1972年アルゼンチングランプリ
1972年アルゼンチングランプリ (英: 1972 Argentine Grand Prix) は、1972年のF1世界選手権の開幕戦として、1972年1月23日にブエノスアイレス・サーキットで開催された。 レースは95周で行われ、2番手からスタートしたティレルのジャッキー・スチュワートが優勝した。マクラーレンのデニス・ハルムが2位、フェラーリのジャッキー・イクスが3位となった。 背景アルゼンチンGPは1960年以来12年ぶりにF1世界選手権のカレンダーに復帰した[注 1][2]。 エントリー参戦チームとドライバー前年のコンストラクターズランキング順に記載する。 前年のチャンピオンであるティレルは、前年度王者のジャッキー・スチュワートとフランソワ・セベールのまま変わらず[3]。マシンもスチュワートが003、セベールが002で継続[2]。 BRMは前年にペドロ・ロドリゲスとジョー・シフェールを相次いで失ったが、新たなタイトルスポンサーとしてマールボロが付き、前年から残留するピーター・ゲシン、ハウデン・ガンレイ、ヘルムート・マルコに加え、マトラから移籍したジャン=ピエール・ベルトワーズが新たなエースとなり、ロータスからレイネ・ウィセルが移籍し、アレックス・ソラー=ロイグが最後のシートを手に入れ、常時3-5台の大量エントリーを敢行する[3]。ただし、ベルトワーズは前年のブエノスアイレス1000kmレースの事故によりアルゼンチンの司法省による訴追の脅威に曝されていたため、大西洋を渡らず欠場した[2]。マシンは前年の改変型P160Bを主に使用する[3]。 フェラーリは312B2の弱点だったリアサスペンションに改良を施した[4]。ドライバーはジャッキー・イクスとクレイ・レガツォーニのまま変更なく、マリオ・アンドレッティも引き続きアメリカでのスケジュールの都合が付く場合に限り参戦する[3]。 マーチはロニー・ピーターソンが残留し、ニキ・ラウダが加入した。マシンは前年の成功作711の改良型721を投入した[5]。 ロータスは前年までのゴールドリーフから同じインペリアル・タバコのブランドである「ジョン・プレイヤー・スペシャル(JPS)」にタイトルスポンサーを変更したことに伴い、主力マシン72Dのカラーリングもブラックとゴールドに変わった。ドライバーはエマーソン・フィッティパルディが残留し、イギリスF3チャンピオンのデビッド・ウォーカーが加入した[5]。 前年までBRMのタイトルスポンサーであったヤードレーはこの年からマクラーレンのタイトルスポンサーとなり、主力マシンのM19Aのカラーリングはオレンジからホワイトに変更された。ドライバーはデニス・ハルムが残留し、ピーター・レブソンが加わった。レブソンもアンドレッティ同様、アメリカでのレースと重なる場合は欠場する[6]。 マトラはクリス・エイモンのみの1台体制に縮小し、マシンは改良型のMS120Cを使用する[6]。 サーティースはオーナーのジョン・サーティースがチーム運営やマシン開発に集中することになり、ドライバーラインナップもマイク・ヘイルウッド、ティム・シェンケン、アンドレア・デ・アダミッチと一新された[6]。ただし、ヘイルウッドは本レースを欠場する[2]。マシンは前年のアメリカGPで先行投入されたTS9Bを使用する[6]。 ブラバムはジャック・ブラバムに1年遅れてロン・トーラナックも手を引き、バーニー・エクレストンがチームを掌握して体制が一新された[6]。ベテランのグラハム・ヒルは残留したがNo.2に格下げとなりBT33をドライブし、新たなNo.1ドライバーとして新人カルロス・ロイテマンを迎え、前年にヒルが走らせたBT34を与えた[2]。 ウィリアムズはイタリアの玩具メーカー「ポリトイ」の支援を得て、ブラバムを去ったトーラナックにオリジナルF1マシンの制作を依頼した。しかし、開幕までに新車は完成せず、前年に引き続きマーチから721を購入することになった[2]。ドライバーはアンリ・ペスカロロが残留した[5]。 タイヤマーチ(とマーチを使用するウィリアムズも)はこの年からタイヤをグッドイヤーに変更した。ファイアストンはスリックタイヤのコンパウンドは1種類のみだったが、グッドイヤーはハード、ミディアム、ソフト、スーパーソフトの4種類のコンパウンドを用意した[2]。 エントリーリスト
