1969年モナコグランプリ座標: 北緯43度44分4.74秒 東経7度25分16.8秒 / 北緯43.7346500度 東経7.421333度
1969年モナコグランプリ (1969 Monaco Grand Prix) は、1969年のF1世界選手権第3戦として、1969年5月18日にモンテカルロ市街地コースで開催された。 レースは80周で行われ、ロータスのグラハム・ヒルが4番手スタートから優勝した。ヒルは通算14勝目で最後の勝利でもあった。そしてモナコGPの通算5勝目でもあり、この記録は24年間破られなかった。フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズからブラバムを走らせたピアス・カレッジが2位、ロブ・ウォーカーからロータスを走らせたジョー・シフェールが3位となった。 そして、コンストラクターとしてのクーパーとエンジンサプライヤーとしてのマセラティのF1最後のレースであり、アンティーク・オートモビルズからビック・エルフォードのドライブにより7位で完走した。 エントリーロータスは、前戦スペインGPのアクシデントで鼻を骨折したヨッヘン・リントの代走として、リチャード・アトウッドを起用した[1]。シルビオ・モーザーはブラバム・BT24を購入し、エンジンをDFVに換装して自らのチームで参戦する。新たに参戦するアンティーク・オートモビルズは、手持ちのクーパー・T86B-マセラティを持ち込み、ビック・エルフォードがドライブする。同チームは次戦オランダGP以降、マクラーレンから購入したM7Bを使用したため、前年をもってワークス活動を終了した1959年-1960年のコンストラクターズチャンピオン「クーパー」の名も、本レースを最後にF1から消滅した[2]。また、エンジンサプライヤーのマセラティと[3]、レグ・パーネル・レーシングも本レースがF1最後のレースとなった[4]。 エントリーリスト
予選前戦スペインGPでロータス勢はウィングの破損が原因で大破し、負傷したヨッヘン・リントは病室からFIAに宛ててウィングの禁止を訴える声明文を発した。FIAも事態を重大視し、「ロールバーやオイルクーラーなど機構上必要な部分を除くいかなる部分も、タイヤの高さから25cm以上超えてはならない」とウィングの高さを大幅に制限することを決め、即実効となった。これにより、予選初日に大型ウィングが搭載されていたマシンも、急遽それを取り外すことになった[6]。ロータスは小さなウィングに付け替えて以後のセッションに臨んだ[7]。 マトラのジャッキー・スチュワートが初のポールポジションを獲得し、2番手のクリス・エイモン(フェラーリ)とフロントローを獲得した。スチュワートのチームメイトのジャン=ピエール・ベルトワーズは3番手で、グラハム・ヒル(ロータス)と2列目、ジョー・シフェール(ロブ・ウォーカーのロータス)とジョン・サーティース(BRM)が3列目、ジャッキー・イクスとジャック・ブラバムのブラバム勢が4列目を占め、フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズでブラバムを駆るピアス・カレッジが続いた[8]。 予選結果
決勝ジャッキー・スチュワートが先頭に立ち、クリス・エイモンが後を追った。ジャン=ピエール・ベルトワーズはグラハム・ヒルからのプレッシャーを受け、ヒルは3周目にベルトワーズを抜いて3位に浮上した。スチュワートは10周目でエイモンに10秒の差を付けた。中団グループでは、ジョン・サーティースがトンネルでギアボックスの不具合に見舞われ、ジャック・ブラバムと接触してしまった。両者とも怪我はなかった[8]。エイモンは17周目にディファレンシャルの故障に見舞われリタイアし[11]、3位となったベルトワーズは21周目にドライブシャフトの故障でリタイアした。1周後に首位のスチュワートもチームメイトのベルトワーズと同じトラブルを抱えてリタイアした。これでヒルが首位に立ち、2位を争うジャッキー・イクスとピアス・カレッジに12秒の差を付けてリードした。イクスとカレッジの2位争いは、イクスが49周目にリアサスペンションが壊れてリタイアするまで続いた[8]。 ヒルはモナコGPで5勝目を挙げ、「ミスター・モナコ」の異名を頂戴するようになる。そして、結果的にこれがヒルにとってF1最後の勝利となった[7]。フランク・ウィリアムズ率いる新興プライベートチーム「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」からブラバムを駆るカレッジが2位に食い込み[12]、ロブ・ウォーカーからロータスを駆るジョー・シフェールが3位となった[8]。 レース結果
第3戦終了時点のランキング
脚注注釈出典
参照文献
外部リンク
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