ユンカース Ju 90
Ju 90
ユンカース Ju 90 は、第二次世界大戦 の前にルフトハンザ航空 が短期間使用した4発の40座席の旅客機 である。Ju 90は、試作以上の段階には進まなかったユンカース Ju 89 爆撃機 を基にしており、ドイツ空軍 はこの機を専ら軍事輸送 に使用した。大日本帝国陸軍 も購入を検討したが実現しなかった。
設計と開発
ユンカース Ju 90旅客機、輸送機 シリーズは、長距離戦略爆撃機の製造を目的としたウラル爆撃機(Uralbomber)計画の候補機ユンカース Ju 89から生まれた。この構想はドイツ航空省 (Reichsluftfahrtministerium、RLM)がより小型で高速の爆撃機を好んだために1937年 4月 に放棄された。
民間型の開発
デッサウ工場で組み立て中のユンカース Ju 90
ルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa AG)は1933年の早期から長距離旅客機の要求を出していた。Ju 89の開発プログラムが空軍により放棄されたときには試作 3号機が半完成状態であり、ルフトハンザ航空は、この機体を元の主翼 と尾翼 を残し、これに新規に製造した幅広い胴体 を組み合わせて旅客機に改装するように要求した。この新しい機体はJu 90と名付けられた[ 1] [ 2] [ 3] 。
ユンカース Ju 90[ 1] [ 4] [ 5] は2枚の垂直尾翼 が付いた水平尾翼 をもつ4発の全金属製の低翼 単葉機 である。主翼前縁に顕著な後退角 が付き、後縁はほぼ直線となっている。主翼構造は5本の管状桁 に表面の滑らかな圧延外皮で構成されていた。ユンカース社特有の"2重翼(double wing)"と呼ばれる、全幅に渡る複合フラップ /エルロン が取り付けられていた。尾翼部分にのみユンカース社伝統の波型外皮を採用していた。垂直尾翼に顕著に突き出して装着された方向舵 は水平尾翼の端に取り付けられ、方向舵は昇降舵 とは隙間を置いて離れており、別の形で2重翼を構成していた。これらの尾翼はJu 89からの流用であった。
新しい胴体は圧延 された滑らかなジュラルミン 製外皮で覆われた円形断面で、左右5組の長方形の窓が付いていた。8座席のコンパートメント 内には1組の窓と、中央の通路 を挟んで相対する2座席が配されており、これが4つか5つあった。5つのコンパートメントを持つ機体は最大40名の乗客を収容できた。機体 後尾にはトイレ 、クロークルーム 、郵便保管庫が備えられ、荷物は客室前方に搭載した。胴体は当時の標準としては大きかったが、その直径(2.83 m、9 ft 3.5 in)はボーイング737 (3.52 m、11 ft 6.5 in)よりはかなり小さかった。
尾輪は完全な引き込み式で、単車輪の主脚 は油圧 で内側のエンジンナセル 内に引き込まれる。
最初の試作機のJu 90 V1は820 kW (1,100 hp)のダイムラー・ベンツ DB 600C 倒立V型 液冷エンジンを4基装備していた。このエンジンは前のJu 89と民間型生産機のJu 90のものより大出力であった。「大デッサウアー(Der große Dessauer)」という名を付けられたこの機体は1937年8月28日に初飛行し、ルフトハンザ航空は8箇月に渡る飛行テストの後で長距離飛行テストを実施した。1938年2月6日に、この試作機はオーバースピード試験中に墜落 した[ 1] 。
試作2号機(V2)は1938年5月、テストのためにルフトハンザ航空に納入された。全ての民間型生産機のJu 90と同様に、この機には620 kW (830 hp) のBMW 132 星型エンジン が装着された。本機のエンジンを低出力エンジンへ変更した理由は、おそらくダイムラー・ベンツ社が生産するエンジンを、より戦略的に重要な第一線機に優先配分するためであった[ 3] 。この機は「プロイセン(Preussen)」と命名され、熱帯 運用テスト中の1938年11月26日にガンビア のバサースト(Bathurst )で離陸中に墜落した。この事故はエンジン故障に起因すると考えられる。
このようなつまづきにもかかわらずルフトハンザ航空は量産型のA-1を8機発注し、それとは別に、続く2機の試作機も使用した。V3 「バイエルン(Bayern)」は1938年 7月 からベルリン - ウィーン 間に就航し、1938年中に総計62,572 kmを飛行したと言われている[ 3] 。ルフトハンザ航空はA-1を7機しか受領できず、最後の1機は1940年 4月 に直接ドイツ空軍 に納入された[ 5] 。
