太陽を盗んだ男
『太陽を盗んだ男』(たいようをぬすんだおとこ)は、1979年10月6日に公開された日本映画。沢田研二主演・長谷川和彦監督[1]によるアクション映画。脚本は長谷川とレナード・シュレイダー[2]。製作はキティ・フィルム、配給は東宝[3]。音楽担当は作曲が井上堯之、編曲は星勝。 概要「原爆を作って政府を脅迫する」という内容の日本映画[3][4][5]。大掛かりなカーアクション[6][7][8]、国会議事堂や皇居前、首都高速をはじめとしたゲリラ的なロケーション[9][10][11]、シリアスで重い内容と、エネルギッシュな活劇要素が渾然となった作品である[5][12][13][14][15][16]。 原子爆弾製造や皇居前バスジャックなど、当時としてもかなりきわどい内容[9][17][18][19][20][21]。胎内被曝者でもある長谷川和彦監督の社会に対する辛辣なメッセージがエンターテインメントとして炸裂している[16][22]。 公開時、数々の映画賞に輝いたが[5][23]、本作は長らくカルト映画の位置付けで[8][23][24][25]、発売されていたビデオも廃盤になるとレンタルビデオ店でも見つからず[23]、視聴が困難な時期があり[26]、『狂い咲きサンダーロード』との邦画2本立ては、1980年代の名画座の定番プログラムであった[8][27]。 しかし、年々一般的な評価を高め[14][23][28][29][30][31]、『キネマ旬報』1999年「映画人が選んだオールタイムベスト100」日本映画篇では13位、2009年「オールタイム・ベスト映画遺産200(日本映画編)」〈日本映画史上ベストテン〉では歴代第7位に選ばれた[11][15][28][32][33]。1970年代以降の作品としては、『仁義なき戦い』の第5位に次ぐものである。『キネマ旬報』2018年8月上旬号「1970年代日本映画ベスト・テン」では『仁義なき戦い』を逆転し、第1位に選ばれている[11][34][35]。 あらすじ中学校の理科教師である城戸誠(沢田研二)は、日頃から遅刻を繰り返したり無気力な教師であった。 そんなある日、生徒たちを引率して原子力発電所の社会科見学を終えた時、突如として大量の火器を持つ老人にバスジャックされる。彼の要求は「ただちに皇居へ向かい、天皇陛下に合わせろ」。誠と生徒らを乗せたバスは一路、皇居へと向かう。 事件を解決すべく、丸の内警察署捜査一課の山下警部(菅原文太)らによる犯人確保と人質救出作戦が始まった。山下は誠と協力し、老人の前に白旗を持って現れる。生徒達を盾にしてバスを降りてきた老人を、山下は咄嗟に取り押さえる。そして狙撃犯により老人は倒れ、山下は自ら傷を負いながらも救出してみせた。一連の出来事に誠はただ圧倒されるしかなかった。 それから誠は変わった。休み時間に学校のネットをよじ登る、授業は学級崩壊を気にせず延々と原子力や原爆の作り方についての講義を行う等の奇行が始まった。しかし、これは彼がこれから起こす犯罪のためのトレーニングだった。 ある日、誠は茨城県東海村の原子力発電所[注 1]から液体プルトニウムを強奪し、アパートの自室で悪戦苦闘しつつも[注 2]原爆を完成させた。そして、精製した金属プルトニウムの欠片を仕込んだダミー原爆を国会議事堂に置き日本政府を脅迫し、その交渉相手として山下警部を指名する。 誠の第1の要求は「プロ野球のナイターを試合の最後まで中継させろ」。電話を介しての山下との対決の結果、その夜の巨人対大洋戦は急遽完全中継される。快哉を叫ぶ誠は山下に「俺は『9番』」と名乗る[注 3]。 第2の要求を何にするか思いつかずに迷う誠は、愛聴するラジオのDJ・ゼロこと沢井零子(池上季実子)を巻き込む。多数のリスナーも交えた公開リクエストの結果、誠の決めた第2の要求は「ローリング・ストーンズ日本公演」[注 4]。これにも従わざるを得ない山下だったが、転機が訪れた。