千歳(ちとせ)は、日本海軍の防護巡洋艦(日本海軍の類別は二等巡洋艦)[3][4]。
笠置型の2番艦である。
艦名は「永遠・永久」の意味[5]。
外交上の問題からアメリカのユニオン鉄工所に発注された。
艦名は千歳型水上機母艦(空母)「千歳」に引き継がれた[6]。
艦歴
1897年(明治30年)、日本海軍はイギリスとアメリカで建造される軍艦4隻の艦名を検討、第二号二等巡洋艦は笠置または矢作を予定していた[7]。
3月26日、4隻は正式に命名[3]。第二号二等巡洋艦は千歳と命名された[3][8]。同年5月1日、「千歳」はサンフランシスコで起工[5]。
1898年(明治31年)1月22日、進水[9][5]。同年3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[10]。該当する9隻(浪速、高千穂、厳島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳)が二等巡洋艦に類別された[11][4]。
1899年(明治32年)3月1日、「千歳」は竣工[5]。3月21日、日本に向けアメリカを出発[12]、4月20日に横須賀港へ到着した[5][13]。
12月25日、沼津御用邸滞在中の東宮(嘉仁親王、のち大正天皇)は、戦艦「八島」に乗艦(千歳は供奉艦)[14][15]。12月26日、2隻(八島《御召艦》、千歳《供奉艦》)は横須賀に到着した[16]。
北清事変では1900年(明治33年)7月から翌年9月にかけて大沽、芝罘方面に出動した。
帰国後の10月、明治天皇皇太子(のちの大正天皇)が北九州地方を巡啓することになり、「千歳」は御召艦に指定される[17][18]。10月18日、皇太子は舞子(兵庫県)で「千歳」に乗艦[19][20]。
瀬戸内海を航行して10月19日に門司港で「千歳」を降りた[19][20]。
皇太子は北九州(福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県)各地の神社・造船所・鎮守府等を巡啓後、10月30日に門司で「千歳」に乗艦[19][21]。10月31日、舞子で下艦して有栖川宮威仁親王邸宅に入り、「千歳」は御召艦任務を終えた[19][21]。
1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[22]。12月28日、常備艦隊が解隊され、笠置は第一艦隊隷下の第三戦隊(司令官:出羽重遠海軍少将、防護巡洋艦《千歳・笠置・吉野・高砂》)に配属される[23]。当初は戦隊旗艦とされたが、八雲が戦隊に臨時編入されるとこれを譲り、八雲転出後も笠置に譲った。
日露戦争に際しては、黄海海戦、宗谷沖海戦、日本海海戦等に参加[5]。戦勝後の1905年(明治38年)10月23日、横浜沖で挙行された凱旋観艦式に参列、第二列に配置された[24]。12月20日、中国大陸在住の邦人保護のために新設された南清艦隊(司令官:武富邦鼎海軍少将、防護巡洋艦《高千穂・千歳》、砲艦《宇治、隅田》)所属となる[25]。1906年(明治39年)6月1日、同艦隊を離れる[26]。12月9日、通船の事故により、兵員65名、見送人15名、計83名が死亡。[27]
1907年(明治40年)2月28日、第二艦隊司令長官伊集院五郎中将指揮下の2隻(巡洋戦艦筑波、千歳)は横浜を出発[28]。アメリカ殖民300年祭記念観艦式(ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪した。12月27日、明治天皇は「筑波」に乗艦、同時に「千歳」を親閲した[29][30]。
1908年(明治41年)6月、伏見宮貞愛親王は舞鶴において本艦に乗艦する[31]。
1914年(大正3年)8月28日、第二艦隊隷下に第六戦隊(防護巡洋艦《千歳、秋津洲、千代田》)を編成[32]。第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加[5]。さらにメキシコ湾岸、南中国での作戦に従事した。
1915年(大正4年)12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列[33]。
1920年(大正9年)12月1日、砲艦宇治・嵯峨・鳥羽・伏見・隅田と共に第一遣外艦隊(司令官:吉田増次郎海軍少将)を編成[34]。
1921年(大正10年)9月1日、日露戦争で活躍した各艦は海防艦に種別変更される[35]。「千歳」は二等海防艦に類別された[36]。
1928年(昭和3年)4月1日、除籍[5]。2隻(千歳、明石)は海防艦より削除[37]。本艦は廃艦第1号と仮称[38]。
1931年(昭和6年)7月19日、第一航空戦隊(赤城、鳳翔)航空隊が演習に参加[39]。廃艦1号(千歳)は土佐沖で撃沈処分された。昭和天皇弟宮高松宮宣仁親王は戦艦霧島乗艦、陸軍大学校教官朝香宮鳩彦王少将は戦艦日向乗艦、他多数高官や議員が各艦に便乗し、戦技を見学した[40][41][42]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 回航委員長
- 艦長
- 桜井規矩之左右 大佐:1898年10月27日 - 1899年5月1日
- 細谷資氏 大佐:1899年10月13日 - 1900年5月20日
- 中尾雄 大佐:1900年5月20日 - 1901年3月13日
- 寺垣猪三 大佐:1901年3月13日 - 1903年1月12日
- 佐々木広勝 大佐:1903年1月12日 - 7月7日
- 高木助一 大佐:1903年7月7日 - 1905年12月12日
- 小花三吾 大佐:1905年12月12日 - 1906年5月10日
- 山屋他人 大佐:1907年1月14日 - 12月27日
- 茶山豊也 大佐:1907年12月27日 - 1908年9月15日
- 山田猶之助 大佐:1908年9月15日 - 12月10日
- 高島万太郎 大佐:1908年12月10日 - 1909年12月1日
- 釜屋六郎 大佐:1909年12月1日 - 1910年10月26日
- 榊原忠三郎 大佐:1910年10月26日 - 1911年1月16日
- 水町元 大佐:1911年1月16日 - 6月12日
- (兼)岩村団次郎 大佐:1911年6月12日 - 8月1日
- 川浪安勝 大佐:1911年8月16日 - 1911年12月1日
- 山崎米三郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年4月20日
- (兼)山口鋭 大佐:1912年4月20日 - 5月22日
- 荒西鏡次郎 大佐:1912年5月22日 - 1913年12月1日
- 中川繁丑 大佐:1913年12月1日 - 1914年1月24日
