マトラ・MS670
マトラ・MS670(Matra MS670 )は、マトラが開発したプロトタイプレーシングカーである。1972 - 1974年のル・マン24時間レースにおいて3連覇を果たした。 本項では発展型のMS680Bについても説明する。 概要1970 - 71年のル・マンに出走したMS660の後継車として開発。基本的なメカニズムはほとんど変わらないが、フロント部のホイールが15インチから13インチに縮小(リヤは同一)、リム幅がフロント・11インチ、リヤ・15インチに変更された。エンジンは新設計のMS72(出力は450bhp/10,500rpm)が搭載される(ペスカロロ車は旧式のMS12)。 1973年型はギアボックスがZFからヒューランド製のDG300に変更される。エンジンの出力は475bhp - 480bhpにアップ。ル・マンで改良型のMS670Bが登場。MS670との相違点はリヤ・ホイールが13インチに縮小、それによりリヤのブレーキがインボード化された。また耐久性向上のためポルシェ製のギアボックスが搭載された[1]。 1974年はMS670Cにバージョンアップ(ル・マンではポルシェ製のギアボックスを装備したMS670Bを使用)。インダクションボックスが前年型より高く設定され、フロントのラジエター・インテークの形状が前年までのインテーク上面がゆるやかな曲線状から直線形になり、ボディの細かいところに手が入れられている。エンジンは出力が490bhp/11,500rpmにアップしたMS73が登場(ル・マンでは450bhp/10,500rpmに抑えられた)。ギアボックスはDG300からTL200に変更された。 戦績1972年この年は世界メーカー選手権には参戦せず、6月10 - 11日に開催されたル・マン24時間のみに参加した。
上記三組がMS670でエントリー(他にジャン=ピエール・ジャブイーユ/ディビッド・ホッブス組がMS660Cに乗る)。なお、フランス人と他国人ドライバーという組み合わせの理由は、いずれかのマシンが優勝してもフランス人ドライバーが優勝ということにするため[2]。ペスカロロ/ヒル車のみショートテール仕様で、他2台はロングテール。 前戦まで連勝を続けていたフェラーリ陣営が直前の6月1日になって参戦を見合わせたため、優勝の本命と目された。予選では3台のMS670が1 - 3位を独占、決勝では優勝候補のベルトワーズ組が首位に立ったが、2周目にダンロップ・ブリッジ付近でコンロッドが破損、"アルナージュ"まで来たところで出火してリタイヤ。エイモンは一回も走らずに終わった。レースはセベール組と首位を争ったペスカロロ組が優勝、セベール組も2位に入り悲願のル・マン初優勝を果たした。
1973年ル・マンを制したことによりF1から撤退、世界メーカー選手権のタイトル獲得のため本格的に参戦を開始する。ドライバーはベルトワーズ、セベール、ペスカロロの他にジェラール・ラルースが新たに加入。ジャブイーユ、ジャン=ピエール・ジョッソーがリザーブドライバーという布陣で臨んだ(スパ・フランコルシャン1000kmのみ欠場したベルトワーズ/セベール組に代わってエイモン、ヒルが参加[3])。 前年のチャンピオンであるフェラーリとの一騎討ちが注目されたが、フェラーリ陣営が73年型312PBのロングホイールベース化によるアンダーステアに悩まされたのに対して5勝をあげるなど速さではフェラーリを上回っていた。ル・マンでもフェラーリを下して2連勝を飾る。 第10戦ワトキンズ・グレン6時間終了時点でのポイントはマトラが124点、フェラーリが127点と僅差でフェラーリがリードしていたが、最終戦のブエノスアイレス1000kmがアルゼンチン国内の事情により中止され[4]、有効得点[5]の関係でマトラがフェラーリを逆転して選手権のタイトルを獲得した。
1974年ライバルのフェラーリがスポーツカーレースから撤退したためチャンピオンの有力候補と目された。ドライバーは事故死したセベールに代わってジャン=ピエール・ジャリエが加入した他は前年と同じ顔ぶれ(スパ1000kmのみベルトワーズに代わりジャッキー・イクスがドライブ)。初戦のモンツァ1000kmこそ落としたものの、ル・マンでペスカロロ/ラルース組が2年連続で優勝したのを含む9戦全勝で2年連続のチャンピオンを獲得する。しかし、シーズン終了後クライスラーがレース資金の援助を打ち切ることになり、スポーツカーレースから撤退した。
MS680B1974年のル・マン24時間にMS670Bを元にして製作されたMS680Bを投入。相違点はフロントにあったラジエターがボディ側面に移設されたことである。ベルトワーズ/ジャリエ組がドライブしたが104周でエンジントラブルのためリタイヤ。皮肉にも一番初めに戦線離脱することになった。この後第8戦ポールリカール1000kmに持ち込まれ練習走行に出走したが、レースには登場せず。 ドライバー
脚注参考文献
関連項目
外部リンク |