原爆製造のため借金したサラ金業者に返済を迫られた誠が、出した第3の要求「現金5億円」であった。山下は現金の受け渡しなら犯人は必ず現れると奮起する。電話での会話を好む、逆探知の時間を把握していてギリギリまで話す誠のクセを逆手に取り、電電公社に電話の逆探知時間を短縮させる[注 5]罠を仕掛ける山下。その作戦は的中し、逆探知により誠が東急デパートの屋上から電話をしていることが判明し、東急デパートの出入口を警察が封鎖する。初めて作戦が失敗した誠はトイレに駆け込むも歯茎から出血、突然の吐き気が襲うなど被曝の症状が進んでいる事を知り、動揺もあり封鎖を突破することが難しいと観念した誠は、山下に原爆のありかを教え、原爆のタイマー解除を交換条件として、持ってきていた5億円を屋上からばら撒くことと封鎖を解くことを指示する。一万円札が空から降ってきて大騒ぎになっている街の中を、誠は逃げ切ることに成功する。 原爆を回収した山下たちは、起爆装置を解除することに成功したが、解体までは作業が進んでいなかった。誠は原爆が保管されているビルを襲い原爆を奪取すると車で逃走、追跡する警察との激しいカーチェイスの末、零子が事故の巻き添えになる。誠は一時的な感情の落ち込みを見せるものの、無表情のまま再び原爆を組み上げるのであった。 ローリングストーンズ公演の日、ついに山下と誠は対峙する。ローリングストーンズの来日はもともと予定されておらず、観客にわざと暴動を起こさせ全員まとめて逮捕、その中から犯人を洗い出すという作戦であった。誠は山下を原爆を置いていたビルの屋上まで連れて行って銃で撃つが、銃弾を何発も身に受けながらも、山下は誠を道連れにしようと屋上から転落する。山下は全身を強打して殉職したものの、誠はどうにか生き長らえる。 誠は被曝で弱った上に転落で負った怪我で流血が止まらないまま、原爆を持ちながら街を歩き、原爆の爆発音とともに映画は終わる。 キャスト
スタッフ
制作の経緯制作までキティ・フィルムの多賀英典社長は、本作及び、キティ・フィルムの設立は、長谷川和彦が黒澤満と伊地智啓を誘って、日活を離れて自分たちで映画を作りたいと僕の会社に来てくれたのが始まりと述べている[38]。多賀はポリドールの音楽ディレクター・プロデューサーとして、小椋佳や井上陽水らを手がけ、独立してキティ・レコードを作ったが[39]、自分の事業を展開していくにはどうしても映画が必要という目論見を持っていた[39]。 山本又一朗プロデューサーは、多賀英典社長が出資し、プロデューサーが自分で、脚本が村上龍、監督が長谷川和彦という座組みで映画を創ろうと話し合っていたと述べている[40]。座組みには長谷川の助監として相米慎二もいて[39]、伊地智は「梁山泊みたいなヤバイところに来てしまった。こんな面子では映画は出来るわけはない」と思ったという[39]。その通り畑違いの人間の集まりで上手くいかず、山本はグループを抜けて『ベルサイユのばら』の企画に移った[38]。村上龍は長谷川のために5本の脚本を執筆した(その中には、後の小説『コインロッカー・ベイビーズ』の原型となったものもある)が[41]、いずれも長谷川は却下した[38][41][42]。 多賀は、「長谷川が村上龍を僕に紹介し、村上の脚本で行くとなっていたのですが、長谷川が全部ボツにしてレナード・シュレイダーと組んで『太陽を盗んだ男』をやることになったのです。最初は山本又一朗も関わっていたのですが、山本は途中で抜けて『ベルサイユのばら』の製作でフランスに行き、帰って来たところで、予算オーバーは僕が責任を持つからと『太陽を盗んだ男』の製作を進めさせました。結局、伊地智はプロデューサーからは外れて、実際のところは山本がプロデューサーになったんです」と証言している[38]。 企画・脚本一人になった長谷川は1977年春にアメリカに行って、レナード・シュレイダーと知り合い仲良くなった[41][23]。