水沼貴史
水沼 貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。 Jリーグ発足前に、人気が低迷していた日本サッカー界を支えた人物の一人。 略歴選手として本太少年団でプレーし、浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)では3年生の時に全国制覇。その後進学した浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)では、名将・松本暁司監督の指導の下で1年生の時からレギュラーに定着。全国高等学校サッカー選手権大会決勝では静岡学園高等学校を破って優勝。 卒業後は法政大学に入学しサッカー部に所属。総理大臣杯を2度制した。その後、関東大学サッカーリーグ2部へ降格するが、4年生時に自らのゴールで1部復帰を果たした。 1979年にはU-20サッカー日本代表として、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。1次リーグ最終戦となったメキシコ戦でチーム唯一の得点を記録している。 1983年に日産自動車サッカー部へ入部。主戦場の右ウイングには日本代表の木村和司がいたが、加茂周監督が木村を攻撃的MFにコンバートし、水沼が右ウイングのポジションでレギュラーを獲得[1]、1983年、1985年の天皇杯優勝を始め、1988-89、1989-90シーズンの2年連続三冠に貢献するなど、金田喜稔、木村和司らと共に日産の黄金期を築いた。なお、水沼は、Jリーグ以外の各カテゴリー(小中高大、社会人)の全国大会で優勝を経験した数少ない選手である。1989年元旦、第68回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝のフジタ戦では先制ゴールを挙げて勝利に貢献した。1991年、これまでレギュラーを務めてきたが、前期リーグ戦でチームは低迷したため、後期のリーグ戦ではオスカー監督の決断でベンチ要員となることもあった[2]。 日本代表としては、1984年3月8日のブルネイ戦で代表デビュー、同年の9月30日、日韓定期戦にて挙げたAマッチ初ゴールはこの試合の決勝点となり[3]、アウェーで初めて韓国を下す歴史的な勝利に貢献[4]。1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では1次予選第4節のシンガポール戦で決勝点となった先制ゴールを[5]、2次予選の香港戦第1戦でゴールを挙げ[6]、最終予選進出に貢献したが、最終予選の韓国戦第1戦では先発フル出場したが決定的な仕事が出来ず1-2と敗れ、第2戦ではベンチ外となり、チームは0-1と敗れ[7]、ワールドカップ出場権は得られなかった。1987年のソウルオリンピック予選ではトップ下を任され、アウェー中国戦で、原博実の決勝ヘディングゴール(1-0で勝利)を演出するなど、本大会出場王手に貢献したが、引き分けでもオリンピック出場権が得られるホームでの第2戦で0-2と敗れ本大会出場はならなかった[8]。1989年の1990 FIFAワールドカップ・アジア1次予選では初戦の香港戦、第2戦のインドネシア戦では僅かな出場時間しか得られなかったが、北朝鮮との第3戦で先発起用されると0-1から同点ゴールを挙げ[9]、2-1での勝利に貢献した。1989年8月4日、エヴァートンFCとの親善試合に出場してゴールを挙げたが、この試合が代表最後の試合となった。 1993年、元旦の天皇杯決勝、読売戦では先制ゴールを決めて優勝に貢献した[10]。5月15日、Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦に先発出場、マリノスの決勝点に繋がるシュートを放つなど、勝利に貢献[11]、11月17日、セカンドステージ第13節のガンバ大阪戦でJリーグ初ゴールを決めると[12]、続く11月21日、第14節のサンフレッチェ広島戦では決勝点を挙げて[13]2試合連続で得点を記録した。12月1日、第16節の名古屋グランパス戦のゴールはJリーグ500ゴール目のメモリアルゴールとなった[14]。 翌1994年は第4節のヴェルディ戦でゴールを挙げて勝利に貢献[15]、第7節のジェフ市原戦でゴールを決めたが、これが現役最後のゴールとなった[16]。セカンドステージからはベンチスタートあるいはベンチ外となるなど、15試合、2得点に終わった。 1995年、自らの希望でチームとの契約を半年間だけ結び[17]、1stステージの開幕戦鹿島アントラーズ戦で先発し51分までプレーしたが[18](この試合が現役最後の試合となった。)、この試合で負傷したこともあり、以降ホルヘ・ソラリ監督の下では出場機会が訪れず、また後任の早野宏史監督から引退を勧める様な言葉をかけられたこと、マリノスの選手として引退したいという希望もあり、引退を決めた[18]。1995年7月30日に木村和司の引退試合に出場、この試合は水沼にとっても事実上の引退試合となり、翌日には正式に引退を表明した[19]。奇しくも、この年の横浜マリノスは、サントリーシリーズで初のステージ優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップでヴェルディ川崎と争い、Jリーグ発足後初めて年間チャンピオンになった。 引退後現役時代から、ゲストとして試合の解説を務めることもあったが、引退後はサッカー解説者として活動、また1996年から2006年1月までTBS『スーパーサッカー』(現役選手だった第2回放送でゲスト出演歴がある)のご意見番役として出演。また『ニュースの森』毎週月曜日に「ワールドサッカーパラダイス」のコーナーも担当した他、昼のワイドショー番組『ジャスト』の月曜日コメンテーターとしても出演していた。テレビ神奈川、ニッポン放送サッカー解説者で、2006年1月までテレビ神奈川では『キックオフ!!F・マリノス』のパーソナリティーも務めていた。また2002年10月から2003年3月にはTBSラジオ『水沼貴史のスポーツボンバー!』等も担当した。2003年から2005年までは、母校の法政大学コーチとして後輩を指導した。また2004年にS級ライセンスを取得した。 2006年2月1日から2007年1月31日の1年契約で、横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。それに伴い、『スーパーサッカー』『キックオフ!!F・マリノス』の両番組は降板(卒業)となった。さらに2006年8月24日には成績不振で辞任した岡田武史の後を受け、監督に就任。J2降格は免れたが、具体的な戦略がない状態での就任という事もあって不振は続き、天皇杯終了後に辞任する事が決定した。2007年は再び横浜F・マリノスのコーチに就任したが1年で退任となった。なお、マリノス出身の元選手が横浜F・マリノスの監督になったのは、水沼が初めてであった。 2008年2月、法政大学体育会サッカー部のコーチに再び就任する事が発表された。 2010年2月、東京23サッカークラブのテクニカルアドバイザーを務めている。 その他、スカパー!、J SPORTSなどでサッカー解説、夕刊フジに毎週土曜(日曜付け)のコラム「蹴球7Days」、NumberWebで「水沼貴史のNice Middle!」を執筆 2012年1月22日、松田直樹メモリアルゲームにて、横浜F・マリノス・OBの監督に選出された。 2020年3月8日、蹴球メガネーズとして北條聡、川端暁彦と共にYouTube登録。『水沼貴史のウィキペディア検証』企画を不定期更新。 プレースタイル高い技術と優れたサッカーセンスを持ち[20]、相手の意表をつく独特のプレーと[21]、ドリブルを武器に活躍した[22]。また、重要な局面で得点を奪うことも多く、特にボレーシュートを得意としていた[21]。 所属クラブ現役時代指導者時代
個人成績
その他の公式戦
代表歴試合数
出場
得点数
獲得タイトル学生時代
日産自動車/マリノス個人タイトル
監督成績
脚注
関連項目外部リンク
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