|
15 |
1979 |
フジタ工業
|
読売クラブ |
日本鋼管 |
ヤマハ発動機 |
200,630 |
248
|
16 |
1980 |
ヤンマー
|
フジタ工業 |
日産自動車 |
本田技研工業 |
196,630 |
263
|
17 |
1981 |
フジタ工業
|
読売クラブ |
新日本製鐵 ヤマハ発動機 |
日本鋼管 日産自動車 |
163,080 |
214
|
18 |
1982 |
三菱重工
|
ヤンマー |
日本鋼管 |
ヤマハ発動機 |
194,150 |
214
|
19 |
1983 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
マツダ |
日本鋼管 |
248,870 |
193
|
20 |
1984 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
- |
住友金属 全日空横浜 |
327,700 |
252
|
21 |
1985 |
12 |
古河電工
|
日本鋼管 |
住友金属 全日空横浜 |
松下電器 マツダ |
481,450 |
323
|
22 |
1986/87 |
読売クラブ
|
日本鋼管 |
松下電器 日立製作所 |
住友金属 トヨタ自動車 |
731,950 |
278
|
23 |
1987/88 |
ヤマハ発動機
|
日本鋼管 |
マツダ トヨタ自動車 |
全日空横浜 松下電器 |
640,300 |
238
|
24 |
1988/89 |
日産自動車
|
全日空クラブ |
住友金属 三菱重工 |
東芝 日立製作所 |
664,800 |
292
|
25 |
1989/90 |
日産自動車
|
読売クラブ |
フジタ工業 日立製作所 |
三菱重工 トヨタ自動車 |
540,000 |
305
|
26 |
1990/91 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
ヤンマー NKK |
日立製作所 マツダ |
754,300 |
287
|
27 |
1991/92 |
読売クラブ
|
日産自動車 |
- |
- |
885,400 |
318
|
- 降格チームは次のシーズンからJSL2部(JSL2部設立以前は各地域リーグ)へ参加
- 昇格チームは次のシーズンからJSL1部へ参加
- 第1回から第8回までは下位2チームが全国社会人大会上位2チームと入れ替え戦を行なう
- 第9回はチーム数増加のため降格なし
- 第10回から第15回までは下位2チームがJSL2部上位2チームと入れ替え戦を行なう
- 第16回から第19回までは最下位のチームが自動降格、9位のチームがJSL2部の2位と入れ替え戦を行なう
- 第20回はチーム数増加のため降格なし
- 第21回以降は下位2チームが自動降格
- 第21回から従来の春秋シーズンから秋春シーズンへ移行
- 第22回から大会名称のシーズン表記を「開幕年-閉幕年」へ変更
クラブ別優勝回数
クラブ名 |
回数 |
優勝シーズン
|
東洋工業 |
5 |
1965, 1966, 1967, 1968, 1970
|
読売クラブ |
1983, 1984, 1986/87, 1990/91, 1991/92
|
三菱重工 |
4 |
1969, 1973, 1978, 1982
|
ヤンマー |
1971, 1974, 1975, 1980
|
フジタ工業 |
3 |
1977, 1979, 1981
|
古河電工 |
2 |
1976, 1985
|
日産自動車 |
1988/89, 1989/90
|
日立製作所 |
1 |
1972
|
ヤマハ発動機 |
1987/88
|
クラブ別通算成績
順
|
クラブ名
|
創設
|
初出場
|
最終
|
在
|
勝点
|
試
|
勝
|
P勝
|
分
|
P敗
|
敗
|
得
|
失
|
差
|
優勝
|
最高
|
最低
|
変遷
|
後継クラブ
|
1 |
三菱重工 |
1950年 |
1965 |
1991/92 |
26 |
750 |
460 |
211 |
10 |
102 |
5 |
132 |
682 |
507 |
175 |
4回 |
1位 |
12位 |
三菱重工→ 三菱自動車 |
浦和レッズ
|
2 |
古河電工 |
1946年 |
1965 |
1991/92 |
27 |
731 |
482 |
203 |
8 |
111 |
3 |
157 |
705 |
596 |
109 |
2回 |
1位 |
10位 |
古河電工→ JR古河 |
ジェフユナイテッド千葉
|
3 |
ヤンマー |
1957年 |
1965 |
1990/91 |
26 |
703 |
460 |
195 |
5 |
108 |
5 |
147 |
679 |
570 |
109 |
4回 |
1位 |
