笠置 (防護巡洋艦)
笠置(かさぎ/かさき)[6] は、大日本帝国海軍の防護巡洋艦。笠置型の1番艦である。艦名は京都府の笠置山による[7]。兵装は同時期にイギリスへ発注された「高砂」とほぼ同じである。 艦歴日清戦争後の1896年(明治29年)、六六艦隊計画の第一期拡張計画では3隻の防護巡洋艦が計画され、1隻がイギリス、2隻がアメリカに発注された。アメリカへの発注は外交上の配慮からと言われ、同国の東西にある造船所に1隻ずつ発注されている[2]。アメリカに発注された2隻は笠置型と呼ばれ、1番艦の本艦はクランプ社に発注され「第一号二等巡洋艦」として建造が開始された。日本海軍はイギリスとアメリカで建造される軍艦4隻の艦名を検討、第一号二等巡洋艦は「千早」または「白根」を予定していた[8]。1897年(明治30年)3月26日、第一号二等巡洋艦は「笠置」と命名される[6]。「笠置」は第二号二等巡洋艦に予定されていた名称であった[8] が、同艦は「千歳」と命名された[6]。 1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[9]。4,862トンの笠置は二等巡洋艦に類別された[10][11]。 同年10月24日、フィラデルフィア造船所にて竣工[7]、翌日デラウェアで挙行された米西戦争凱旋記念観艦式に参列した[2]。同年11月2日にアメリカを出発[2]、イギリス・アームストロング社にて兵装を搭載した。1899年(明治32年)3月16日、ポーツマスを出港[12]。5月16日、横須賀に到着した[13]。 1900年(明治33年)の義和団の乱により5月30日に横須賀を出港[14]、6月4日に大沽に進出した[15]。同日士官5名と水兵69名を陸戦隊として天津に派遣した[15]。9月に帰国。 1902年7月、アメリカ政府からマーカス島(南鳥島)占領許可を得たアンドリュー・A・ローズヒルという者が島へと向かった[16]。これを受けて日本政府は「笠置」を派遣[17]。「笠置」はローズヒル一行が着く前の7月27日に南鳥島に着き、陸戦隊を上陸させて横須賀に戻った[18]。島に着いたローズヒル一行は、結局引き返すこととなった[19]。 1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[20]。12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将、旗艦:戦艦三笠)と巡洋艦が主体の第二艦隊(司令長官:上村彦之丞海軍中将、旗艦:装甲巡洋艦出雲)が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷中将)を構成した。笠置は第一艦隊隷下の第三戦隊(防護巡洋艦《千歳・笠置・吉野・高砂》)に配属される[21]。 1904年(明治37年)からの日露戦争では旅順攻略作戦、黄海海戦等に参加、翌年5月27日の日本海海戦にも参加した。戦勝後の10月23日、横浜沖で挙行された凱旋観艦式に参列、第二列に配置された[22]。 1910年(明治43年)に海軍兵学校38期(栗田健男・五藤存知・三川軍一ら)の少尉候補生を載せハワイ方面に航海。 辛亥革命中の1911年11月25日から12月3日にかけて砲艦「鳥羽」を入れた浮きドックを佐世保から上海まで曳航した[23]。 第一次世界大戦では青島攻略作戦に参加、その後は南支方面の警備に従事した。1915年(大正4年)12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列[24]。 大戦中の1916年(大正5年)、日露戦争の戦利艦である戦艦「相模」は「ペレスヴェート」(ロシア語: Пересвет)に艦名を戻し、ウラジオストクで引き渡された。ペレスヴェートは5月23日、同港外で座礁[25]。笠置が横須賀海軍工廠と舞鶴海軍工廠の職工を遭難現場まで移送した[26][27][28]。同年7月2日、給油船志自岐丸が秋田県土崎港に入港の際、風や波に流され坐洲[29]。同船を曳航するため、18日に横須賀を出港して秋田に向かうが20日に函館市女那川町尻岸内川沖にて座礁、8月10日に船体が破壊された。同年11月5日除籍[30][31]、12月12日に売却された。 艦長※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
同型艦
脚注
参考文献
関連項目
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