ハル研究所
株式会社ハル研究所(HAL研究所、ハルけんきゅうしょ、英: HAL Laboratory, Inc.[3])は、主にゲームソフトウェア、周辺機器、ゲーム制作システムの開発を行う日本の企業[1]。 1980年2月21日に創業。MZ-80K/CやPC-8001といったマイコンの時代から存在している老舗ソフトハウス。マイコン時代には各種ハードウェアも開発・販売していた。家庭用ゲーム機向けソフトウェアの開発は1984年に任天堂のファミリーコンピュータから参入した。後にパソコン関連製品事業とハードウェア事業を切り離してからは任天堂の家庭用ゲーム機向けソフトウェア開発のほか、任天堂ゲーム機で使用されるサービス・本体機能の開発および音楽・書籍・キャラクター関連の企画制作を行っている[1]。 沿革創業西武百貨店池袋店のパソコンコーナーに、コモドールのパソコン「PET 2001」の一角があった。その前に集っていた岩田聡を初めとする当時、大学生のパソコンマニア達に、後に経営者となる一人の店員が声をかけて[4]、岩崎技研工業が出資してハル研究所は設立された[5][6][7]。代表取締役社長は池田光博。[8]1980年のことである。社員ひとりと6人の学生アルバイトで、秋葉原にあるマンションの一室を開発室としてのスタートだった[注釈 1]。 社名の「HAL」は、「IBM」のアルファベットを1文字ずつ前にずらし、(当時最大のコンピュータ企業だった)IBMの一歩先を行くという意味を込めたとされる『2001年宇宙の旅』のコンピュータ「HAL 9000」に倣い名付けられた[10](ただし、「HAL 9000」の由来は俗説であり原作者のアーサー・C・クラークらは否定している。詳細はこちらを参照)。登記上は株式会社ハル研究所だが、広告や商品パッケージなどでは1980年の設立当初から株式会社HAL研究所と表記していた[11]。なお、2002年に商業登記規則等の改正によりアルファベットが使えるようになってからも[12]社名は変更しておらず、現在では各種SNSアカウントをはじめ、ハル研究所と表記している。 創業当初創業当初はパソコン関連の周辺機器を多く開発し、特にパソコン(当時はマイコンと言った)の画像表示とサウンド能力を向上させるユニットPCGシリーズはヒットを記録した(詳細は後述の「周辺機器」を参照)。周辺機器としては他にもトラックボールや、NECのPC-8801シリーズの拡張音源ユニットを発売。 当時のパソコン専門誌「I/O」にもPCG-8100を用いたゲームプログラムが投稿されている。ハル研究所も自社ブランドでPCG-8100を用いたナムコのゲームソフトを移植して発売した[注釈 2]。 元々PET 2001のユーザーグループを母体とした会社であり、PET 2001にサードパーティとしてPCGやゲームソフトを提供した。その実績を買われ、PET 2001の後継機VIC-1001ではコモドールジャパンの下請けとしてゲームの開発を担当する。引き続いてVIC-1001の後継機マックスマシーンにも『Jupiter Lander』(1982年)などを提供し、これらのゲームはマックスマシーンが発売されなかった欧米では上位互換機のコモドール64向けゲームとしてコモドール本社からリリースされた。 ファミリーコンピュータ発売以後1982年、アルバイト従業員だった岩田が大学を卒業して正社員となり、1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売される。ハル研究所の出資会社が任天堂と取引していた関係から、ファミコン市場にも早くから参入した。参入第1作は『ジャウスト』だったが、諸般の事情で任天堂から発売されることはなく、1984年2月に任天堂から発売された『ピンボール』がファミコンでの初リリース作品となった。同年に任天堂から出資を受けてから以後は同社のセカンドパーティーとして[13]、任天堂ブランドで発売された『ゴルフ』『マッハライダー』『バルーンファイト』『F1レース』の開発に携わった[7]。 1984年4月には代表取締役社長に池田毅が就任。 1980年代中期以降、「MSXをMacintoshにする」という触れ込みで、MSX2にGUIと日本語FEPを用意した統合環境である「HALNOTE」を開発[14]するがほとんど売れなかった。