お互いの生い立ちなどを話し、長谷川が広島の生まれで[6][9]胎内被曝児であることなどを話すと、「それでお前のあだ名は"ゴジ(ゴジラ)"なのか」「いや、それはまた別の話だ」などの話をし[23]、「そのうち一緒に仕事をしよう」と言って別れたが、あまり期待はしていなかった[5][23][26]。シュレイダーは長谷川の生い立ちからインスピレーションを受け、また雑誌『アサシン』で個人でも原爆を作れるという記事を読み、それらからプロットを着想した[26][43]。『アサシン』は「カストロの殺し方」みたいな特集を載せるバカフリークな雑誌だった[43]。 1977年6月にシュレイダーが日本に来て[41]、長谷川に「被爆者のお前が撮るべきだ。その方が世界に与えるインパクトが大きい」と言った[23][41][43]。シュレイダーは「何でもない普通の青年が原爆を作って9番を名乗り、時の政府を脅迫する。その第一の要求は“テレビのナイター中継を最後まで放送しろ”で、最後に金をさらって女とブラジルあたりに逃げる」というプロットを長谷川に提示した[23][44]。長谷川は「そのラストではせっかくの原爆のプロットが生きないので、原爆を作る過程で被爆させること」と提案したら[23][45]、シュレイダーは明るく楽しい痛快アクション喜劇を目指していたため、「映画がヒットしない方向に走っている」と大反対した[46]。大喧嘩になったが、娯楽映画だけでは駄目だと長谷川が押し切った[46]。 またシュレイダーは9番と敵対する刑事を三波伸介か伴淳三郎のようなコミカルな人物像をイメージしていたが、「むしろ『野良犬』の三船敏郎が30年後に生き返ったような刑事にしてくれ。そういう男と男の対決のドラマにしてホモセクシュアルな関係になってもいいから、ある種の父殺しの話にしようじゃないか」と注文を出した[43][44]。シュレイダーはドストエフスキーを彷彿とさせる脚本を書き上げ、当初は中学教師城戸が、何故犯罪を犯すのかの理由が必要だろうと、校長と喧嘩するとか、同僚の女教師とファックするとか色々デッサンはあった[43]。高倉健が新幹線大爆破するには、それだけの理由があるが、長谷川がそれが映画をつまらなくしていると考えていたから[43]、主人公の少年と家族の関係を全てカットし、他人に触れ合うシーンは全部切り[43]、都会で孤独に生きる人物像として中学校の教師とした。脚本は完成するまでにさらに2年を要した[44]。後に助監督として参加する相米慎二と制作進行の黒沢清も執筆に協力し、脚本作成に1年かけた[23]。 制作決定時期は不明だが、長谷川はフランスに滞在していた山本に「帰国したら一緒に映画を作りたい」という手紙と『笑う原爆』と題した脚本を送った[40]。脚本は面白く、長谷川のライターとしての才能に感銘したが[23]、電話帳二冊分くらい分厚く[23]、製作費にも現実味がないと山本は断ったが、長谷川と助監督の相米慎二は帰国した山本の説得にあたり、ついに「破産するかもしれないが、賭けてみたい」と製作を決めた[23][40]。山本としては「『太陽を盗んだ男』を日本で初めて外国に出せる現代劇にしたい」[47]「1本目の『ベルサイユのばら』で果てせなかった夢を、2本目の本作でクオリティーの高い作品を作り、5年以内にハリウッドで映画を作りたい」という思いがあった[47]。長谷川は「山本は最初は何者か知らなかった。彼は自分で作った会社を出てキティに身柄を預けていた。多賀社長をアシストする形だったんだけど、俺の方の企画がうまくいかない間に『ベルサイユのばら』を始めた。最初あいつに相談を受けたとき、また大ボラが始まったとしか思わなかったからね。パリにいるころから次は一緒にやろうと言ってきていたけど、どの程度の熱意があるのか分からなかったね」と、山本の話とはややニュアンスの違う話をしている[44]。「企業内のプロデューサーは“それは無理だよ”ということから始まるけど、山本は“無理な方が面白いと”いうことから始まるから。