富士山
富士山(ふじさん)は山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)と静岡県(富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町)に跨る活火山である[注釈 3]。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)[注釈 4]の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。 数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来より霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山[2]、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている[注釈 5]。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された[4]。 名称語源富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山[注釈 6]と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説もある[注釈 7]。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある[注釈 8]。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説[6]、原ポリネシア語説がある。 明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり[7]、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。 富士山にちなむ命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山麓では静岡県に富士市や富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市や富士河口湖町、富士川町(静岡県庵原郡にもあった町名である (富士市に編入されている) )がある。他によくあるものとして富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠したりする例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。 全国各地には、別称を含めて少なくとも340座と言われる「富士」と名の付く山があり[8]、それらを郷土富士と呼ぶ。 →詳細は「郷土富士」を参照
地名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。 →詳細は「フジ」を参照
また、異名として「芙蓉峰」「富嶽」とも言う。 →詳細は「芙蓉」および「富嶽 (曖昧さ回避)」を参照
小惑星 (3996) Fugakuは富嶽にちなんで命名された[9]。 理化学研究所・計算科学研究センターが擁するフラッグシップスーパーコンピュータ「富岳」は、富士山の最高峰としての性能の高さと、すそ野の広さとしての汎用性の象徴として命名された[10]。 富士山の標高富士山は独立峰でよく目立ち、日本の最高峰であることからその高さが注目されてきた。福田履軒が観測する以前の認識としては、『月刈藻集』に「直立25町」(2750ⅿ)、『塵塚物語』に「96町あり」(1万560m)と諸説見られた[11]。 標高計測の歴史以下は、江戸時代からの富士山の標高計測の経緯である[12]。 明治初期までに測量された富士山の高さ
箱岩英一(2003):「地質ニュース」pp.23-30、2003年10月 による。 ※鈴木弘道(1998):「Height of Mountains」、1998年9月 最新の標高標高として言及されるものには、次の2つがある。 三角点の標高(3775.51 m)山岳の標高としてよく引用される。それは主な山岳の最高地点近くに三角点が設置されて、その標高が精度良く(cm単位で)計測されており、かつ国土地理院の2万5千分1地形図に標高値が記載されているからである[注釈 9]。しかし三角点は近傍の山岳との見通しや設置位置の安定性を重視して設置されることから、山岳の最高地点に設置されるとは限らない[14]。 富士山では、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の高さが3775.51 mである。2014年4月1日付け標高改定前の数字は3775.63 mであった[15]。 山体の最高標高 (3776.12 m)三角点の高さが必ずしも山岳の最高標高とは限らないことから、最高標高の数値が別途に計測されることがある。例えば、国土地理院は日本の主要な1003の山岳について「日本の主な山岳標高」として公表している[16]。最高標高の地点は岩体の高さなどであって、必ずしも三角点の標高とは限らないため、「日本の主な山岳標高」での山岳標高の表示は1 m単位となっている。この「日本の主な山岳標高」によれば、富士山の高さは3776 mであり、その位置は35度21分39秒 138度43分39秒である。 2014年時点の富士山の最高地点は、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩の頂上であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、3776.12 mとなり、これが富士山、及び日本の最高標高である[注釈 10][17][18][15]。 他山の標高
地質学上の富士山地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい山体を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。
この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた[19]。 古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3000 m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2 kmのところにあったと考えられている。 2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市 - 富士吉田市間で約2 cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)表れとされている[20]。 プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレートまたはオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフおよび伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点)となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである[21][22]。富士山の火山上の特徴には、側火山が非常に多いこと[23]、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し[23]、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること[23]がある。
→詳細は「宝永山」を参照
以下は富士山の主な側火山と標高である(標高は資料により違いがある)。
源流の河川源流となる以下の河川は4水系に区分され、すべて太平洋へ流れる。 富士山と火山活動富士山の噴火→詳細は「富士山の噴火史」を参照
最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500–2800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。 新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8000年前の3000年間と、約4500年前–約3200年前の1300年間と考えられている。山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で[27]、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。 延暦19年 – 延暦21年(800年 ‐ 802年)に延暦噴火(『日本後紀』、要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある)、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火が起きた。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4 cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。 噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。 宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。 宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。 2013年7月20日、産業技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し[28]、2016年には修正加筆が終了した[27]。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。 山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑(がんせつ)なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされている[29]。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。
災害対策
地殻変動の観測政府系機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)や自治体(山梨県富士山科学研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。
