岩田聡
岩田 聡(いわた さとる、1959年〈昭和34年〉12月6日 - 2015年〈平成27年〉7月11日[1][2])は、日本のゲームクリエイター、プログラマ、実業家[9]。 任天堂の元代表取締役社長で、ハル研究所代表取締役社長なども歴任した[9]。 経歴生い立ち北海道札幌市真駒内出身[10]。父の岩田弘志は当時、北海道庁観光課に勤務する公務員であったことから、道庁宿舎にて幼年期を過ごした[11]。小学校は札幌市立真駒内曙小学校に入学[10]。小学校6年生の時に札幌冬季オリンピックが開催され、真駒内近隣に建てられた選手村にサイン帳を持って遊びに行く日々を過ごしていたという[12]。また、真駒内競技場で開催されたオリンピック開会式では近隣小学生による「風船スケーター」として、岩田も参加している[13]。札幌市立真駒内中学校に入学すると、合唱部に所属し、新聞配達のアルバイトを始めた[14]。また電電公社が行っていたコンピュータの時間貸しサービス(DIALS)によって、初めてコンピュータゲームという存在に触れたのがこの頃だった[15]。岩田は1994年に出版された『ゲームデザイナー入門』のインタビュー記事にて「毎週日曜日に『ゲーム31』という単純な数字取りゲームを勝つまでやっていた」と当時を振り返っている[15]。 1975年、岩田は当時道内随一の進学校とされていた北海道札幌南高等学校に進学した[16]。高校時代、岩田はヒューレット・パッカード社のプログラム電卓「HP-67」の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と父親の援助によって購入、その魅力に取り憑かれて独学でプログラムを学び、アメリカのSFドラマ『スタートレック』を題材とした自作のゲームを教室の隣席の友達に披露していた[17]。また、そのゲームをヒューレット・パッカード社の代理店に送ったこともあった。あまりの出来の良さに驚いた同社からは、大量の資料が送られてきたという[18][19][20]。また、岩田はバレーボール部に入部したが、自身のプログラム電卓を持ち込み、試合のスコアやサーブやアタックの決定率、レシーブの正確率などのデータを入力して解析を行ったり、自分でプログラミングしたバレーのゲームをチームメートに披露していたという[21]。岩田が卒業する頃には学生運動は下火となり、卒業式は思い思いの仮装で参加することがブームとなっていた[22]。岩田はクラスメイトと一緒に和服を着て駕籠を担いで卒業証書を受け取った[23]。 1978年、東京工業大学工学部情報工学科に進学し上京[24]。大学1年時には、大学の入学祝いを頭金にローンを組んでコモドール社のホームコンピュータ「PET 2001」を購入し[20]、それを販売していた西武池袋本店のパソコン常設コーナーに毎週のように通っていた。そこで同じくプログラミングを愛好する友人と出会い、彼とは後に、後述の「ハル研究所」で共に仕事をすることになる[25]。在学中は大手鉄鋼会社のシステムプログラムを150万円で請け負うような仕事をアルバイトとしてこなしていた[26]。大学時代は榎本肇研究室に所属。 ハル研究所時代ハル研究所社長就任前大学在学中、前述の西武池袋本店に勤めていた店員が「株式会社ハル研究所」(HAL研究所、通称「ハル研」)の設立に関わることになり、店の常連だった岩田と友人は誘いを受けてアルバイトとして勤務する。そこで岩田はプログラミングに熱中し、大学卒業後、そのままハル研究所の正社員となる[25]。それまでのハル研究所にはソフトウェア開発を担当する社員がおらず、岩田はその第一号となった[19]。なお、当時のハル研究所は社員数5人の零細企業であったため、岩田の両親は息子の進路に反対し、特に父親とは入社から半年ほど口を利かなかったという[27]。 入社2年目の時、1983年7月15日に、任天堂から家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が発売される。これに強い関心を持った岩田は、京都市にある任天堂に直接出向いて仕事請負の申し出を行い、結果、『ピンボール』『ゴルフ』といったファミコンソフトのプログラミングを担当することになった[25]。また、1985年1月に発売された『バルーンファイト』のファミコン版の担当時には、既存のアーケードゲーム版よりも滑らかなキャラクターの動きを実現した。アーケードゲーム版のプログラマーだった株式会社SRDの中郷俊彦は岩田の元を訪れてノウハウを聞き、それが、同年9月に発売される『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされることになった[28]。更に、エニックスのソフト『ドラゴンクエスト』の北米版『Dragon Warrior』を任天堂が発売する際にはローカライズ作業を担当した[29]。