俺もそのタイプだし、ああいうタイプのプロデューサーが出て欲しいと思う」などと話していた[44]。バカバカしく分厚い台本には、多賀英典も腹をくくっていたという[39]。製作費は3億7000万円で始まったが[11][47]、スタート時から1億7000万円足りなかった[47]。東宝が配給に決まったのは1978年暮れである[44]。 タイトルシュレイダーが送ってきた脚本第一稿のタイトルは、英語で「The Kid Who Robbed Japan」だったが[23][46]、"Kid"にあたる良い日本語訳がなく、長谷川が『笑う原爆』と決めた[16][46][48]。しかし東宝サイドが原爆をタイトルに使用することに難色を示したため、準備稿の段階では『日本 対 俺』という仮題で製作を進め[23]、その後『プルトニウム・ラブ』『日本を盗んだ男』とタイトルが転々と変わり[48]、最終的に長谷川自身が「太陽と原爆をオーバーラップさせる」と考えていたため[16][48]、『太陽を盗んだ男』に決めた[16][28][46][48][49]。太陽のエネルギーを持つ原爆と、日章旗すなわち日本という国家を指す[50]。 従来、原爆を素材とした日本映画は必ず被害者の側に立っていたが、本作は加害者の側に立った上、スケールの大きなエンタテイメントに仕立てた不謹慎極まるものだった[51]。主人公が原爆製造中に被爆するという設定は、実際に「胎内被爆児」である長谷川監督の発案である[15][25][51]。撮影中に抗議に来たある活動団体に対して、自分の「特別被爆者手帳」を見せて説明し納得させたという[17]。公開前のキャンペーンのテレビ番組で「ジュリーってゲンバクのように強〜イ男」という番組サブタイトルが抗議を受けた[23]。 キャスティングプロデューサーの山本は、萩原健一を主役の中学教師役に想定していた[52]。長谷川は警部のイメージを「不動明王のような鬼警部」を描いていたため[53]、映画を志すきっかけになった高倉健に話を持って行ったら、高倉から「原爆を作る方をやりたい」と言われた[53]。長谷川は原爆を作る中学教師はちゃらんぽらんな男として描きたかったため、高倉のイメージと合わず、結局高倉から断られた[53]。録音の紅谷愃一は「健さんとやっていたら現場がうまくいかず、おそらく途中で問題になっていたと思う」と述べている[54]。長谷川と菅原文太は以前から新宿ゴールデン街の飲み友だちで、長谷川からの出演依頼に菅原は「面白いじゃないか、やろうよ」と快諾した[53]。長谷川は「文太さんは『トラック野郎シリーズ』をやってた頃だったから、他で弾けたい時期だったんじゃないか」と述べている[53]。菅原から「主役にはジュリーなんかどうなの?」との提案を受け[53]、長谷川は沢田に出演交渉を行うが、沢田のスケジュールが1年半先まで埋まっていて、その後1年待って、3か月スケジュールを空けさせて撮影した[55]。また、当時の沢田のマネージャーが「ぜひ、沢田にこの映画をやらせたい」と言ってくれ、その熱意に押され1978年2月に[44]渡辺プロダクション社長の渡辺晋に山本と長谷川、相米の3人で会いに行き、山本が渡辺晋に直談判して沢田の出演が決まった[40]。しかし菅原と沢田のスケジュールを合わせるまで1年以上かかった[44]。 しかし、公開当時の文献や[48]、2001年発売されたDVD特典映像や『映画秘宝』での長谷川のインタビューでは、これとは全く違う話をしており[23][56]、主役のキャスティングに難航して、無名の新人でいくしかないというところまで来たとき[48]、助監督の一人が「ジュリーは駄目なんですか?」