- 三輪修三 大佐:1914年1月24日 - 5月27日
- 本田親民 大佐:1914年5月27日 - 11月16日
- (心得)土師勘四郎 中佐:1914年11月16日 - 12月1日
- 土師勘四郎 大佐:1914年12月1日 - 1916年5月11日
- 中村正奇 大佐:1916年5月11日 - 1917年7月16日
- 白根熊三 大佐:1917年11月9日 - 1918年7月11日
- 橋本虎六 大佐:1918年7月23日[43] - 1919年11月20日[44]
- 福村篤男 大佐:1919年11月20日[44] - 1920年2月13日[45]
- 平岡善之丞 大佐:1920年2月13日[45] - 11月20日
- 遠藤格 大佐:1920年11月20日 - 1921年12月1日
- 原道太 大佐:1921年12月1日[46] - 1922年11月10日[47]
- (心得)木岡英男 中佐:1922年11月10日[47] - 12月1日
- 木岡英男 大佐:1922年12月1日[48] - 1923年2月15日[49]
- 岩崎猛 大佐:1923年2月15日[49] - 1923年11月10日[50]
- (兼)益子六弥 大佐:1923年11月10日- 1924年3月25日
- (兼・心得)三矢四郎 中佐:1924年3月25日[51] - 5月10日[52]
- (心得)今川真金 中佐:1924年5月10日[52] - 不詳
- 今川真金 大佐:不詳 - 1924年12月1日[53]
- (兼)今川真金 大佐:1924年12月1日[53] - 1925年1月15日[54]
同型艦
脚注
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 伊藤痴遊『元帥東郷平八郎 info:ndljp/pid/1232938』郁文舎出版部、1934年9月。
- 海軍文庫『大日本帝国軍艦帖 info:ndljp/pid/845238』共益商社書店、1894年10月。
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』海軍大臣官房、1939年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』海軍大臣官房、1940年。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯 info:ndljp/pid/1447099』財団有終會、1926年12月。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第3輯 info:ndljp/pid/1447108』財団有終會、1928年1月。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治30年 達 完/3月(4)』。Ref.C12070038100。
- 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。
- 『戦時日誌 明治36.12.28~38.10.14/戦時日誌(1)』。Ref.C09050281400。
- 『「極秘 明治37.8年海戦史 第11部 戦局日誌 巻1」/第1編 開戦前誌(明治36年4月8日より37年2月5日に至る)』。Ref.C05110200200。
- 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。
- 『大正元年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。
- 『大正3年 達 完/10月』。Ref.C12070068000。
- 『大正10年達完/9月』。Ref.C12070079200。
- 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。
- 『明治32年12月25日 八島を御召艦に千歳を供奉艦に定め本日午後2時沼津着の見込沼津御発艦は同地着の上定』。Ref.C10126674800。
- 『明治32年4月11日 皇太子殿下沼津より横須賀まて御乗艦の為め東宮大夫より』。Ref.C10126674900。
- 『艦船行動電報明治32年12月分』。Ref.C10100037200。
- 『記念品の件』。Ref.C04015870600。
- 『呉鎮機密第788号 廃艦第1号(旧軍艦千歳)船材一部取外使用の件認許す』。Ref.C04021868100。
- 『官房第573号 5.1.15除籍艦の処分に関する件記念品の件』。Ref.C05021234000。
- 『第1348号6.4.25訓練用標的に関する件』。Ref.C05021647500。
- 『第1380号6.4.28廃艦第1号曳航準備工事の件』。Ref.C05021613400。
- 『航空母艦鳳翔 昭和6年6月1日~8月31日(1)』。Ref.C11083969900。
- 『第2286号6.7.9鳩彦王殿下戦技御視察の件』。Ref.C05021560100。
- 『第3240号6.7.13朝香宮殿下戦技御台覧の件(1)』。Ref.C05021560200。
- 『第3240号6.7.13朝香宮殿下戦技御台覧の件(2)』。Ref.C05021560300。
- 『第3240号6.7.13朝香宮殿下戦技御台覧の件(3)』。Ref.C05021560400。
- 『第3240号6.7.13朝香宮殿下戦技御台覧の件(4)』。Ref.C05021560500。
- 『第3240号6.7.13朝香宮殿下戦技御台覧の件(5)』。Ref.C05021560600。
関連項目
外部リンク
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国旗は建造国 |
転用艦a |
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新造艦 |
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戦利艦 | |
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- a. 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更
- b. 1931年5月30日等級廃止
- c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え
- d. 就役後他艦種に類別変更
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