試製三座軽爆撃機試製三座軽爆撃機(しせいさんざけいばくげきき)は、大日本帝国陸軍が試作した軽爆撃機。製造は陸軍の東京砲兵工廠で行われた。 概要1925年(大正14年)初頭、陸軍は国産軽爆撃機の試作を三菱航空機、中島飛行機、川崎造船所飛行機部(後の川崎航空機)の3社に指示すると同時に、陸軍航空部補給部(後に陸軍航空本部航空技術部)で独自に全金属製軽爆撃機の試作を行うことを決定した。補給部では設計を川崎がドイツから招聘していたリヒャルト・フォークト技師に委託し[1]、機体の製造は東京砲兵工廠で行うこととした。しかし、機体の完成が1926年(大正15年)10月に行われた審査に間に合わず、三菱が提出した一三式艦上攻撃機改造機(2MB1)が八七式軽爆撃機として制式採用されることになった。 その後、1927年(昭和2年)に2機の試作機が完成し、航空技術部によって改良と研究が続けられたが、八八式軽爆撃機が制式採用されたことを受けて1929年(昭和4年)に費用がかさむ本機の開発は中止された。 機体は全金属製の胴体と金属製・一部羽布張りの主翼を持つ進歩的な複葉機で、当時の単発機としては最大クラスである1,455 kgの搭載量を誇る。補助翼や着陸脚の緩衝装置、制作時の工作法にも新機軸が取り入れられていた。しかし、同時期の他機体と比較すると機体が大柄であり、これが開発中止の原因の一つとなった。また、試験飛行中にプロペラが金属製3翅から木製2翅に換装されている。 諸元※寸法は推定値。
脚注
参考文献
関連項目
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