と言うから、「そうか沢田がいたか」と思って、長谷川が『悪魔のようなあいつ』で仕事をしたことがある沢田にすぐ連絡をしてその日のうちに会えた[56]、脚本もまだ未完成の時期だったから、「1人で原爆を作った兄ちゃんがいて、テレビのナイター中継を最後まで見せろと脅迫する話だ」と説明したら、「原爆ってのが大きくて面白いですね」とすぐその場で出演をOKしてくれ、「日本で一番忙しい、超有名な新人を起用することになった」などと話している[56]。 沢田は1978年9月号の『月刊平凡』で山口百恵と対談し[57]、 沢田研二は来年3~4月に長谷川和彦と映画を撮るとの話をし、山口百恵と一緒にできればといった旨の話をしていた。 沢田は1978年夏に長谷川から話を聞いて、以降、役柄に合わせ、食事制限と体力作りを重ね役作りを行った[58]。またこの映画のために1979年2月から4月まで、当時の自宅の近所にあった上北沢自動車学校に通い、自動車免許を取った[48][58]。 演出城戸が妊婦に化けて国会議事堂に潜入するシーンは、美形の沢田だったことから長谷川が思いついたアイデア[56]。内容から撮影許可は降りないので、逮捕覚悟の隠し撮りである[11][56][59][60]。沢田は「守衛さんは1人だったんだけど、最初『あれっ、あれっ』で顔をしていたんだけど、止めに入らないんで『オレいいのかな』と思いながら歩きました。撮り終わった瞬間、『それっ』ってスタッフたちが僕を連れ出して、逃げ帰ったんです(笑)」などと話している[11][59]。 撮影当日は長谷川が助監督全員に背広ネクタイ着用を指示したが、背広姿の長谷川はヤクザ風、相米はクアラルンプールの赤軍の犯人みたいな風貌になり、かえって怪しまれた[23]。沢田には「5分間頑張れ」と指示し、警官との押し問答を隠し撮りした[60]。 沢田は振り返って、1982年のインタビューでは「『太陽を盗んだ男』はやっぱり入れ込んでたし、監督とウマが合ったっていうか..あのしつこさっていうか..もうゴリゴリ押してくるって感じの人だから、それに負けまいっていう感じが凄くよかったし、ほとんど出ずっぱりだったし、『やってるんだ!』という実感が強かったです。それで映画の面白味が分かってきたというか、映画もちゃんと演りたいと思ったのは『太陽を盗んだ男』からです」[61]と語っている。 長谷川は「俺は沢田に新人のつもりで使うぞと頭から言った。沢田があそこまで自分を曝け出して頑張るとは思わなかった。俺の組であれだけやれば精神も肉体もボロボロだよ。4分の長撮りで17回のNG。時間と金が落ちるように使われた。NGの理由は自分の演技だけとなれば、それは耐えられないよ。あれ、最後は前後半に分割するかと提案したんだけど沢田が『もう1回だけ』と手をついたんだ。逆に俺が励まされたよ。沢田がNGを連発したのは警察に電話をかける長ぜりふのシーンだが、沢田自身はNGは50回以上だったと話している[62]。 菅原文太は静の芝居が苦手な人で、長回しで時間が経つと肩やら足やら貧乏揺すりを始める[23][53]。長谷川が「文太さん、それじゃあねえヤクザになるから。文太さんは警視庁の鬼警部なんだから、不動明王のようにボッーと立ってて下さい」と頼んでも、やっぱり貧乏揺すりをやるので、その都度「カーット!」をかける。菅原は「分かってる、分かってるんだけど」などと言い訳をする[53]。何度やっても貧乏揺すりをやるので長谷川が遂にキレ「文太サー、また肩!」と言ってしまい、現場が凍り付いた[23]。長谷川は「文太さん」と言ったつもりだったが、ベテランスタッフに呼び出され、「ゴジ、いくら何でも『文太サー』はさすがに態度デカいだろ」と怒られた[23]。カメラの鈴木達夫は「菅原文太さんは非常に役者を可愛がる東映という独特の俳優システムで育って来た人ですから。そういう人がいきなり町場の映画に出てきて、本来なら一回演技すれば『ハーイ、オッケーでーす」みたいな世界でやってきて、それがいきなりテイク10とか行くわけですから。文太さん相当大変だったと思います。本当に文太さんはよく耐えてましたね」などと話している[23]。