11位 |
|
セレッソ大阪
|
4 |
日立製作所 |
1940年 |
1965 |
1991/92 |
24 |
543 |
416 |
151 |
10 |
76 |
4 |
175 |
581 |
608 |
-27 |
1回 |
1位 |
12位 |
日立本社→ 日立製作所 |
柏レイソル
|
4 |
東洋工業 |
1938年 |
1965 |
1991/92 |
22 |
543 |
376 |
149 |
9 |
80 |
7 |
131 |
526 |
424 |
102 |
5回 |
1位 |
11位 |
東洋工業→ マツダ |
サンフレッチェ広島
|
6 |
フジタ工業 |
1968年 |
1972 |
1989/90 |
18 |
520 |
340 |
144 |
5 |
74 |
9 |
108 |
495 |
372 |
123 |
3回 |
1位 |
11位 |
藤和不動産→ フジタ |
湘南ベルマーレ
|
7 |
読売クラブ |
1969年 |
1978 |
1991/92 |
14 |
503 |
280 |
144 |
1 |
65 |
5 |
65 |
481 |
286 |
195 |
5回 |
1位 |
9位 |
|
東京ヴェルディ
|
8 |
日本鋼管 |
1932年 |
1967 |
1990/91 |
21 |
396 |
378 |
98 |
4 |
90 |
8 |
178 |
404 |
601 |
-197 |
- |
2位 |
12位 |
日本鋼管→ NKK |
|
9 |
新日本製鐵 |
1950年 |
1965 |
1981 |
17 |
385 |
274 |
110 |
6 |
40 |
9 |
109 |
433 |
406 |
27 |
- |
2位 |
9位 |
八幡製鉄→ 新日本製鐵 |
|
10 |
日産自動車 |
1972年 |
1979 |
1991/92 |
12 |
384 |
244 |
109 |
2 |
54 |
1 |
78 |
315 |
284 |
31 |
2回 |
1位 |
10位 |
|
横浜F・マリノス
|
11 |
ヤマハ発動機 |
1972年 |
1980 |
1991/92 |
11 |
322 |
226 |
86 |
0 |
64 |
0 |
76 |
255 |
249 |
6 |
1回 |
1位 |
10位 |
|
ジュビロ磐田
|
12 |
本田技研工業 |
1971年 |
1981 |
1991/92 |
11 |
289 |
226 |
72 |
0 |
73 |
0 |
81 |
251 |
267 |
-16 |
- |
3位 |
10位 |
|
|
13 |
全日空クラブ |
1964年 |
1985 |
1991/92 |
5 |
139 |
110 |
38 |
0 |
25 |
0 |
47 |
131 |
145 |
-14 |
- |
2位 |
12位 |
全日空横浜→ 全日空クラブ |
横浜フリューゲルス
|
14 |
松下電器 |
1980年 |
1986/87 |
1991/92 |
5 |
128 |
110 |
31 |
0 |
35 |
0 |
44 |
122 |
152 |
-30 |
- |
5位 |
11位 |
|
ガンバ大阪
|
15 |
トヨタ自動車 |
1939年 |
1973 |
1991/92 |
8 |
105 |
156 |
24 |
0 |
33 |
0 |
99 |
128 |
363 |
-235 |
- |
5位 |
12位 |
トヨタ自工→ トヨタ自動車 |
名古屋グランパス
|
16 |
東芝 |
1935年 |
1989/90 |
1991/92 |
3 |
82 |
66 |
19 |
0 |
25 |
0 |
22 |
72 |
76 |
-4 |
- |
4位 |
9位 |
東芝堀川町→ 東芝 |
北海道コンサドーレ札幌
|
17 |
永大産業 |
1972年 |
1974 |
1976 |
3 |
69 |
54 |
19 |
0 |
12 |
0 |
23 |
67 |
83 |
-16 |
- |
5位 |
9位 |
永大産業→ 永大 |
|
18 |
住友金属 |
1947年 |
1985 |
1988/89 |
3 |
60 |
66 |
15 |
0 |
15 |
0 |
36 |
50 |
101 |
-51 |
- |
10位 |
11位 |
|
鹿島アントラーズ
|
19 |
名古屋相互銀行 |
不明 |
1965 |
1971 |
6 |
38 |
84 |
9 |
0 |
11 |
0 |
64 |
76 |
210 |
-134 |
- |
6位 |
8位 |
|
|
20 |
富士通 |
1955年 |
1977 |
1978 |
2 |
28 |
36 |
6 |
3 |
0 |
7 |
20 |
32 |