なお、後に深く関わることになる任天堂の宮本茂とは、1988年発売の『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』で初めて共同開発を行った[30]。 ハル研究所社長時代1992年、ハル研究所はゲーム事業の不振と不動産投資の失敗により多額の負債を抱えて経営危機に陥り、和議を申請する。そうした中で、1993年3月、取締役開発部長であった岩田が代表取締役社長に就任した[31][32]。これは、「岩田が社長をやるなら助ける」という援助者が現れたことがきっかけといわれている[33][注釈 1]。 岩田はそれまで経営とはほぼ無縁の立場であったが、社長として優れた経営手腕を発揮。『星のカービィ』シリーズなどのヒット作品が生まれたこともあり、15億円あった負債をこののち6年間で完済、ハル研究所の経営再建を成し遂げる[32]。 社長就任後、会社や仕事への不満を聞き取る目的で全社員との面談を実施した。この中で、社員との対話を重ねることが組織運営力や勤務意欲の向上に繋がると感じた岩田は、以降、この面談を半年に一度のペースで行うようになった[35]。ちなみに、後に任天堂社長になった際には、全社員ではないものの、直属に近い部下に対して同様の面談を行っている[36]。 社長業の傍らでプログラマとしての活動も続けた。当初は開発に関与していなかった『MOTHER2 ギーグの逆襲』が約4年の歳月を経ても完成せずに行き詰っていた際には、開発現場に出向き、「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」と申し出て開発を請け負った。その後、半年で大枠が出来上がり、そこから更に半年で内容に磨きを掛けて、結果、約1年で完成させた[37][38]。この作品の開発がきっかけとなってシリーズ生みの親である糸井重里との親交が深まり、その後、糸井のホームページ『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げにも協力した[39]。 また、『ポケットモンスター』(ポケモン)シリーズを手掛ける株式会社クリーチャーズの役員を岩田が務めていた縁もあり、『ポケットモンスター 赤・緑』(以下『赤・緑』)が国内で大ヒット作品となって、当時任天堂社長の山内溥から「赤・緑を海外展開しろ」と要望があがるも、開発元のゲームフリークはすでに次回作『金・銀』を開発中で人員リソースを割く事が出来なかったため、岩田自ら海外向けローカライズ作業を手伝うと申し出て、ゲームフリークが開発に6年かけ継ぎ足しで作られバグまみれだった『赤・緑』の複雑なプログラムを僅か1週間ほどで解析してしまい、ローカライズ作業をトントン拍子で進行させていったほか、解析したプログラムを元に『ポケモンスタジアム』用の戦闘プログラムとセーブドキュメントを作成もしており、更には開発が難航中だった『ポケットモンスター 金・銀』のグラフィック圧縮ツールの作成を行い[38][40]、ゲームフリークのメインプログラマーであった森本茂樹は「あの人は社長なの?凄腕プログラマーなの?」と岩田の能力に疑問と驚愕を覚えたという。なお同時進行でポケモンの権利ライセンスを全世界展開で管理するポケモンセンター株式会社の設立にも尽力している。 任天堂時代2000年6月、任天堂社長の山内溥に経営手腕を買われて任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任した[1]。 2001年5月に米国で行われたゲームの見本市「E3 2001」では、同年9月14日に発売を控えていた新型ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」に関するプレゼンテーションを行った[41]。 『大乱闘スマッシュブラザーズDX』の開発が遅れ、発売予定の2001年11月までの完成が危ぶまれる事態に陥った際には、山梨県のハル研究所に出向いて開発現場を指揮し、不具合を調べる作業(コードレビューやデバッグ)を行った。これがプログラマーとしての最後の仕事となった[20]。 2002年、42歳のときに山内から指名を受け、5月31日付けで任天堂の代表取締役社長に就任[1][42]。任天堂は、1889年に山内溥の曽祖父である山内房治郎が創業して以来、山内家の同族経営であったため、当初、次期社長は山内溥の長男・山内克仁か娘婿の荒川実だと思われていた。そうした中での入社2年目の岩田の抜擢は、異例中の異例であった。なお、それまで会社の意思決定は社長に一任されていたが、岩田の社長就任以降は取締役会によって決定されることとなる。これは「今後の時代に対応するには、集団指導体制にするべき」と考えた山内からの提案である。 