噴出物災害などへの対策
富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6 °Cしかなく[43]、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0 °C以上10 °C未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は1981年2月27日に観測された−38.0 °Cで、最高気温が−30 °C未満の日も過去に数回観測されている。−30 °Cを上回ることがない1日というのは北海道でも例がない[44]。
→「富士登山 § 気候」も参照
富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。 →詳細は「富士山測候所」を参照
気象現象
富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。 伏流水富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670 m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万 m3以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例がある[51]。
また、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25 m付近)で湧出があるとされている[51]。 富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとしてペットボトル詰めされ、販売されている。 溶岩洞窟富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。 その中でも総延長2139 mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。 植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している[52]。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。 人間との関わりの歴史古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため明治時代まで女人禁制の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。 →詳細は「富士信仰」を参照
古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。 それより後期の時代、イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。 登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。 神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった[53]。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 – 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。 江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという[53]。 富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。 明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ[54]。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった[53]。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。 富士山は2011年(平成23年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である[55]。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された[56]。 登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。
2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初の閉鎖となった[注釈 21][64][65]。 富士山を巡る利権争い山役銭と内院散銭山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭[注釈 22]を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭[注釈 23]は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという[66]。内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」[注釈 24]と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている[67]。須走は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている[68]。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている[53]。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった[69]。 新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」[注釈 25]と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある[70]。 元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏[注釈 26]らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された[71]。 安永の争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論[注釈 27]が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済[注釈 28]も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された[注釈 29]。 この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。 富士山の山頂富士山の最頂部は剣ヶ峰と呼ばれている[72]。『甲斐国志』によると剣を立てたような形に由来するという[72]。また『駿河国新風土記』によるとこの峰にある石が鋭利だったことから剣の代わりの道具に使うため人々が持ち帰ったと記している[72]。 山頂部の所有先述のように江戸幕府は1779年(安永8年)に富士山八合目より上は富士山本宮浅間大社のものとした[72]。明治時代になり寺社の土地は国有化されたものの、第二次大戦後にこれらの土地は返還されることになったが、富士山八合目以上は公益性が高い土地であるとして国有地のままになった[72]。しかし、富士山本宮浅間大社は富士山信仰のために富士山八合目以上の土地も返還するよう国を提訴した[72]。 国と富士山本宮浅間大社の訴訟は17年間にわたったが、1974年(昭和49年)に最高裁判所は富士山本宮浅間大社の主張をほぼ認める判決を出した(ただし判決で国にとって必要な一部の土地は除外された)[72]。 県境及び市町村境の扱い登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。ただし、気象庁は富士山測候所の所在地を便宜上「富士宮市富士山剣が峰」と定めていた。一方、旧須走村も山頂までを村域としたことから、小山町は現在も自らを「富士山頂のあるまち」と宣伝している。 →「富士山測候所 § 所在地」、および「小山町 § 地理」も参照
2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見において、静岡・山梨両県知事の川勝平太と横内正明が今後も県境を定めないことを明言した[73]。国土地理院がインターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された[74][75]。 なお、JP日本郵便では「駿東郡小山町須走本八合目」という住所を交通困難地に指定し、小山町の集配を受け持つ御殿場郵便局で留め置く対応をしている[76]。 →詳細は「交通困難地 § 東海地方」を参照
第二次世界大戦1945年(昭和20年)7月10日、富士山頂にあった富士山測候所にアメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた[77]。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日誌』を通じて残されている。 →「富士山測候所 § 『カンテラ日誌』」も参照 また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている[78]。 →「ダウンフォール作戦 § コロネット作戦」も参照
富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は1952年(昭和27年)10月7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された[注釈 30]。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された[79]。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1500 m以上の地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている[80]。 富士山の眺望富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した。また2017年には環境省および都県・市町村が中心となり、「富士山がある風景100選」が選定された。富士箱根伊豆国立公園指定80周年記念事業に伴うものである。 →詳細は「富士山がある風景100選」を参照