67 |
-35 |
- |
9位 |
9位 |
|
川崎フロンターレ
|
21 |
豊田自動織機 |
1946年 |
1965 |
1967 |
3 |
20 |
42 |
4 |
0 |
8 |
0 |
30 |
38 |
112 |
-74 |
- |
6位 |
8位 |
|
|
22 |
田辺製薬 |
1927年 |
1973 |
1973 |
1 |
4 |
18 |
1 |
0 |
1 |
0 |
16 |
7 |
51 |
-44 |
- |
10位 |
10位 |
|
|
は現在Jリーグのクラブ
は現在活動していないクラブ
- 勝ち点は、以下のルールで算出(勝利=3、PK勝/引分/PK敗=1、敗戦=0)
- 1977-1979の3シーズンは、90分を終えて同点の場合はPK戦を実施
- 地域リーグとの入替戦(1965-1971、全国社会人サッカー選手権大会の上位クラブとの試合)、JSL2部との入替戦(1973-1983)はカウントしていない
個人賞
記録
通算得点ランキング
通算アシストランキング
通算出場ランキング
歴代試合観客数
順位 |
観客数 |
対戦カード |
開催日 |
会場
|
1 |
60,000 |
日産-読売ク |
1992年3月22日 |
国立霞ヶ丘
|
2 |
41,000 |
ヤマハ-日産 |
1989年2月26日
|
3 |
40,000 |
三菱-ヤンマー |
1968年11月17日
|
古河-読売ク |
1989年2月26日
|
5 |
36,000 |
読売ク-住金 |
1988年5月1日
|
6 |
35,000 |
三菱-ヤンマー |
1969年4月6日
|
三菱-ヤンマー |
1975年12月14日
|
読売ク-三菱 |
1989年2月26日
|
9 |
30,000 |
読売ク-ヤンマー |
1983年11月3日
|
読売ク-日産 |
1984年9月22日
|
日立-読売ク |
1992年3月15日 |
千葉総合
|
JSL2部
成績
回 |
シーズン |
クラブ数 |
優勝クラブ |
準優勝クラブ |
JSL2部からの降格クラブ |
JSL2部への昇格クラブ
|
1 |
1972 |
10 |
トヨタ自工 |
田辺製薬 |
- |
永大産業 帝人松山
|
2 |
1973 |
永大産業 |
甲府クラブ |
豊田自動織機 羽衣クラブ |
住友金属 茨城日立
|
3 |
1974 |
読売クラブ |
富士通 |
茨城日立 |
本田技研工業
|
4 |
1975 |
田辺製薬 |
読売クラブ |
電電近畿 大日日本電線 |
ヤンマークラブ 古河電工千葉
|
5 |
1976 |
富士通 |
読売クラブ |
- |
日産自動車
|
6 |
1977 |
読売クラブ |
日産自動車 |
古河電工千葉 |
東芝堀川町
|
7 |
1978 |
本田技研工業 |
日産自動車 |
京都紫光クラブ |
ヤマハ発動機
|
8 |
1979 |
東芝堀川町 |
ヤマハ発動機 |
ヤンマークラブ(解散) |
大協石油
|
9 |
1980 |
本田技研工業 |
富士通 |
大協石油 |
名古屋クラブ
|
10 |
1981 |
日本鋼管 |
日産自動車 |
名古屋クラブ |
埼玉教員
|
11 |
1982 |
ヤマハ発動機 |
東芝 |
帝人 |
東邦チタニウム
|
12 |
1983 |
日本鋼管 |
住友金属 |
東邦チタニウム 埼玉教員 |
横浜トライスター(全日空横浜) 松下電器
|
13 |
1984 |
住友金属 |
全日空横浜 |
- |
西濃運輸 京都府警 TDK 大阪ガス
|
14 |
1985 |
12 |
松下電器 |
マツダ |
- |
コスモ大協(コスモ石油) 川崎製鉄水島 東邦チタニウム NTT関西
|
15 |
1986 |
16 |
住友金属 |
トヨタ自動車 |
京都府警 TDK |
NTT関東 マツダオート広島
|
16 |
1987 |
全日空クラブ |
松下電器 |
西濃運輸 マツダオート広島 |
帝人 藤枝市役所
|
17 |
1988/89 |
東芝 |
日立製作所 |
NTT関西 藤枝市役所 |
マツダオート広島 京都紫光クラブ
|
18 |
1989/90 |
三菱重工 |
トヨタ自動車 |
帝人 マツダオート広島 |
読売ジュニオール 大塚製薬
|
19 |
1990/91 |
日立製作所 |
マツダ |
大阪ガス 新日本製鐵 |
東京ガス 中央防犯
|
20 |
1991/92 |
フジタ |
住友金属 |
- |
-
|
- 1972年のJSL2部スタート時の参加クラブは以下の10クラブ
- 読売サッカークラブ
- 富士通サッカー部
- 甲府クラブ
- トヨタ自動車サッカー部
- 豊田自動織機製作所サッカー部
- 田辺製薬サッカー部
- 京都紫光クラブ
- 日本軽金属サッカー部
- 大日本電線サッカー部
- 電電近畿サッカー部
