下白銀町(しもしろがねちょう)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8356。2017年6月1日現在の人口は241人、世帯数は139世帯[1]。
地理
当地の中心部に弘前城が位置し、主に弘前公園と文化・観光施設で構成される。町域の北部は亀甲町、東部は大浦町・蔵主町・元寺町、南東部は元長町、南東部から南部にかけて元大工町、南部は上白銀町、南西部は馬屋町、西部は五十石町・紺屋町に接する。
歴史
- 寛永末年頃 - 追手門の東部が片原町、北部の外東門までが下片原町と見える。この時点での町名である片原町の由来は、町域の一方が堀の片端にあることからとおもわれる(津軽弘前城之絵図)。
- 正保2年 - 町屋とある(津軽弘前城之絵図)。
- 慶安2年 - 銀町と見え、30軒余りの屋敷割りがされ、町屋と武家屋敷が混在している。このうち町屋には商家である宮崎屋・田村屋のほかに檜物屋・煙草作り・索麺屋・居鯖・鍔職人・箔屋・鉄砲師・藩医も居住(弘前古御絵図)。
- 慶安2年 - 寺町(現:元寺町)の大火後、当地は武家地となり、銀町の町名は百石町と本寺町を結ぶ鉄砲町が白銀町となる。
- 寛文13年 - 武家屋敷のみで22軒(空屋敷1軒)ある(弘前中惣屋敷絵図)。
- 天和3年 - 町内の一部が召し上げられ、町名が下白銀町になる(国日記)。
- 元禄年間 - 武家屋敷の郭外移転により、外堀沿いの当地は中・下級武士の屋敷街から大身の屋敷街に変わる。
- 元禄12年 - 家老津軽靭負・大道寺隼人などの屋敷地が配置される(国日記)。
- 元禄13年 - 追手門前に江戸衆屋敷が設置され、町年寄の屋敷も見える(津軽史)。
- 亨和3年 - 寛政7年開設の稽古館が追手門前に見える(御家中町割)。
- 文久2年 - 兵性改革により、稽古館跡地には修武堂が設置される(津軽歴代記類)。
- 1870年(明治3年) - 修武堂のほかに津軽右近らの重臣の屋敷地がある(弘前図)。
- 1872年(明治5年) - 藩校跡に市立東奥義塾が開校。
- 1877年(明治10年)3月29日 - 当地に地方裁判所が弘前裁判所として移転(現:青森地方裁判所弘前支部・弘前簡易裁判所)。
沿革
- 江戸期 - 弘前城下の一町。
- 寛永末年頃 - 片原町・下片原町と称される。
- 慶安2年 - 銀町と称される。
- 天和3年 - 下白銀町と称される。
- 明治初年~明治22年 - 弘前を冠称。
- 1899年(明治22年) - 弘前市に所属。
施設
教育
医療
商業
通信
メディア
文化施設
- 弘前市立博物館
- 弘前市立郷土文学館
- 弘前市立弘前図書館
- 弘前市立観光館
- 笹森記念体育館
ホール
旧跡
行政
重要文化財
かつて存在した施設
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
交通
脚注
参考文献
角川日本地名大辞典 2 青森県(角川書店)
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※地域区分(弘前市国勢調査報告書p.14で使用されているもの)ごとに表示する。 |
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