南アフリカ航空 も670 kW (900 hp)のプラット・アンド・ホイットニー ツインワスプ エンジン搭載の2機のA-1を発注した。これらの機体はBMW社製エンジンを搭載したZ-2と区別するために、Z-3というもう一つの名称を持っていた。これらの機体は南アフリカ航空には納入されず、代わりにドイツ空軍へ行った。戦争の進行に連れて残存していた6機のルフトハンザ航空の機体もドイツ空軍に徴発 されたが、後に2機が返還された。元ルフトハンザ航空の機体の内4機がノルウェー侵攻 に使用された[ 2] 。
4番目の試作機V4が980 kW (1,320 hp) のユンカース ユモ 211 F/L エンジンを搭載して1941年7月にドイツ空軍に就役した。
軍用型の開発
Ju 90(おそらくV8)1943年 、イタリア のグロッセート にて
1939年 4月 にRLMはユンカース社にJu 90のさらなる軍用輸送機[ 1] [ 5] としての開発を要求した。Ju 90 V5と V6はこの軍用仕様の試作機であり、翼長が伸ばされ(19%)、翼面積が拡大(11%)されて中間部の前縁が直線にされた新しい主翼を持っていた。降着装置 は強化され2重タイヤになり、垂直尾翼はより丸い形状になったので初期型の特徴は失われた。窓は各側10の舷窓 に交換された。Ju 90 V5は1939年 12月5日 に初飛行を行った。V5とV6の特別装備は、車両や大きな貨物を搭載するための、胴体の床に設けられた搭載ランプであった[ 6] [ 5] 。このランプを開くと胴体を飛行時の水平状態まで持ち上げた。両機はより強力な1,200 kW (1,600 hp)のBMW 801 MA 星型エンジンを装備していた。
最後の2機の試作機V7とV8は直接的にユンカース Ju 290 の開発プログラムに繋がった。V7は胴体が1.98 m (6 ft 6 in)延長され、水平尾翼はヨーイング の不安定さを解消するため上反角 がつけられた。偵察機 型の試作機は空力的にV7と類似していたが、V8は2門の20 mm MG 151 機関砲 と9門の13 mm MG 131 機関銃 を胴体上面に2箇所、胴体下面に1箇所、尾部の銃座に装備していた。
Ju 2/390の開発
Ju 90の中の数機はより大型の輸送、偵察機であるJu 290 の試作機に換装された。より強力なエンジンと改良を施されたJu 90 V5とV7がこの方向で改装され、V7はJu 290 V3に転換された。Ju 90 V8は試作2号機のJu 290 V2となった[ 7] 。未完成であったAシリーズの11番目の機体はJu 290 V1に転換された[ 5] 。Ju 90 V6の機体はユンカース Ju 390の製造に使われた。
日本陸軍の購入計画
1938年2月、日本陸軍は九二式重爆撃機 の後継機「仮称キ90 」(もしくはキ50 )として本機に着目する[ 8] 。ユンカース社で10機を製作して空輸、購入代金は満州国 の大豆 をドイツへ売却した代金から充当するという方針であった[ 9] 。陸軍から依頼を受けた三菱重工 は武田次郎本社営業課長をユンカース社に派遣、同年7月25日から交渉を開始した[ 10] 。だがユンカース社は返答を先延ばしにし、9月9日に拒否の方針を伝えた[ 10] 。
現存機
結局、各型合計18機のJu 90が製造された。少なくとも2機が戦争を生き延び連合国軍の手に落ちたが、その後間もなくスクラップにされ現存機は無い[ 1] [ 2] 。
運用
ドイツ国
要目
(Ju 90A1 又の名は Ju 90 Z2)
乗員:4名
乗客数:38 - 40名
全長:26.30 m (86 ft 3.5 in)
全幅:35.02 m (114 ft 10 in)
全高:7.50 m (24 ft 7 in)
翼面積:184 m2 (1,980 ft2 )
空虚重量:19,225 kg (42,391 lb)
全備重量:33,680 kg (74,264 lb)
最高速度:350 km/h (217 mph)
巡航速度:320 km/h (200 mph)
巡航高度:5,750 m (18,860 ft)
エンジン:4 * BMW 132 H-1, 610 kW (820 hp)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
命名法制定 (1933年) 以前 機体 (キ) 滑空機 (ク) 気球 その他 関連項目