- 優勝クラブ、準優勝クラブの項に補足のあるのは次のシーズンからJSL1部へ参加
- 降格クラブは次のシーズンから地域リーグへ参加
- 昇格クラブは次のシーズンからJSL2部へ参加
- JSL1部からの降格チームはJSL1部リーグの表(上記)を参照
- 第6回までは全国社会人サッカー選手権大会上位2チームとJSL2部下位2チームで入れ替え戦を行なう
- 第7回から第12回までは全国地域リーグ決勝大会上位2チームとJSL2部下位2チームで入れ替え戦を行なう
- 第13回、第14回は全国地域リーグ決勝大会の決勝ラウンド進出4チームがJSL2部へ自動昇格
- 第15回からJSL1部同様の秋春シーズンへ移行
- 第15回以降は全国地域リーグ決勝大会上位2チームが自動昇格、JSL2部下位2チームが自動降格
- 第15回から再参加のコスモ大協はかつての大協石油。翌シーズンから社名変更によりコスモ石油へ改称
- 第16回から再参加のNTT関西はかつての電電近畿
- 第17回から大会名称のシーズン表記を、JSL1部同様「開幕年-閉幕年」へ変更
クラブ別優勝回数
クラブ別通算成績
順
|
クラブ名
|
創設
|
初出場
|
最終
|
在
|
勝点
|
試
|
勝
|
P勝
|
分
|
P敗
|
敗
|
得
|
失
|
差
|
優勝
|
最高
|
最低
|
変遷
|
後継クラブ
|
1 |
富士通 |
1955年 |
1972 |
1991/92 |
18 |
627 |
370 |
182 |
0 |
78 |
3 |
107 |
581 |
409 |
172 |
1回 |
1位 |
10位 |
|
川崎フロンターレ
|
2 |
田辺製薬 |
1927年 |
1972 |
1991/92 |
19 |
622 |
410 |
175 |
3 |
88 |
6 |
138 |
570 |
461 |
109 |
1回 |
1位 |
15位 |
|
|
3 |
住友金属 |
1947年 |
1974 |
1991/92 |
15 |
478 |
316 |
135 |
7 |
61 |
5 |
108 |
528 |
436 |
92 |
2回 |
1位 |
10位 |
|
鹿島アントラーズ
|
4 |
甲府クラブ |
1965年 |
1972 |
1991/92 |
20 |
472 |
412 |
131 |
5 |
68 |
6 |
202 |
520 |
714 |
-194 |
- |
2位 |
13位 |
|
ヴァンフォーレ甲府
|
5 |
東芝 |
1935年 |
1978 |
1988/89 |
11 |
422 |
230 |
123 |
5 |
44 |
4 |
54 |
391 |
208 |
183 |
2回 |
1位 |
7位 |
東芝堀川町→ 東芝 |
北海道コンサドーレ札幌
|
6 |
トヨタ自動車 |
1939年 |
1972 |
1989/90 |
12 |
390 |
250 |
113 |
4 |
45 |
2 |
86 |
425 |
341 |
84 |
1回 |
1位 |
9位 |
トヨタ自工→ トヨタ自動車 |
名古屋グランパス
|
7 |
京都紫光クラブ |
1922年 |
1972 |
1991/92 |
10 |
249 |
216 |
65 |
5 |
44 |
5 |
97 |
278 |
366 |
-88 |
- |
3位 |
14位 |
|
京都サンガ
|
8 |
マツダ |
1938年 |
1984 |
1990/91 |
5 |
247 |
126 |
73 |
0 |
28 |
0 |
25 |
229 |
92 |
137 |
- |
2位 |
6位 |
東洋工業→ マツダ |
サンフレッチェ広島
|
9 |
帝人 |
1960年 |
1973 |
1989/90 |
12 |
246 |
230 |
66 |
6 |
34 |
8 |
116 |
287 |
450 |
-163 |
- |
5位 |
16位 |
帝人松山→ 帝人 |
|
10 |
新日本製鐵 |
1950年 |
1982 |
1990/91 |
9 |
218 |
188 |
63 |
0 |
29 |
0 |
96 |
227 |
323 |
-96 |
- |
4位 |
16位 |
八幡製鉄→ 新日本製鐵 |
|
11 |
NTT関東 |
1969年 |
1987 |
1991/92 |
5 |
208 |
146 |
56 |
0 |
40 |
0 |
50 |
183 |
170 |
13 |
- |
5位 |
9位 |
|
大宮アルディージャ
|
12 |
川崎製鉄 |
1966年 |
1986 |
1991/92 |
6 |
203 |
158 |
55 |
0 |
38 |
0 |
65 |
188 |
197 |
-9 |
- |
7位 |
12位 |
川崎製鉄水島→ 川崎製鉄 |
ヴィッセル神戸
|
