ティモ・グロック(Timo Glock, 1982年3月18日 - )は、ドイツ・リンデンフェルス出身のレーシングドライバー。フジテレビF1中継でのニックネームは「不屈のゲルマン魂」。
初期の経歴
幼い頃からモトクロス、カートに親しんだ。 1996年にモトクロスに参戦、15歳で本格的にレース活動を始めた。
2000年にフォーミュラBMW・ジュニアカップへ参戦すると、19戦中11勝をあげて参戦初年度でチャンピオンを獲得。2001年はチーム・マメロウからフォーミュラBMWに参戦すると、ここでも参戦初年度でチャンピオンを獲得した。
F3
2002年は「オペル・チーム・KMS」からドイツF3に参戦。3勝をあげてシリーズ3位、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。そして2003年にはユーロF3に参戦、ここでも3勝をあげて総合5位で終えた。
1度目のF1参戦
2004年には、F1でテストドライバーを務め、スポット参戦も果たした。しかし、翌年のシートを得ることが出来なかった為にF1から離れた。
チャンプカー
2005年は「ロケットスポーツ・レーシング」チームからチャンプカー・ワールドシリーズに参戦し、総合8位でルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
GP2
2006年は「BCN コンペティション」チームからGP2に参戦し、シーズン途中で「iスポーツ・インターナショナル」チームに移籍。最終戦を欠場しながら2勝をあげ総合4位でシーズンを終えた。 2007年はBMWザウバーのテストドライバーを務めると共に、GP2にも引き続きiスポーツから参戦。5勝をあげ、ルーカス・ディ・グラッシらを抑えてシリーズチャンピオンを獲得した。この年の終わり、トヨタからラルフ・シューマッハの後任として契約のオファーを受ける。BMWザウバーとのテストドライバー契約が残っていたためFIAの契約承認委員会(CRB)に決定を委託することになったが、最終的には同委員会の承認により正式にトヨタのレギュラードライバーとなることが認められた。
F1での経歴
ジョーダン
2004年にジョーダンのサードドライバーに選ばれた。そして同年、急遽F1参戦の機会を得る。第8戦カナダGPにジョルジオ・パンターノの代役として出走することになり、僅か4年のフォーミュラカーの経験でF1参戦を果たした。初めての予選でチームメイトのニック・ハイドフェルドに次ぐ16番手を獲得すると、決勝レースでは11位で完走を果たした。その後上位の4台が失格となったため繰り上がりで7位入賞となり、2ポイントを獲得した。続く第9戦アメリカGPからはパンターノが復帰したためサードドライバーに戻ったが、第16戦中国GPから最終戦ブラジルGPまでの3戦で再び出走する機会を得た。しかし翌年のオプションが制限されていたため、ジョーダンのシートを失い、F1を離れることになった。
トヨタ
2008年、トヨタのドライバーとしてF1に復帰[1]。開幕戦オーストラリアGPではコースアウトからクラッシュを喫してリタイア。続く第2戦マレーシアGPでも僅か2周目にニコ・ロズベルグと接触してリタイア。以降も入賞できないレースが続いたが、第7戦カナダGPでは背後に迫るフェラーリのフェリペ・マッサを抑えきり、4位入賞を果たした。
第11戦ハンガリーGPでは予選で自己最高位の5位を獲得。決勝でも堅実なレース運びを見せ、競争力に勝るフェラーリのキミ・ライコネンを抑えて3位を走行。首位走行のマッサがエンジンブローしたことにより2位でレースを終え、初の表彰台を獲得した。このレースを含め、以降8戦で5回の入賞を果たすなど、シーズンが進むに連れて調子を上げた。最終戦ブラジルGPでは、最終ラップの最終コーナー手前でルイス・ハミルトンにオーバーテイクされたことにより、結果的にハミルトンのワールドチャンピオン獲得を土壇場で演出してしまったことが話題となった。
2009年、前年と同じ体制で参戦。第4戦バーレーンGPでは予選でチームメイトのヤルノ・トゥルーリとフロントローを独占、自己最高の2位を獲得すると、決勝ではスタートでトゥルーリを交わし最初のピットストップまでトップを走行した。しかし、タイヤ戦略の失敗からペースが上がらず最終的には7位でレースを終えた。第11戦ヨーロッパGPでは決勝14位ながら自身初のファステストラップを記録した。第14戦シンガポールGPではクラッシュが続出する中で2位となり、表彰台にのぼったが、翌週の第15戦日本GPでは予選Q2セッション中、最終コーナーでクラッシュし[2]、精密検査の結果決勝以降の今季の残りのレースは欠場することとなり、次戦ブラジルGP以降の代役は小林可夢偉が務めることとなった[3]。グロックはトヨタと複数年契約を結んでいたと見られ、来シーズンの残留は濃厚であった[4]。しかし、2009年シーズン終了直後にトヨタがF1から撤退を表明した為、他チームへ移籍しなければならなくなった。グロックはトヨタとの契約があることは事実でありながらもチームが存続する可能性が低いと見ていたのもあり、既に他チームへの移籍を視野に入れていたと考えられる[5]。余談だが、2009年は日本GP以降の未出走を除いた14戦は全て完走している。
ヴァージン
