ミス・ユニバース・ジャパン
ミス・ユニバース・ジャパン(英語: Miss Universe Japan)とは、ミス・ユニバース世界大会に出場する日本代表を選ぶ日本国内で開催されるミスコンテストである。 日本代表選出大会としての「ミス・ユニバース・ジャパン」の運営ライセンス権朝日放送時代までミス・ユニバース世界大会の国別予選であるミス・ユニバース日本大会自体は、第1回世界大会の開催に伴って1952年(昭和27年)の第1回から、ほぼ毎年行われており、当初は産業経済新聞社、次いで国際親善友好協会、1971年(昭和46年)から1995年(平成7年)までは、当時運営権及び放送権を有していた大阪の朝日放送によって開催されていた。 イネス・リグロン(IBG Japan)時代その後はスポンサー不在のため、2年間に亘って日本大会が休止されたが、1998年(平成10年)にフランス人のイネス・リグロン(IBG Japan株式会社)をナショナル・ディレクターとする「ミス・ユニバース・ジャパン」として新たに復活した。 2004年(平成16年)から、栄養コンサルタントにオーストラリア人のエリカ・アンギャル(15歳の時に大分県に語学留学した経験から日本語が堪能)が起用され、日本大会ファイナリストに栄養指導を行った。 特に、この時代の中期~後期には、世界大会で優勝した2007年の森理世を筆頭に、2003年の宮崎京(世界5位)、2006年の知花くらら(世界2位)、そして後に日本大会のナショナル・ディレクターとなる2008年の美馬寛子(世界14位・Best of Asia)ら、世界大会TOP15以上の上位・優勝争いに絡む日本代表を多く輩出し、自身も2007年の世界大会で「ベスト・ナショナル・ディレクター」として表彰された。 2009年、リグロンはIBG JAPANを株式会社HDRに譲渡した。 その後、リグロンは、2011年(平成23年)大会をもって退任するまで、14大会に渡ってナショナル・ディレクターを務め、また、その退任後も2012年大会までは、IBG Japanが運営ライセンス権を保持し、大会を運営した。 HDR時代2013年大会から2017年大会まで、株式会社HDRがミス・ユニバース・ジャパンの運営ライセンス権を保持し、大会を運営していた。 2013年(平成25年) この時代、一部を除く各都道府県ごとに地方大会が開催され、この年からほぼ全県で代表が選出されるようになった。各地方大会の代表者がミス・ユニバース・ジャパン本大会に進出し、原則として本大会優勝者(「ミス・ユニバース・ジャパン」)が同年に行われるミス・ユニバース世界大会に日本代表として出場していた。 この時代は、リグロンの時代と異なり、世界大会での上位に進出する日本代表を輩出したのは、2015年の宮本エリアナが世界10位になった1回のみであった。 HDRは、2018年から後述の株式会社MY group(代表:美馬寛子)が運営ライセンス権を取得したことに伴い、本来なら2017年大会を最後にミス・ユニバース・ジャパンの運営に関与できなくなったが、既に地方大会が動き出していたことなど諸事情を理由に、MY groupと共催する形で運営に関与、その後は、2019年から「ミス・ジャパン」という独自の(ミス・ユニバースと全く無関係で世界大会もない)大会を創始して開催している。 美馬寛子(MY group)時代2018年からMY groupがミス・ユニバース・ジャパンの運営ライセンス権を取得し、同社代表を務める美馬寛子(2008年ミス・ユニバース・ジャパン)が日本人女性として初となるナショナル・ディレクターに就任した。 前述の通り、諸事情により、2018年大会については、HDRと共催したが、2019年大会から本来の形として単独での開催を実現した。 2018年度から一度も入賞していない。 地方大会・都道府県代表制度前年までとの大きな変化として、都道府県ごとの地方大会および その後、前年まで開催されていた各都道府県ごとの地方大会の内の一部(38府県)が「ベストオブミス」という大会名での開催に移行し、ベストオブミス開催の各県で、