13 |
読売クラブ |
1969年 |
1972 |
1977 |
6 |
201 |
108 |
61 |
1 |
16 |
1 |
29 |
248 |
135 |
113 |
2回 |
1位 |
7位 |
|
東京ヴェルディ
|
14 |
本田技研工業 |
1971年 |
1975 |
1980 |
6 |
197 |
108 |
57 |
5 |
13 |
8 |
25 |
196 |
121 |
75 |
2回 |
1位 |
7位 |
|
|
14 |
コスモ石油 |
不明 |
1980 |
1991/92 |
7 |
197 |
184 |
53 |
0 |
38 |
0 |
93 |
199 |
279 |
-80 |
- |
7位 |
11位 |
大協石油→ コスモ石油 |
|
16 |
日立製作所 |
1940年 |
1987 |
1990/91 |
3 |
179 |
86 |
54 |
0 |
17 |
0 |
15 |
166 |
58 |
108 |
1回 |
1位 |
4位 |
日立本社→ 日立製作所 |
柏レイソル
|
17 |
日本鋼管 |
1932年 |
1980 |
1991/92 |
4 |
167 |
84 |
49 |
0 |
20 |
0 |
15 |
155 |
75 |
80 |
2回 |
1位 |
4位 |
日本鋼管→ NKK |
|
18 |
東邦チタニウム |
1955年 |
1983 |
1991/92 |
7 |
149 |
168 |
37 |
0 |
38 |
0 |
93 |
147 |
293 |
-146 |
- |
9位 |
14位 |
|
|
19 |
フジタ |
1968年 |
1990/91 |
1991/92 |
2 |
144 |
60 |
45 |
0 |
9 |
0 |
6 |
139 |
32 |
107 |
1回 |
1位 |
3位 |
藤和不動産→ フジタ |
湘南ベルマーレ
|
20 |
松下電器 |
1980年 |
1984 |
1987 |
3 |
140 |
66 |
41 |
0 |
17 |
0 |
8 |
137 |
47 |
90 |
1回 |
1位 |
3位 |
|
ガンバ大阪
|
21 |
NTT関西 |
不明 |
1972 |
1988/89 |
7 |
132 |
132 |
36 |
0 |
24 |
0 |
72 |
167 |
255 |
-88 |
- |
4位 |
15位 |
電電近畿→ NTT関西 |
|
21 |
大阪ガス |
1946年 |
1985 |
1990/91 |
6 |
132 |
150 |
34 |
0 |
30 |
0 |
86 |
122 |
282 |
-160 |
- |
6位 |
15位 |
|
|
23 |
全日空横浜 |
1964年 |
1984 |
1987 |
3 |
127 |
66 |
37 |
0 |
16 |
0 |
13 |
116 |
66 |
50 |
1回 |
1位 |
11位 |
全日空横浜→ 全日空クラブ |
横浜フリューゲルス
|
24 |
日産自動車 |
1972年 |
1977 |
1981 |
3 |
102 |
54 |
29 |
6 |
4 |
5 |
10 |
84 |
50 |
34 |
- |
2位 |
2位 |
|
横浜F・マリノス
|
25 |
ヤンマークラブ |
1972年 |
1976 |
1979 |
4 |
98 |
72 |
28 |
9 |
5 |
0 |
30 |
114 |
108 |
6 |
- |
4位 |
6位 |
|
|
26 |
大塚製薬 |
1955年 |
1990/91 |
1991/92 |
2 |
85 |
60 |
26 |
0 |
7 |
0 |
27 |
77 |
76 |
1 |
- |
6位 |
10位 |
|
徳島ヴォルティス
|
27 |
ヤマハ発動機 |
1972年 |
1979 |
1982 |
2 |
76 |
36 |
22 |
2 |
5 |
3 |
4 |
68 |
30 |
38 |
1回 |
1位 |
2位 |
|
ジュビロ磐田
|
27 |
大日日本電線 |
不明 |
1972 |
1975 |
4 |
76 |
72 |
20 |
0 |
16 |
0 |
36 |
117 |
140 |
-23 |
- |
6位 |
10位 |
|
|
29 |
西濃運輸 |
1974年 |
1985 |
1987 |
3 |
73 |
62 |
20 |
0 |
13 |
0 |
29 |
54 |
87 |
-33 |
- |
4位 |
15位 |
|
|
30 |
三菱重工 |
1950年 |
1989/90 |
1989/90 |
1 |
70 |
30 |
22 |
0 |
4 |
0 |
4 |
89 |
25 |
64 |
1回 |
1位 |
1位 |