この後継版はアスキーから「MSXView」として発売、MSX最後のマシンである松下電器「FS-A1GT」では標準搭載され正式にMSXturboRのGUI環境として認められたほか、HALNOTEの日本語FEPはソニーのMSXマシンに標準採用された。また、ソニーのMSX2+マシンに標準添付されたグラフィックツールの開発も担当した。このように、HALNOTEの遺産は新世代のMSXの基本アプリケーションを構成したが、その後MSXの市場が消滅したため報われることはなかった。 倒産自社ブランドでソフト事業とハードウェア事業を展開し、1990年には社員が90人近くにまで拡大したため、1991年から拠点を山梨県にしようと開発センターの建設を行い、同年4月に完成した[15]。しかし、建設費用の大半である銀行からの借入金の金利負担が大きく、資金繰りが悪化した[15][13]。ゲームソフトの売上げ不振も重なり、1992年6月22日に和議を申請してついに倒産した、負債総額は約50億円[15]だった。任天堂のサードパーティで倒産したのはハル研究所が初めてだった[15]。このことを任天堂の社長であった山内溥は「ハル研究所が行き詰ったのは、ユーザーが面白いと思う味つけが下手だった」[16]からと述べていた。 再建一方でハル研究所のソフト開発力を評価していた任天堂は岩田聡を再建社長とすることを条件に資金援助を行った[17][13]。1993年3月に岩田聡がハル研究所の代表取締役社長に就任し[18]、社員は半減させ、負債は15億円までに減額されて6年で返済する計画で再建を図ることになる[17][13]。 まず、ハル研究所からパソコン関連製品事業を行う株式会社ハル・コーポレーション[注釈 3]が分社化されて、ハル研究所の本体の事業はゲームソフト開発に一本化された。 「じっくり練ってモノを出そう、ミリオンセラーにならないモノは作らないぞ!」との決意[9]の元で製作されたファミコン用ソフト『星のカービィ 夢の泉の物語』(1993年)は、全世界500万本を超える売上を達成。『星のカービィシリーズ』や『MOTHER2 ギーグの逆襲』などのヒットもあって、1999年に和議申請から予定通り6年で15億円の負債を完済し、ハル研究所は再建を果たす[17][20]。 再建以後以降は星のカービィシリーズを中心に、任天堂のゲームソフト開発に注力している。 2017年8月22日、スマートフォン事業向けの新ブランド「HAL Egg」の立ち上げを表明[21]。11月14日、第1弾タイトルとしてAndroid/iOS用ゲームアプリ『はたらくUFO』の配信を開始した[22]。10月には、ハードウェア事業をハル・コーポレーション社へ切り離して以来、25年ぶりのハードウェアの商品となるPasocomMiniの発売を開始した[23]。 企業理念企業理念は「モノづくりを通じて お客さんと社員が共にHappyになる」である[24][25]。顧客の幸せが企業の幸せであり、顧客にとって心に残る製品を継続的に生み出すことで双方の幸せな関係を維持することを目指している[24]。 企業ロゴは、イヌが卵を暖めている様子が描かれており「犬たまご」と呼ばれている。1999年に考案され、考案者はコピーライターの糸井重里と当時ハル研究所社長の谷村正仁[26]。このロゴには「思いがけない組み合わせから新しいモノを生み出す」「新しいアイデアや楽しいことを大切に暖める」という気持ちが込められている[27]。 不祥事2021年に新型コロナウイルスによる影響により、在宅にてテレワークをしていた従業員に対して、定時外での勤務があったにもかかわらず、時間外手当と深夜手当の支払いを行っていなかったとして、2022年に労働基準監督署から臨検(立ち入り検査)並びに是正勧告を受けていたことが2023年1月にフライデー(講談社)から報じられた。ハル研究所はフライデーの取材に対し、それらの事実を認め、2021年当時はシステム対応が不十分で正確な就業時間の把握が難しかったことから、在宅勤務者に対してサービス残業などを行わないように残業禁止のルールを設定していたが、ルール導入後に中途入社した当該社員には明確な説明がなされていなかったことを明らかにしている[28]。 事業所
出身者開発作品パーソナルコンピュータ
コンソールゲーム
スマートデバイス
周辺機器
その他の製品
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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