この間までカチンコを叩いていた(助監督)ゴジに文句一つ言わない菅原にスタッフは「あれが本当のスターだよな。日活のスター連中に言ってやれよ」と感心していたという[53]。長谷川は「文太さんにも無理を言った。ヤクザ映画の癖はいりません。凄むのも要らない。文太さんに文太さんらしさを出すなと言ったんだから、新人以下の扱いよ。あれほどのスターさんが『今の動きはヤーさん見たいになりましたね』とチンピラ監督に注意されるんだから、普通は帰ってしまうよ。文太さん『こんなキツイのは5年に1本でいいな』って言ってたから」などと話している[41][48]。 撮影進行スタート時から1億7000万円足りないという現実があり、撮影日数の問題もあったが、長谷川と山本は長い脚本を一切切らず全部撮ることにした。東宝とは2時間20分前後にするという契約のため、約1時間分は未使用となった。山本は「無駄の中に映画の魅力を拡げるものがある」という自身のプロデューサー判断と述べている[47]。なお、最終的な制作費は3億9千万円[23]、撮影期間は1979年4月25日より8月8日(撮影日数86日)[23]、撮影使用フィルム17万フィート[48]、19万フィート(約35時間分)となっている[23]。これを1万3千フィートに編集[48]。通常の日本映画の3~4倍のフィルムを使用した[48]。 1979年4月25日クランクイン[23][58]。トップスター沢田研二のスケジュールをここから7月まで、丸3ヵ月開けさせた[39]。ナベプロからは「夏は絶対、歌の興行で全国を回りますから、7月で撮影を終えて下さい」と引導を渡された[39]。この年の沢田の夏ツアーは、全国ツアー以外にもシンガポール公演を始め、外国人で初めての中国でのコンサートの予定があった[58]。本来は1979年6月にクランクアップし[54]、7月に仕上げる予定だった[54]。録音技師の紅谷愃一は1979年8月4日から『復活の日』に参加が決まっていて、それに間に合う予定だった[54]。いろいろな要素を盛り込み過ぎた脚本を長谷川が整理しきれないままクランクイン[54]。大半の撮影が規模が大きく撮り切れない部分が積み重なった[63]。長谷川は何かを見切れるまで撮影を続けるため、毎日徹夜[23]。伊地智は文句を言い続けたが長谷川は唸るばかりでペースを上げず[54]、脚本に書かれたことを一切カットせず、全部撮った[54]。半分以上撮ったら監督の方が立場は強くなり、誰も長谷川を止められない[54]。その分、相米慎二が伊地智啓に責められたが、長谷川は相米を子分のように思っているため、相米の意見など聞くわけない[54]。予想通り7月で撮影は終わらず、沢田を一旦手放した[39]。スケジュールがその段階でかなり混乱した[23][39]。撮影遅延によりスタッフの契約期間は全員切れ[63]、長谷川がイライラして怒鳴り散らしたりしたため[23]、次の日から来なくなる者、次の現場に行く者も増えてきて[23][63]、その間、スタッフ1人欠け、2人欠けで、8月後半に沢田抜きで高速道路の車の走りなどを撮ったが[39]、長谷川だけでは撮り切れなくなった[64]。このためチーフ助監の相米慎二が別班B班で、沢田がいなくても撮れそうないくつかのカットを沢田のそっくりさんを使って相米が撮った[64]。沢田が現場に戻って来てくれたとき、助監督で残っていたのはチーフの相米だけになっていた[39]。照明部も熊谷秀夫1人だけで[63]、伊地智が弁当配りをやり[63]、沢田のスケジュールは動かせないため、残った者で準備や撮影をやった[63]。最後は米粒コツコツ拾う鶏みたいな現場になった[39]。黒沢清は「撮影遅延が数週間なら珍しくないが、数ヵ月も遅れるというのは特殊な現場だった。その特殊な伝統が後に相米慎二さんに受け継がれていくんです」と話している[23]。途中逃げだしたセカンド助監の榎戸耕は「『太陽を盗んだ男』だけは思い出したくない」と話していたという[39]。