三菱重工→ 三菱自動車 |
浦和レッズ
|
31 |
ヤンマー |
1957年 |
1991/92 |
1991/92 |
1 |
65 |
30 |
20 |
0 |
5 |
0 |
5 |
56 |
17 |
39 |
- |
3位 |
3位 |
|
セレッソ大阪
|
32 |
読売ジュニオール |
1979年 |
1990/91 |
1991/92 |
2 |
59 |
60 |
16 |
0 |
11 |
0 |
33 |
57 |
93 |
-36 |
- |
8位 |
16位 |
|
|
33 |
東京ガス |
1935年 |
1991/92 |
1991/92 |
1 |
46 |
30 |
12 |
0 |
10 |
0 |
8 |
30 |
28 |
2 |
- |
7位 |
7位 |
|
FC東京
|
34 |
永大産業 |
1972年 |
1973 |
1973 |
1 |
37 |
18 |
11 |
0 |
4 |
0 |
3 |
51 |
24 |
27 |
1回 |
1位 |
1位 |
永大産業→ 永大 |
|
35 |
日本軽金属 |
1948年 |
1972 |
1973 |
2 |
35 |
36 |
10 |
0 |
5 |
0 |
21 |
56 |
81 |
-25 |
- |
6位 |
10位 |
日本軽金属→ 羽衣クラブ |
|
36 |
古河電工千葉 |
1967年 |
1976 |
1977 |
2 |
32 |
36 |
8 |
2 |
2 |
4 |
20 |
36 |
79 |
-43 |
- |
9位 |
10位 |
|
VONDS市原
|
37 |
埼玉教員 |
1953年 |
1982 |
1983 |
2 |
28 |
36 |
8 |
0 |
4 |
0 |
24 |
28 |
66 |
-38 |
- |
9位 |
10位 |
|
|
38 |
マツダオート広島 |
不明 |
1987 |
1989/90 |
2 |
27 |
50 |
7 |
0 |
6 |
0 |
37 |
46 |
127 |
-81 |
- |
15位 |
16位 |
|
|
38 |
中央防犯 |
1982年 |
1991/92 |
1991/92 |
1 |
27 |
30 |
7 |
0 |
6 |
0 |
17 |
33 |
52 |
-19 |
- |
12位 |
12位 |
|
アビスパ福岡
|
40 |
京都府警 |
不明 |
1985 |
1986 |
2 |
25 |
34 |
7 |
0 |
4 |
0 |
23 |
27 |
89 |
-62 |
- |
10位 |
16位 |
|
|
40 |
豊田自動織機 |
1946年 |
1972 |
1973 |
2 |
25 |
36 |
6 |
0 |
7 |
0 |
23 |
34 |
70 |
-36 |
- |
9位 |
10位 |
|
|
42 |
藤枝市役所 |
1959年 |
1988/89 |
1988/89 |
1 |
10 |
20 |
2 |
0 |
4 |
0 |
14 |
11 |
38 |
-27 |
- |
16位 |
16位 |
|
|
43 |
名古屋クラブ |
1950年 |
1981 |
1981 |
1 |
7 |
18 |
2 |
0 |
1 |
0 |
15 |
16 |
72 |
-56 |
- |
10位 |
10位 |
|
|
43 |
茨城日立 |
1923年 |
1974 |
1974 |
1 |
7 |
18 |
1 |
0 |
4 |
0 |
13 |
10 |
43 |
-33 |
- |
10位 |
10位 |
|
|
45 |
TDK |
1965年 |
1985 |
1986 |
2 |
4 |
34 |
0 |
0 |
4 |
0 |
30 |
25 |
113 |
-88 |
- |
12位 |
15位 |
|
ブラウブリッツ秋田
|
は現在Jリーグのクラブ
は現在活動していないクラブ
- 勝ち点は、以下のルールで算出(勝利=3、PK勝/引分/PK敗=1、敗戦=0)
- 1977-1979の3シーズンは、90分を終えて同点の場合はPK戦を実施
- 1985-1988/89の4シーズンは下位リーグの東西ブロックによる順位決定戦を実施していたが、この試合はカウントしていない
- JSL1部との入替戦(1973-1983)はカウントしていない
- 地域リーグとの入替戦(1973-1976は全国社会人サッカー選手権大会、1977-1983は全国地域リーグ決勝大会の上位クラブとの試合)はカウントしていない
表彰
優勝チームには日本サッカーリーグ杯、総理大臣杯、日本サッカー協会杯、サー・スタンレー・ラウス杯が贈られる。
- 優勝チーム賞(サンケイスポーツ新聞社提供)
- フェアプレー賞
- ゴールデンボール賞(日刊スポーツ新聞社提供)-得点王(第26回を除き1名のみ、他は得点王として別途表彰)