これら38府県から選出されたセミファイナリスト38名と別に、ミス・ユニバース・ジャパン事務局が独自に募集した中から選出されたセミファイナリストと合わせ、計41名のセミファイナリストが2019年ミス・ユニバース・ジャパン日本大会に出場し、その日本大会の中で同一日にセミファイナル(準決勝)・ファイナル(決勝)が実施され、日本代表としての「ミス・ユニバース・ジャパン」が選出された。 応募資格2024年現在の応募資格は以下のとおり。身長・学歴・職業・出生地・居住地といった条件はない(どの地方の「ベスト・オブ・ミス」大会にも応募可能)[4]。 大会での審査選考では世界大会と同じく、単なる外見の美しさだけではなく、知性・感性・人間性・誠実さ・自信などの内面も重視される。社会に積極的に貢献したいという社会性が求められる[5]。 日本代表としての「ミス・ユニバース・ジャパン」日本代表からはこれまで、森理世(2007年)が世界大会で優勝している。復活前のミス・ユニバース日本大会の時代に世界一になった児島明子(1959年)を含めれば2人である。優勝者や入賞者を含むミス・ユニバース・ジャパンの参加者には、その後女優、モデル、タレントなどとして芸能界で活躍する者も多い。 テレビ放送2008年(平成20年)には、本大会までを密着したドキュメント番組がフジテレビ(関東ローカル)と、世界大会までを密着したドキュメント番組がNHKで放送された。2012年6月2日にもフジテレビと関西テレビ(関東および関西ローカル)で放送。2013年3月23日にはBS朝日(テレビ朝日系BS放送局)で放送。2019年には本大会までを密着したドキュメントがTBS「ビビット」にて複数回放送された。 かつてのミス・ユニバース日本大会日本大会は、ミス・ユニバース世界大会の初開催にあわせて1952年(昭和27年)に始まった。優勝者は、日本代表となって、『ミス・ジャパン』として世界大会に出場した。 日本代表は1950年代、合計3人が上位入賞(総合5位以内)するという結果を残し、1953年(昭和28年)の第2回大会で伊東絹子が第3位の評価を受けたほか、1959年(昭和34年)には児島明子が日本人、アジア人として初の『ミス・ユニバース』の栄冠に輝いた。当時は「有色人種」初のミス・ユニバースとも言われた。 日本大会は世界大会の日本予選としてほぼ毎年行われ、当初は産業経済新聞社が主催しており、伊東の入賞や児島の世界一もこの時代であった。1971年(昭和46年)から1995年(平成7年)までは朝日放送が運営権を有していた(放送権は1967年(昭和42年)に得て日本大会と世界大会の放送を始めており、1971年には運営権も「国際親善友好協会」から譲り受けた[6])が、1970年(昭和45年)に上位入賞した島田純を最後に、1980年代の上位入賞は、1988年(昭和63年)に総合第4位を獲得した坂口美津穂(現姓・星野)ただ一人となった。それ以降も日本大会は盛り上がりを欠き、1990年代にかけて日本代表の上位入賞(総合5位以内)は皆無、1995年(平成7年)に『ミス・ジャパン』となった佐伯成美を最後に、日本代表の世界大会出場は中断した。 1986年に日本代表となった難波央江[7]の頃から、1995年の日本代表となった佐伯成美までの代表選出は世界大会の前年である。 テレビ放送当初はフジテレビが放送しており、児島明子が優勝した1959年(昭和34年)の司会はトニー谷であった[8]。朝日放送(ABC)の制作で全国放送された時代は1972年(昭和47年)に三橋達也が司会を務め[9]、その翌年から宝田明が1991年(平成3年)まで司会を務めた。腸捻転時代は、TBS系列にて放送され、腸捻転解消後はテレビ朝日(1977年3月まではNETテレビ)系列に移行した。なお、1975年(昭和50年)は、腸捻転解消直前の3月23日(日曜)に実施し、TBS系列で全国同時ネットされた最後のABC制作の生放送番組となった[10]。1976年(昭和51年)以降は主に「水曜スペシャル」などABCの単発特別番組枠で放送されていた。 1993年(平成5年)の代表を選んだ1992年(平成4年)12月の大会と、1994年(平成6年)の代表を選んだ1993年12月の大会では、俳優の石田純一が司会を務めた。 1995年(平成7年)の代表を選んだ1994年(平成6年)12月の放送では、スタジオと会場の二元生放送が行われ、スタジオ司会を板東英二と島田紳助、進行役を朝日放送アナウンサーの岡元昇が務め、内容も吉本興業の芸人が多く出演しバラエティ色を強めたが、ミス・ユニバース日本事務局との放送権契約の終了に伴い、1995年5月の世界大会をもって朝日放送制作の中継が終了した[11]。 歴代の日本代表1995年度までの日本代表
1998年度以降の日本代表
著名なファイナリスト
ミス・ユニバース沖縄代表アメリカ合衆国占領下の沖縄では、1956年(昭和31年)に「琉球代表」吉田和子が日本大会に特別参加した他[31][32]、1963年(昭和38年)からの6年間、独自の「沖縄代表」を選出、『ミス・オキナワ』として、世界大会に出場していた。しかしながら歴史上、沖縄代表の入賞はなかった。 歴代沖縄代表
脚注
関連項目外部リンク
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