1972年フランスグランプリ
1972年フランスグランプリ (1972ねんフランスグランプリ、英: 1972 French Grand Prix) は、1972年のF1世界選手権第6戦として、1972年7月2日にシャレード・サーキットで開催された。 背景2年ぶりの開催となるシャレード・サーキットは新しい安全基準を満たすように改修されたが[2]、死火山の麓に位置するため、コースの両側に落ちてくる暗い火山性の岩石が安全上の懸念材料となっていた[3][4]。 レース前オランダGPはザントフォールト・サーキットが安全性向上のための改修中だったためキャンセルされ、前戦ベルギーGPから約1ヶ月間空いた[2]。 その間の6月10日から11日にかけて行われたル・マン24時間レースはマトラ・MS670を駆るグラハム・ヒルとアンリ・ペスカロロが優勝した[1]。ヒルはこの勝利により、史上初(2019年終了時点でも唯一)の世界三大レース制覇を成し遂げた[5][注 1]。一方、元GPDAの会長であったヨアキム・ボニエがこのレースでの事故で亡くなっている[6]。 その翌週の6月18日にローマ郊外のヴァレルンガ・サーキットでイタリア共和国GPが開催されたがフェラーリは参加せず、決勝をスタートしたのはわずか7台に過ぎなかった。レースはロータスのエマーソン・フィッティパルディが制し、サーティースのアンドレア・デ・アダミッチが2位、テクノのナンニ・ギャリが3位となった[2]。 エントリーティレルは新車005を投入した。胃潰瘍により前戦ベルギーGPを欠場したジャッキー・スチュワートは005をテストできず、003に満足していたこともあり、フランソワ・セベールが005を使用する。レギュラーの2人に加え、タイトルスポンサーのエルフが推す地元出身の新人パトリック・デパイユに004を与えた[1]。 フェラーリのクレイ・レガツォーニはサッカーで遊んでいた際に手首を痛めてしまい、本来テクノのナンニ・ギャリが代走を務め、デレック・ベルがテクノを走らせる[2]。 マリオ・アンドレッティとピーター・レブソンはアメリカのレースに出場するため参加せず、マクラーレンはモナコGP同様ブライアン・レッドマンが代走を務める[1]。 マーチは失敗作の721Xを諦め、プライベートチームのマイク・ボイトラーが先行使用していた721Gを使用することにした。721GはF2用の722をベースとしたものである[7][1]。 ル・マン24時間レースを制した一方、F1ではこの年わずか2点と不振のマトラは、ホームグランプリを迎えるにあたりMS120Cの改良型MS120Dを投入した[1]。 南アフリカ共和国のスクリバンテ・ラッキーストライク・レーシングはロータス・72Dで、同国出身のデイヴ・チャールトンとともにヨーロッパに進出した[1]。 エントリーリスト予選フランソワ・セベールは新しいティレル・005で2分55秒4の好タイムを出したが[9]早い段階でクラッシュしてしまい[2]手首を負傷した。このクラッシュで005は使用できなくなり、セベールは旧型の002に乗り換えざるを得なかった[1]。 クリス・エイモンがシャレード・サーキットで前回開催された1970年のポールポジション(ジャッキー・イクス)タイムより5秒速い2分53秒4で、キャリア5回目にして最後のポールポジションを獲得した。デニス・ハルムはエイモンに0.8秒差で2番手とフロントローに並び[1]、ジャッキー・スチュワートとイクスが2列目に並んだ。3列目はティム・シェンケン(サーティース)とヘルムート・マルコ(BRM)という意外な組み合わせで、セベールとエマーソン・フィッティパルディを4列目に退けた[2]。 ジャン=ピエール・ベルトワーズは日曜の朝に自身のBRM・P160Bを壊したため、ハウデン・ガンレイのP160Bで最後尾グリッドから決勝に出走し、ガンレイは決勝に出走できなくなった[2]。チームメイトのピーター・ゲシンも土曜日にP160Bを壊し、決勝に出走できなくなった。ウィリアムズのアンリ・ペスカロロもマーチ・721を壊し、テクノのデレック・ベルもあまりにも多くのメカニカルトラブルに見舞われたため、いずれも決勝への出走を見合わせた。これにより、予選落ちはデイヴ・チャールトン1台のみとなった[1]。 予選結果
追記
決勝晴れ渡った太陽の下、地元出身の優勝経験者であるフランソワ・セベールとジャン=ピエール・ベルトワーズを応援するために5万人を超える観客が集まった[1]。 ポールポジションからスタートするクリス・エイモンがデニス・ハルムとジャッキー・スチュワートを抑えてトップに立ち、ジャッキー・イクスとヘルムート・マルコがそれを追う。オープニングラップではエマーソン・フィッティパルディがマイク・ヘイルウッド、ティム・シェンケン、マルコをかわして5位に順位を上げた[2]。 コースの端を避けたドライバーはしばしば岩石をコースの真ん中に飛ばしてライバルの進路を塞いでいき[3][4]、9周目にマルコがこの犠牲者となってしまった。前を走るE.フィッティパルディのロータス・72Dから跳ねられた石がヘルメットのバイザーを貫通して左目を直撃し、失明寸前に追い込まれてしまった。このアクシデントによりマルコはドライバーを引退しなければならなかった[3][4][6][注 2]。20周目には首位を走行するエイモンも落石によってタイヤがパンクする不運に見舞われてピットインを余儀なくされ、労せずしてスチュワートがトップに躍り出た[1]。イクスはタイヤの摩耗に苦しみピットインを余儀なくされたハルムに代わって2位を走行していたが[2]、29周目にイクスも落石によってパンクしてしまい、E.フィッティパルディが2位に浮上した[1]。このようにコース上に落ちた石でレース中に10台のタイヤをパンクさせたことは、このサーキットでの常習的な危険性を意味していた[3][4]。 胃潰瘍により前戦ベルギーGPを欠場したスチュワートは復帰戦を勝利で飾った。地元フランスのエルフをタイトルスポンサーとするティレルにとっても大きな勝利であった[13]。2位のE.フィッティパルディはドライバーズチャンピオン争いの首位をキープした。エイモンはタイヤを交換した後、ファステストラップを連発して猛然と追い上げを見せ、3位まで順位を戻して表彰台獲得にこぎつけたが、地元ファンはエイモンの不運に大きく失望し、マトラはF1からの撤退を真剣に検討するようになった。地元出身のフランソワ・セベールは手首を負傷しながらも4位、ロニー・ピーターソンが5位、ヘイルウッドが6位に入賞した[1]。 落石によるタイヤのパンクが相次いだことから、シャレード・サーキットでのF1開催はこの年で最後となり、翌1973年のフランスGPはポール・リカール・サーキットに移された[3][4]。 レース結果
第6戦終了時点のランキング
脚注注釈
出典
参照文献
外部リンク
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