- シルバーボール賞(日刊スポーツ新聞社提供)-アシスト王(第26回を除き1名のみ、他はアシスト王として別途表彰)第2回より
- スターボール賞-第2回より第8回まで
- 敢闘賞-第3回より第8回まで
- 新人王(東京新聞・中日新聞社、東京中日スポーツ提供)-第9回より
- ベスト・ゴールキーパー賞(ウールスポーツ/リーベルマン海外提供)-第23回より
- 最優秀選手賞(スポーツニッポン新聞社提供)-第24回より
- 報知・年間優秀11人賞(報知新聞社提供)-(ベスト11)第2回より
- クリーン&エキサイティング賞(カルビー提供)-最優秀賞1名を含む優秀賞各クラブ1名(第25回より)
- 100(200)試合出場選手-100試合ごと(272試合出場の永井良和以下17名が200試合出場)
- 100(200)得点-100得点ごと(100得点以上の条件を満たしたのは釜本邦茂のみ、200得点表彰も受賞)
- 優秀監督賞(アシックス提供)
- 優秀監督奨励賞(ニッポン放送提供)-第26回より
- 優秀審判員賞-第27回より
- 主審30(60)試合出場-30試合ごと(85試合出場の佐野敏一以下12名が60試合出場)
キャンペーン・ポスター
日本リーグ20周年を記念して、それまでの感謝と新時代の到来をアピールするために博報堂が制作した。以後、その年のサッカーを象徴するまたはサッカー界へのメッセージが込められたポスターが発表された。
- 第20回(1984)「格闘技宣言。」(モデル:釜本邦茂)
- 第21回(1985)「見せてくれ、蹴闘。」(モデル:明石家さんま)
- 第22回(1986/87)「サラリーマンサッカーの時代は終った。」(モデル:奥寺康彦=古河)
- 第23回(1987/88)「ことしは、牛若サッカーです。」(モデル:武田修宏=読売)
- 第24回(1988/89)「仏の顔も、二十三回までだ。」(モデル:釜本邦茂)
- 第25回(1989/90)「クリーン&エキサイティング」(モデル:なし=試合写真)
- 第26回(1990/91)「ペレストライカー」(モデル:デビッド・ロイド・オースチン、ミハエル・ゴルバチョフのそっくりさん)
- 第27回(1991/92)「ガンバレ!!ペレストライカー」(モデル:アーチー・ケッセル、ジョージ・ブッシュのそっくりさん)
放送
主に日本教育テレビの「ビッグスポーツ」、東京12チャンネルの「サンデースポーツアワー」で、注目カードの中継を行っていた。
1974年には10試合だけフジテレビでも中継され、解説に杉山隆一、実況は岩佐徹が務めた。国立競技場での中継では来日していたペレがゲスト出演し、機嫌よく話してくれたものの、話があまりにも長く、とうとう、岩佐は恐れ多くもペレの話をBGMのように扱って実況した[32]。
JSL主催のその他の公式戦
脚注
注釈
- ^ 優勝賞金3万5,000ドル(1,050万円)は通常のダブルス大会の7倍。ローラ・ボーらの活躍で人気のあったPGAツアーの高額大会の2倍[20]。
- ^ 当初は当時の世界最強チームの一つ、西ドイツ代表が来日と発表されていたが、バイエルン・ミュンヘンに変更になった[21]。
- ^ 古河電工は、創設時の8クラブで唯一JSL2部への降格経験がない。
- ^ 名古屋相互銀行は、1971シーズンにJSL2部への降格が決まると活動を休止したため、JSL2部の参加経験はない。
- ^ Jリーグ百年構想クラブ。
出典
- ^ a b c d 沿革・歴史|JFA|日本サッカー協会
- ^ a b c d e f g h 「サッカー (PDF)」『Web Japan』外務省、1–4頁。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e f 今も日本サッカーの父 - 日刊スポーツ(Internet Archive)
- ^ a b c d e f g h i j 中条一雄. “クラマー取材ノートから (37)日本リーグの錦の御旗”. 牛木素吉郎&ビバサッカー!研究会. 2024年10月18日閲覧。“日本サッカー・リーグ50年(3)”. 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評 (2015年7月1日). 2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #平塚,pp46-53
- ^ Jリーグの基礎である日本サッカーリーグ27年間、ラモス瑠偉 オフィシャルウェブサイト、2013年5月16日
