エステバン・グティエレス
エステバン・マヌエル・グティエレス・グティエレス(Esteban Manuel Gutiérrez Gutiérrez, 1991年8月5日 - )は、メキシコ出身のレーシングドライバー。2010年のGP3選手権のチャンピオンである。 経歴初期の経歴2004年よりBRP社・ロータックス社が共同主催する125ccレーシングカート競技であるロータックス・マックス・チャレンジに出場。2004年度は同競技メキシコ国内大会に3戦出場し、翌2005年、2006年も継続参戦している。また、カート競技は他にカムカート・チャレンジング・メキシコにも出場している。 2006年度はカート競技で印象的な走りを見せたことから上位カテゴリチームにより注目を浴び、後述の上位移籍以外にもメキシコ・フォーミュラ・ルノーのテストを行っている。 フォーミュラ・BMW2007年はアメリカ・フォーミュラ・BMWにチーム・オート・テクニカから参戦し、14戦中4勝(ポールポジション9回、ファステストラップ2回、表彰台8回)で合計436ポイントで選手権2位だった。また、ワールドファイナルにも出場したが、リタイアに終わり25位だった。 さらに、フォーミュラ・BMW・ADACにも参戦し、1回のファステストラップを獲得して46ポイント、選手権26位だった。 2008年はユーロ・フォーミュラ・BMWにジョセフ・カウフマン・レーシングから参戦、16戦中7勝(ポールポジション3回、ファステストラップ9回、表彰台12回)で353ポイントを獲得し、見事チャンピオンに輝いた。この年もワールドファイナルに参戦し、ポールポジションを獲得するもレースは3位に終わった。 また、この年はドイツ・フォーミュラ3に同じくジョセフ・コフマン・レーシングから2回参戦するもポイントは獲得できなかった。さらに、インターナショナル・フォーミュラ・マスターにもトライデント・レーシングから2回参戦し、1回の表彰台を獲得し合計8ポイント、選手権19位だった。 F32009年はフォーミュラ3・ユーロシリーズにARTグランプリから参戦。2回表彰台を獲得したが優勝は出来ず26ポイント獲得に留まった。選手権9位。また、イギリス・フォーミュラ3選手権にもARTグランプリから参戦し、4レース1回のファステストラップと表彰台を獲得した。さらに、マスターズF3にもARTグランプリから参戦したが、17位に終わった。 GP32010年度シーズンはARTグランプリからGP3に参戦14戦中4勝(ポールポジション3回、ファステストラップ6回、表彰台8回)の88ポイントを獲得し、チャンピオンに輝いた。その他にも、この年もフォーミュラ3・ユーロシリーズとイギリス・フォーミュラ3にそれぞれ2回と3回参戦している。 GP22011年はLotus ART(元ARTグランプリ)から参戦し、アジアシリーズ11位。GP2シリーズは1勝し13位となった。 2012年はLotus GP(元ARTグランプリ)から参戦し、3勝してシリーズ3位に入った。 F1での経歴2010年度シーズン開幕前、F1チームのザウバーがグティエレスを育成ドライバーとして支援する事を発表した[1]。さらに、2010年9月20日、ザウバーと2011年のテスト兼リザーブドライバーとして契約したことを発表した[2]。この契約は2012年も継続された。 2012年のインドGPではセルジオ・ペレスの体調不良により、フリー走行1回目に代わって出走。初めてグランプリ週末に走行を行った[3]。最終戦ブラジルGP中にザウバーは2013年のドライバーとして契約することを発表した[4]。 F1デビューシーズンとなった2013年は、チームメイトのニコ・ヒュルケンベルグに幾度と無く遅れを取り、予選では第13戦シンガポールGPまでチームメイトを上回る結果を残すことが出来なかった。レースでもヒュルケンベルグが何度か入賞する活躍を見せる一方で、自身は入賞を果たせずにいたが、第15戦日本GPで7位入賞を果たし、F1初入賞・初ポイントを獲得した。結局、入賞はこの1度にとどまり、予選では第13戦シンガポールGPを除いて、ヒュルケンベルグの後塵を拝するなど課題を残した。しかし、スペインGPでは入賞まであと1歩の11位であったが、ファステストラップを獲得。デビューからわずか5戦目での獲得であり、ところどころでは光る走りを見せていた。 2014年は引き続きザウバーより参戦。チームメイトはエイドリアン・スーティル[5]。この年のマシン「C33」の戦闘力不足により、スーティル共々苦戦を強いられ、結果的には開幕戦で記録した12位が最高位となり、ノーポイントでシーズンを終えた。チームメイトのスーティルも最高位は11位で、ノーポイントに終わっている。なお、予選ではスーティルを7度上回った。シーズン終盤にはザウバーのチーム首脳が巻き起こした『ドライバー多重契約騒動』に巻き込まれ、チームは翌2015年のレースドライバーとしてマーカス・エリクソンとフェリペ・ナスルを起用すると発表[6][7]。グティエレスは2015年のレースシートを失うことになった。 2015年はフェラーリのテスト兼リザーブドライバーに就任[8]。フェラーリでテストをこなしていた。 2016年はフェラーリと技術提携をするハースF1チームに移籍することが発表され、2年ぶりにレースに復帰することとなった。しかし5度の11位を記録しながらブレーキのトラブルなど信頼性に泣かされ、ノーポイントでシーズンを終えることとなった。ブラジルGPではマシンの信頼性の欠如にフラストレーションが爆発しチームと一触即発な場面が国際映像に映し出された[9]。 2016年11月に自身のSNSにてチームの公式発表を待たずして2016年限りでのハースからの離脱を発表した[10]。 2018年から2年間、メルセデスの開発ドライバーを務めた後、新たな役割として、経営陣ならびに、コマーシャル及びマーケティング部門と連携し、ラテンアメリカでの市場開拓に注力していくという。 フォーミュラEフォーミュラE第4戦メキシコePrixよりテチーターから参戦することが発表された[11]。チームメイトは同時期に戦った経験もある元F1ドライバーのジャン=エリック・ベルニュ。デビュー戦がホームグランプリという事もあり観客席に「グティエレス席」が用意されるほどの人気であったが、レースではデビュー戦の時のベルニュ同様にエネルギーマネージメントに苦しみ、オーバーテイクされているにもかかわらず他車より明らかに早くエネルギー残量が減っていき早めのピットストップを強いられた[12]。しかし、度重なる他車のトラブルやクラッシュ・それに伴うセーフティカーにも助けられ、デビュー戦ながら10位でフィニッシュし2位を獲得したベルニュと共にダブル入賞を決めた。しかし、パリePrix後にインディカー参戦のためチームを離脱した。テチーターはこれを契約違反とし、ヴェンチュリーのステファン・サラザンを後任に起用した。 インディカーインディ500の予選で負傷したセバスチャン・ブルデーの代役として第7戦デトロイトからデイル・コイン・レーシングから参戦。 レース戦績
フォーミュラフォーミュラ3・ユーロシリーズ
(key)
GP3
GP2
GP2アジアシリーズ
(key) F1
フォーミュラE
インディカー・シリーズ
(key) スポーツカーFIA 世界耐久選手権
ユナイテッド・スポーツカー選手権
脚注
外部リンク
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