反町康治
反町 康治(そりまち やすはる、1964年3月8日 - )は、埼玉県浦和市 (現:さいたま市) 出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。2008年北京オリンピック時のU-23サッカー日本代表監督。 来歴選手時代静岡県立清水東高校で沢入重雄、望月達也らとともに全国大会優勝を経験。その後一浪し、一般入試で慶應義塾大学法学部政治学科に入学。ソッカー部へ入部する。 大学卒業後の1987年に全日本空輸(全日空)に総合職にて入社(同期に石末龍治、堀直人)。全日空では午前中は羽田空港でパイロットのスケジュール作成を担当し、午後にサッカー部で練習を行うという生活を送っており、サッカー部がJリーグ発足時にプロサッカークラブ・横浜フリューゲルスに衣替えしてもプロ契約には移行せず、フリューゲルスの運営会社である全日空スポーツへの出向扱いとなって社員選手としてサッカーに専念、引退後に社業に戻れる道を選んだことで各方面から注目された[3]。 1994年、同年からJリーグに参入するベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)の発足に携わった重松良典から強く誘われ、全日空を退社して平塚に移籍してプロ契約を結ぶ[3]。チーム躍進の原動力として活躍した後、1997年で現役引退。 指導者時代引退後、サッカー解説者として1998 FIFAワールドカップ等の解説を担当した。その後スペインに渡り、FCバルセロナでサッカーのコーチング留学を行った[4]。 2001年、J2のアルビレックス新潟監督に就任し、2003年にチームをJ1昇格に導いた。その後2004年、2005年の2シーズンに渡りJ1残留を果たし、2005年11月に新潟監督を退任した。 この間、サポーターにスタジアムに足を運んでもらうように積極的に奔走。新潟で1試合の平均入場者数を3万8千人以上の人気クラブまで成長させた。なお、この数字は当時最多動員を誇った浦和レッドダイヤモンズを抜き、2003年から3年連続で入場者数リーグ1位を記録した(2006年シーズンは浦和に抜かれ、記録は途切れた)。 2006年5月29日、北京オリンピック日本代表監督に決まり、ドイツW杯終了後に正式契約することが発表された。A代表のコーチも兼務した。五輪代表監督就任時には「情熱と誇り」のスローガンを掲げている[5]。 2007年8月、五輪アジア予選の成績不振のため、A代表コーチを解任[6]。その後の北京五輪出場権をかけて争った最終予選の最終戦・サウジアラビア戦に引き分けて五輪出場が決まった際は、「予選は苦しい戦いが続きましたが、北京にいけます!!」とコメントした[4]。 五輪本大会はアメリカ、ナイジェリア、オランダ相手に3戦全敗。1996年のアトランタ大会以降、初となる白星なしでのグループリーグ敗退に終った。 その後は解説者として活動していたが、2009年より現役時代後半に所属した湘南ベルマーレの監督に就任し、就任1年でJ1昇格へ導いた。 2010年の湘南は怪我人が続出し、結局最終節まで21試合連続未勝利のJ1ワースト記録を更新、最下位でJ2降格した。2011年も引き続き指揮を執ったが14位に終わり、同年限りで退任した。 2012年、松本山雅FCの監督に就任。指揮3年目の2014年に松本をJ1へと導いた。2016年からは再びJ2所属となるが、2018年にチームをJ2優勝に導き[7]自身4度目のJ1昇格を果たした。2019年を以て松本の監督を退任した[8]。 2020年3月12日、Jリーグ特任理事(非常勤)に選任されたことが発表された[9]。3月29日に日本サッカー協会理事会にて技術委員長の就任が決定した[10]。4月14日、Jリーグ理事(非常勤)に選任されたことが発表された[11]。 2024年4月29日、清水エスパルスのゼネラルマネージャー サッカー事業本部長に就任[12]。 人物
評価所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
代表歴
試合数
出場
指導歴
監督成績
タイトル選手時代クラブ
監督時代クラブ
個人別
著書
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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