- ^ 国吉好弘「クラマーが残した「4つの提言」。1965年の日本サッカーリーグ誕生◎J前夜を歩く第36回」『サッカーマガジンWEB』ベースボール・マガジン社、2021年8月18日。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g 国吉好弘「初代王者は高校のグラウンドがホーム【連載◎J前夜を歩く第1回】」『サッカーマガジンWEB』ベースボール・マガジン社、2020年1月25日。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e スポーツニッポン 2016年10月17日22面『我が道 岡野俊一郎』より。
- ^ a b “変革へ劇薬 ルーツ監督”. ニッカンスポーツ (2008年2月19日). 2012年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月23日閲覧。
- ^ a b c d オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)、多くの困難を乗越えて日本サッカーリーグ開幕|賀川サッカーライブラリー
- ^ a b c d e f #大住後藤,pp210-216
- ^ #長沼,pp34-36
- ^ 「『朝日新聞』(朝刊)-70年代から80年代へ話題を追って- 第13回(12月24日) ブーム裏に『企業の論理』」『宣伝会議』1980年9月臨時増刊号、宣伝会議、251–252頁。
- ^ a b c d e f g 賀川浩 (1994年7月). “日本サッカーリーグの創世記をリードした東洋工業”. 賀川サッカーライブラリー. 2024年10月18日閲覧。
- ^ 鈴木誠 (2023年9月23日). “松木安太郎が真面目にぶっちゃけた日本サッカー界「5つの派閥が牛耳る」タブー”. アサ芸+. 徳間書店. 2024年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b 後藤健生「鹿島アントラーズvsサンフレッチェ広島が魅力的な攻防を展開 古豪同士の対決はなぜ人々の心を打つのか (4ページ目)」『web Sportiva』集英社、2024年9月17日。2024年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。
- ^ 森谷達也「広島のサッカー1 サンフレ 蹴球熱の結晶」『読売新聞オンライン』読売新聞社、2023年2月23日。2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。「広島サッカーの歴史」サンフレッチェ広島、2022年。2022年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e #平塚,p-6
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab “【タイムリーアップ】 沈没サッカー ギッコンバッタン人気は浮気者? ソッポ弱い全日本 日本リーグ初の赤字 若い芽は育ったが 上昇テニス 賞金3千万円(総額) 入場券も売り切れ”. デイリースポーツ (神戸新聞社): p. 11. (1975年4月9日)
- ^ a b c #後藤,pp176-179
- ^ a b c d e f g h #平塚,pp53-63
- ^ a b c “長沼健氏 サッカー一筋決意 会社も全日本監督もやめ コーチ制度確立に全力”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 5. (1969年2月11日)
- ^ #後藤,pp102-142
- ^ a b “<日本代表を作った男たち 長沼健>”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社): p. 5. (2007年4月25日)
- ^ 賀川浩 (1994年7月). “オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)”. 賀川サッカーライブラリー. 2024年10月18日閲覧。六川亨「宮本会長誕生で思い出すJFA会長ヒストリー/六川亨の日本サッカーの歩み」『超ワールドサッカー』コーエーテクモホールディングス、2023年12月29日。2023年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h #平塚,pp29-33
- ^ a b c d e f g h i j #平塚,pp33-40
- ^ #後藤,pp212-213
- ^ a b 石川泰司「SPORTS LOOK 実情は倍以上なのに日本サッカー界のプリンスがハラタツ君ほど顔を知られていない理由 木村和司」『サンデー毎日』1985年6月9日号、毎日新聞社、12–13頁。
- ^ a b c d e f g h #後藤,pp240-242
- ^ サッカー中継・小史~岩佐徹的アナウンス論70~12/09/02
出典(リンク)
参考文献
関連項目