2009年11月17日、マノー・グランプリ(後にチーム名をヴァージン・レーシングに変更)との2年契約を発表[6]。チームメイトはルーカス・ディ・グラッシ。2010年もF1に参戦。主にヴァージンと同じく今年から新しくF1に参戦したロータスやヒスパニア・レーシングのドライバー達と争うことになる。第3戦マレーシアGPの予選では雨による波乱もあって、チーム初となる予選第2ラウンド進出を果たし16位を獲得するなど健闘するものの、序盤戦はマシントラブルなどもあり開幕から4戦連続でリタイアに終わる。マシンが大幅に改良された第5戦スペインGPでシーズン初の完走。シーズン中盤以降はマシンの信頼性が上がりコンスタントに完走するようになった。この年の最高位は第16戦日本GPの14位だった。
2011年も同チームに残留が決定した。チームメイトはジェローム・ダンブロシオ[7]。ストーブリーグ中の冬季テスト期間中に虫垂炎を患うなどもあったが無事に退院し開幕戦に挑んだ[8]。第1戦オーストラリアGPでは新マシンMVR-02の熟成が進まずに多くの問題を起こし規定周回数不足で完走にはならなかったものの、続く第2戦マレーシアGPでは16位完走。第3戦中国GPでは21位完走を果たした。
マルシャ
2012年もマルシャF1チーム(ヴァージン・レーシングの後継チーム)に残留することが発表された。チームメイトはシャルル・ピック[9]。昨年に引き続き、戦闘力の低いマシンに苦労するも、第14戦シンガポールGPで12位完走を果たしたことで、その時点でマルシャをコンストラクターズ選手権で10位に押し上げた。この結果は、同チームにとって1000万ユーロ(約10億円)と同等の価値があるとされていたが[10]、最終戦のブラジルGPで、ケータハムのヴィタリー・ペトロフが11位完走を果たしたことで、最終的には、マルシャはコンストラクターズ選手権11位、自身はドライバーズ選手権20位で2012年シーズンを終えた。
マルシャとは2011年のマルシャ・ヴァージンレーシング時に2014年までの契約を結んでいた[11]が、2013年シーズン前にチームとドライバー双方の合意のもと契約が解除された[12]。
チームからのコメントにより、今回の件はチームの資金が苦しい故の決定であることが示唆された。[13]
ドイツツーリングカー選手権の経歴
2013年よりドイツツーリングカー選手権に参戦した。メーカーはBMWである。第3戦 レッドブルリンクで3位表彰台を獲得した。
エピソード
- スイスの『Motorsport Aktuell』によると、2008年ブラジルGP終了後、グロックの公式サイトが500件以上もの非人道的な書き込みによる攻撃を受けたという[14]。
- 2014年のF1シーズン終盤、ニコ・ロズベルグとルイス・ハミルトンの2人によるタイトル争いの中で最終戦アブダビGP直前、ロズベルグが自身のワールドチャンピオン獲得のために「フェリペ・マッサが2位に入って援護してほしい」[15]とのコメントをした際、マッサは「僕がチャンピオンシップに勝てるチャンスがあった時、誰も助けてくれなかった。実際は、あるドイツ人のせいでフイになってしまった」と発言。2008年ブラジルGPの際のことを現在も根に持っていることが明らかになった[16]。
- これに対し後日グロックは「これだけ時間が経過しているのに、あれ(マッサのコメント)には驚いた」「彼(マッサ)の言葉は微笑を浮かべて読んだよ」と返している[17]。
- ただしマッサが「ティモを恨んだことは一度もない」と語るなど、彼との関係が悪いわけではない。2022年のストックカー・ブラジルのダブルスレースではマッサとのタッグも実現した[18]。
- ハンガリーGPとシンガポールGPの相性は抜群で、トヨタに所属していた2年は表彰台も含め入賞は外していない。シンガポールGPでは2012年に12位完走でケータハムにプレッシャーを与えることに成功した。ハンガリーGPではヴァージン、マルシャ時代を含めてもリタイアすらない。
レース戦績
フォーミュラ
ドイツ・フォーミュラ3選手権
フォーミュラ3・ユーロシリーズ
F1世界選手権
年
|
所属チーム
|
車番
|
ランキング
|
獲得ポイント
|
決勝最高位・回数
|
表彰台回数
|
予選最高位・回数
|
FL記録回数
|
2004年
|
ジョーダン
|
19
|
19位
|
2
|
7位・1回
|
0回
|
16位・1回
|
0回
|
2008年
|
トヨタ
|
12
|
10位
|
25
|
2位・1回
|
1回
|
5位・1回
|
0回
|
2009年
|
10
|
10位
|
24
|
2位・1回
|
2回
|
2位・1回
|
1回
|
2010年
|
ヴァージン
|
24
|
25位
|
0
|
14位・1回
|
0回
|
16位・1回
|
0回
|
2011年
|
24
|
22位
|
0
|
15位・2回
|
0回
|
20位・5回
|
0回
|
2012年
|
マルシャ
|
24
|
20位
|
0
|
12位・1回
|
0回
|
19位・1回
|
0回
|
チャンプカー・ワールド・シリーズ
GP2シリーズ
ドイツツーリングカー選手権
脚注
外部リンク
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