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。 東海道新幹線においても、良好な眺望を得られる際は車内アナウンスが行われる。 富士山を見ることができる最遠地は富士山頂から322.9キロメートル離れた和歌山県那智勝浦町にある色川富士見峠(妙法山とは別)である[81][82][83]。また、眺望の北限は2017年1月16日に富士山から308キロメートル離れた福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と、日本地図センターにより認定された[84]。南東方向に約271 km離れた八丈島の三原山からも眺望される[82]。2014年に、理論上可能とされていた京都府からの撮影に成功したことにより[85]、富士山の見える都道府県は、 20都府県となった(福島・栃木・茨城・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟・富山・山梨・静岡・長野・岐阜・愛知・滋賀・三重・京都・奈良・和歌山)[86]。 様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。
「表富士」と「裏富士」現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが[88]、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある。
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景 裏不二』[注釈 31]『冨嶽三十六景 身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されている例がみられる。 富士山の文化学術研究活火山かつ日本最高峰で、広大な山麓を持つ富士山は、自然科学と人文科学の両面で研究対象となっている。火山防災や地質学、気象学、生態系といった自然科学では山梨県富士山科学研究所(富士吉田市)、人文科学を含む学際的研究では静岡県富士山世界遺産センター(富士宮市)や富士学会といった専門の研究機関・団体もある。 地形の険しさや山頂近くの強風により、野外で実地踏査できるのは富士山の5–10パーセント程度であり、植生が不明なエリアも多い。上空からの観測・撮影も、ドローンの上昇限界が2750メートル程度という制約がある[89]。 美術における富士山富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である(1069年・延久元年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。 鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた[注釈 32]。 室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には三峰型の富士とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、伝雪舟作『富士三保清見寺図』(永青文庫所蔵)は、三保の松原と富士山を同一画面に収めた作品であり、静岡市日本平からの眺望とされている[91]。雪舟型の富士山図は江戸時代を通じて写しの手本とされ、狩野派を中心に数多くの作品が派生している。 江戸時代には、1767年(明和4年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。葛飾北斎は、河村岷雪の手法を援用した、富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(1831年 - 1834年・天保2年–5年頃)、および、絵本『富嶽百景』(全三編。初編1834年・天保5年)を出版した。前者において、舶来顔料を活かした藍摺などの技法を駆使して富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。後者は墨単色摺で、旧来の名所にこだわらず、天候描写に拘るなど、抽象性が高まっている[92]。 また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』『富士見百図[93][94]』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている[95]。 富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された[独自研究?]。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し[要出典]富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。 富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
その後も富士山は大日本帝国により日本国および聖俗両面の統治者である天皇を中心とした日本独自の政治体制である国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。これは太平洋戦争(第二次世界大戦、大東亜戦争)で日本と戦ったアメリカ合衆国にも共有された概念で、反日感情を煽るアニメやポスターなどの戦意高揚創作でも富士山が取り上げられた[要出典]。また、軍事目標としての富士山頂への攻撃も行われた(後述)。 戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として[独自研究?]、日本画家の横山大観[97]や片岡球子[98]らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる[要出典]。 深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。 日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている[要出典]。 近代では紙幣や切手のデザインにも用いられている。
文学における富士山富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(巻3・318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。 また、この反歌のその次には高橋虫麻呂による富士を讃えた長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。 『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。
都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。 『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している[106]。 ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。 また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表している[107]。 中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。 富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。 また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。 太宰治が1939年(昭和14年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』[注釈 33]をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。 高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない[108]。 富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視している。山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題[109]、世界遺産登録問題[110]等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。 富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠である[111]。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている[112]。 とくに積雪期・残雪期の登山は極めて危険である[112]。 →詳細は「富士登山」を参照
その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。
富士山の日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。
静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。 静岡県教育委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。 なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。 富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい[113][114]。 富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。 地域間交流富士山の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[115][116]。 2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[117]。標高3952 mの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。 備考文字
ギャラリー脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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