社外出身で社内基盤が弱かったため、社長を補佐するための集団指導体制が整備され、代表取締役の増員により、代表取締役会長にシャープ出身の浅田篤が、代表取締役専務には波多野信治、竹田玄洋、宮本茂らがそれぞれ就任するなどした[42][43]。 2003年に開催された東京ゲームショウの中で岩田は基調講演を行い、「日本のゲーム市場では、ゲーム離れ現象が進行している」と、業界全体への危機感を示した。こうした状況を打開するため、任天堂は「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として位置づけ、幅広い層を対象としたハード、ソフトの開発に取り組むことになる[44]。 その一環として、2004年12月2日に、タッチパネルを搭載した2画面携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売。年末商戦期に投入されたこともあり、年末年始のみで約150万台を売り上げた。 翌年の2005年からは、多くの世代が手に取ることを目指したソフト群「Touch! Generations」を展開し、ミリオンセラーのソフトを複数生み出した。特に『脳を鍛える大人のDSトレーニング』は社会現象となり、略称の「脳トレ」は流行語として広く浸透した。また、ニンテンドーDSで利用できる「ニンテンドーDSブラウザー」や「ワンセグ受信アダプタ DSテレビ」などの周辺機器も発売した。 2006年11月19日には、リモコン型コントローラで操作する家庭用ゲーム機「Wii」を発売。このWiiでは本体の電源を毎日入れてもらうことを目指し、天気やニュースなどの様々なコンテンツを含む「Wiiチャンネル」が内蔵された[45]。また、歴代のゲーム機で発売されたゲームソフトをダウンロード購入してプレイできる仕組み「バーチャルコンソール」も導入された。 同2006年からは、任天堂ホームページ上で岩田が社内の開発者にインタビューする企画「社長が訊く」を開始する[46]。当初は発売を間近に控えたWii本体や同時発売のWii用ソフトの開発者に話を聞くものだったが、その後、新作ソフトが出る際などに定期的に行われるようになり、他社のクリエイターを招いて話を訊くこともしばしばあった。 2011年より、発売予定のゲームソフトに関する情報を動画で岩田が直接伝える試み「Nintendo Direct」を開始[47]。後に、岩田だけでなく任天堂や他社のクリエイターも登場するようになった。 2011年2月26日に発売したニンテンドーDSの後継機「ニンテンドー3DS」は普及が進んだものの、本体価格の値下げによる逆ザヤ状態での販売が続いたことなどが響き、2012年3月期の決算で通期営業赤字に陥った[48]。また、2012年12月8日に発売したWiiの後継機「Wii U」は販売台数で苦戦し、特に海外市場での販売鈍化が目立った。2013年には任天堂の米国法人CEOも岩田が兼任することとなった。 晩年2014年6月に、健康診断で胆管腫瘍が発見されたことを公表した[49]。切除手術は無事終了したものの、療養のため直後の株主総会を欠席した[50][51]。その後、同年8月に復帰[51]。10月の経営方針説明会で公の場に再び登場した[52]。 2015年2月からは、療養以降休止していた「社長が訊く」を再開[46][53]。同年6月に米国で開催された「E3 2015」の期間中には、姿は見せなかったもののTwitter上で情報を発信した[54]。また、6月末に行われた株主総会には姿を見せ議長を務めた[51]。 しかし、7月に入ってから体調を崩して入院し、その後11日に容態が急変した。2015年7月11日、代表取締役社長に在職中のまま、胆管腫瘍のため、京都市左京区の京都大学医学部附属病院で死去した。55歳没。逝去の事実は、13日に任天堂より公表された[1][2]。また、岩田の死は世界でも大きく報道された[55][56][57]。 最晩年の2015年3月期の決算では、4期ぶりに営業黒字に回復[58]。2015年3月には、ディー・エヌ・エーと業務・資本提携してスマートデバイス向けサービスを共同開発することや、新型ゲーム機「NX」(コードネーム、後のNintendo Switch)を開発中であることを発表した[59]。業績が上向き、事業構造の変革や新規ハードの製作に乗り出した途上での急逝となった。 岩田の急逝後、任天堂代表取締役社長の座は約2か月間空席となり、その間は竹田と宮本が職務を代行した。その後同年9月16日に、任天堂経営統括本部長兼総務本部長を務めていた常務取締役の君島達己が、岩田の後任の任天堂第5代代表取締役社長に就任している。 人物・エピソード
略歴
作品※岩田が任天堂社長になる以前に関わったゲームソフトのタイトルを記述する。 ゲーム機の略称
脚注注釈出典
参考文献
関連書籍
関連項目
外部リンク任天堂 ほぼ日刊イトイ新聞
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