このためノンクレジットの一番下っ端の製作進行でまだ学生だった黒沢清が助監督らを全部飛び越し、B班のプロデューサーになっていた[23][64][65][66]。黒沢はプロデューサーということで数10万、数百万のお金を預けられ、僕が逃げたらどうするつもりなのかなと考えたという[23]。黒沢は当時、立教大学四年で、撮影が長くかかり、大学に戻ったときは五年生になってしまい、同級生は皆卒業して自然と就職する機会を失い、長谷川から「次も手伝ってくれ」と言われ、ズルズルと映画界入りした[64][66]。本作のチーフ助監督だった相米慎二が、薬師丸ひろ子主演の『翔んだカップル』で監督デビューすることになり、本作の演出部が、みんな『翔んだカップル』相米組に就き、黒沢は「僕も『翔んだカップル』に就きたいなあ」と思ったらから「お前はダメだ。お前が就いたら長谷川が一人ぼっちになるじゃないか」と言われ、黒沢一人だけ長谷川の付き人みたいになった[64][66]。黒沢は「長谷川和彦が次に撮るとき助監督なんだ」と言い聞かせ、今日まで来ているという[64][66]。黒沢がディレクターズ・カンパニーに参加したのはこれが切っ掛け[65][64]。黒沢は「長谷川さんがガンガン撮っていたら、僕の人生は変わっていたかもしれません。相米さんの助監督をずっとやるようになっていたら、また人生変わっていたかもしれませんけど。相米組にも1本しか入れず、長谷川組に回されてしまったので、今日の僕になっていったという変な偶然があるんです」などと述べている[64]。 1979年9月初めクランクアップ[39]。撮影だけで2ヵ月予定が4ヵ月かかった[54]。 撮影詳細
エピソード
興行成績本作は全国157館で[41]、鳴り物入りで封切られたが、都市部で大入りしたものの、地方では惨敗で、全国で見ると興行的には成功をみなかった[5][9][23][28][81]。小中和哉は「高校の時に見てすごく感激して、映画館にも2回行きましたけど、お客さんはあまり入ってなかった」と証言している[64]。『キネマ旬報』1980年2月下旬号には「キティ・フィルムは再起不能なのではないか」と書かれている[82]。 受賞・選出
評価
などと論じている 後世への影響本作はその前衛的な作風から、後進のクリエイターにも大きな影響を与えている[93]。
映像ソフト・配信状況2001年9月21日にはアミューズソフト販売(発売元:アミューズピクチャーズ/現:ショウゲート)からニューマスター使用のVHSビデオと、DVDで「ULTIMATE PREMIUM EDITION」がリリースされた[5][26][23]。DVDには特典映像として『11PM』(読売テレビ制作)による本作の特集番組や、長谷川の友人でもある上田正樹が本作のロケ地を案内する特別番組、本作のファンを自認する永瀬正敏と樋口真嗣と長谷川との対談動画などが収録された[5][23]。2006年に特典映像なしのDVDが再リリースされた[115]。なお、音響はDVD化にあたって、ドルビーデジタル5.1chにリミックスしている[5][116](公開当時はドルビーモノラル)。 2024年現在、ブルーレイ版は未発売。サブスクリプションではNetflixでの配信[注 14]を皮切りにiTunesでも販売されている[117]ほか、Huluでも配信されていた[注 15]。U-NEXTでは2021年3月12日から配信中。 テレビ放映地上波では公開から4年後の1983年10月6日(木曜日)にテレビ朝日にてテレビ初放送[118](一部カットされたシーンもあり)。 その後、1991年11月9日(土曜日)にNHKBSで「沢田研二スペシャル ―ジュリー・オン・スクリーン―」と銘打ち放送。 脚注注釈
出典
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