予選F1デビュー戦のカルロス・ロイテマンが地元の大観衆に見守られる中、堂々のポールポジションを奪った。F1デビュー戦でポールポジションを獲得したのは1950年イギリスGPのジュゼッペ・ファリーナと1968年アメリカGPのマリオ・アンドレッティに次ぐ3人目[注 2]だが、ファリーナはF1最初のレースであり[8]、アンドレッティは厳密には参戦2戦目[9][注 3]であるため、事実上初の記録である[注 4]。ブラバムチームにとっては1970年スペインGPのジャック・ブラバム以来2年ぶりのポールポジション獲得である[10]。 ジャッキー・スチュワートはロイテマンに0.2秒差の2番手でフロントローに並び、2列目はピーター・レブソンとデニス・ハルムのマクラーレン勢が占め、グッドイヤー勢が2列目までを独占した。ファイアストン勢のトップは5番手のエマーソン・フィッティパルディで[2]、以下クレイ・レガツォーニ、フランソワ・セベール、ジャッキー・イクス、マリオ・アンドレッティ、ロニー・ピーターソンがトップ10に入った[11]。 予選結果
決勝レース当日は炎天下であったが8万人以上の観衆を集め、そのほとんどが地元出身のカルロス・ロイテマンを応援した。グッドイヤータイヤを使用するドライバーの多くがハードタイヤでのスタートを選択する中、ロイテマンは予選で使用したウルトラソフトタイヤでスタートする賭けに出た。スタート直前にクリス・エイモンのギアボックスが壊れ、スタートすることができなかった[2]。 スタートでジャッキー・スチュワートがロイテマンからリードを奪い[11]、デニス・ハルム、エマーソン・フィッティパルディ、クレイ・レガツォーニ、ロニー・ピーターソン、フランソワ・セベール、ピーター・レブソンが続く。フィッティパルディは2周目にハルムを抜き、8周目にはロイテマンも抜いてスチュワートに迫る。ハルムも12周目にロイテマンを抜いていく。ロイテマンのスーパーソフトタイヤは早くも摩耗して上位3台から引き離されていく。16周目にセベールがピーターソンを抜いて6位に浮上した[2]。 34周目にセベールがレガツォーニを抜いて5位に浮上する。その頃までにフィッティパルディはギアチェンジのトラブルに苦しみ、35周目にハルムに2位の座を明け渡した[11]。ロイテマンはタイヤの摩耗に苦しみ、43周目にはブラバム陣営がロイテマンのタイヤを交換する決断を下し、45周目にタイヤを変えてコースに戻り、14位まで後退したことで地元ファンは落胆した。これでセベールは4位となったが、60周目にオイル漏れによりギアボックスが壊れてリタイアし[2]、次の周にはフィッティパルディもリアサスペンションのトラブルでリタイアした。2人のリタイアによりジャッキー・イクスが3位に浮上したが[11]、首位のスチュワートとは1分以上の差が付いていた[2]。 スチュワートは一度も首位の座を譲らずにレースを制し[2]、2位のハルムは1970年メキシコGP以来1年半ぶりの表彰台に立った[14]。フェラーリ勢はスチュワートに大きく遅れを取りイクスが3位、レガツォーニは4位に甘んじた[15]。ティム・シェンケンはサーティース移籍初戦で5位入賞を果たした。ピーターソンが6位に入賞した。ロイテマンは7位まで順位を回復した[2]。 レース結果
第1戦終了時点のランキング
脚注注釈
出典
参照文献
外部リンク
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