北横町(きたよこちょう)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8046。2017年6月1日現在の人口は253人、世帯数は122世帯[1]。
地理
町域の北部を土淵川が流れる。北部は田茂木町・田町、東部は野田、南部から西部にかけて和徳町、北西部は山王町に接する。
歴史
- 延宝5年 - 東長町七丁目・八丁目間(現:和徳町)を境に北は東長町北横町、そして南は東長町南横町(現:南横町)として町割りがされ、当地を指す東長町北横町は屋敷41(弘前惣御絵図)。
- 宝永4年 - 郭内武家屋敷の郭外移転により、改めて屋敷割りが行われ、同時に当地から八幡宮まで現在の田町が成立(平山日記)。
- 宝暦6年 - 町屋が91軒(弘前町惣屋鋪改大帳)。
- 文政年間 - 当地は一丁目から四丁目に分かれて構成され、すべて町屋(和徳町絵図)。
- 天保8年 - 町屋が96軒(弘前絵図)。
- 幕末 - 町屋と武家屋敷の入り交じった町となる。
- 1897年(明治30年) - 陸軍第8師団の設置に伴い、北川端町にあった遊廓が当地に移転。当時当地の西南(現:和徳町)に和徳小学校があり、学区民の反対運動があったが、和徳小学校が現在の代官町に移転したことにより、遊廓は当地から移転することなく、当地は弘前を代表する遊廓地となる。
- 1927年(昭和2年) - 当地の遊廓から出火した火災が和徳町・南横町・萱町・植田町・代官町まで燃え広がり、438戸を焼く大火となる。
- 1957年(昭和32年) - 売春防止法が施行されたことにより、遊廓は旅館になる。
- 現在 - その他に残っていた遊廓の建物も、現在までに姿を消し、工場、商社のビルが建ち、著しく変化。
沿革
- 江戸期 - 弘前城下の一町。
- 明治初年~明治22年 - 弘前を冠称。
- 1899年(明治22年) - 弘前市に所属。
施設
医療
- あづま内科(閉院)
- 三上内科医院
- ほくおう歯科医院
福祉
商業
公共
その他
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
交通
脚注
参考文献
角川日本地名大辞典 2 青森県(角川書店)
|
---|
※地域区分(弘前市国勢調査報告書p.14で使用されているもの)ごとに表示する。 |
旧弘前市 |
新市街地域 |
---|
桜ヶ丘・緑ヶ丘地区 | |
---|
向外瀬・青山地区 | |
---|
城東・外崎地区 | |
---|
松原・取上地区 | |
---|
中野・城南地区 | |
---|
浜の町・石渡地区 | |
---|
田園地域 |
---|
清水地区 | |
---|
和徳地区 | |
---|
豊田地区 | |
---|
堀越地区 | |
---|
千年地区 | |
---|
藤代地区 | |
---|
東目屋地区 | |
---|
船沢地区 | |
---|
高杉地区 | |
---|
裾野地区 | |
---|
新和地区 | |
---|
石川地区 | |
---|
|
---|
|
|
カテゴリ |