古川鈊三郎
古川 鈊三郎(ふるかわ しんざぶろう、1872年11月24日〈明治5年10月24日〉 - 1959年〈昭和34年〉1月1日)は、日本の海軍軍人。海兵21期首席。最終階級は海軍中将。 経歴福井県出身。1894年(明治27年)11月、海軍兵学校21期を首席で卒業。少尉候補生として「橋立」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年(明治28年)12月に海軍少尉任官。砲術練習所で学んだ。 1899年(明治32年)9月、「摩耶」分隊長となり、「千歳」分隊長、「大和」航海長、海兵幹事、海兵砲術教官、イギリス駐在などを歴任。1904年(明治37年)4月、佐世保鎮守府参謀兼副官として日露戦争を迎えた。1905年(明治38年)1月、海軍少佐に昇進。同年2月、元山防備隊参謀に就任し、第1艦隊参謀、第2艦隊参謀、軍務局員を経て、1907年(明治40年)1月、海軍省副官兼海相秘書官に就任し斎藤実大臣に仕えた。同年9月、軍事参議官副官を兼務し山本権兵衛大将に仕えた。 1908年(明治41年)7月、「壱岐」砲術長兼海軍砲術学校教官となり、横須賀鎮守府付、「朝日」砲術長などを経て、1909年(明治42年)10月、海軍中佐に進級し「壱岐」副長兼砲術学校教官に就任。同年12月、海軍教育本部員に着任し、「宗谷」「河内」の各副長、第1艦隊参謀、「笠置」艦長心得などを経て、1914年(大正3年)12月、海軍大佐に昇進し「笠置」艦長に着任。 1915年(大正4年)7月、軍務局員となり、軍務局第1課長兼第2課長、第3艦隊参謀長などを歴任し、1919年(大正8年)6月、海軍少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任。1920年(大正9年)12月、人事局長に発令され、軍令部出仕兼海軍省出仕を経て、教育局長に就任し、1923年(大正12年)12月、海軍中将に進んだ。1924年(大正13年)4月、練習艦隊司令官となり、軍令部出仕、舞鶴要港部司令官、佐世保鎮守府司令長官、軍令部出仕を経て、1929年(昭和4年)3月、待命そして予備役に編入された。 1929年7月から1931年(昭和6年)12月まで海軍省事務嘱託を務め、1939年(昭和14年)10月に退役。1941年(昭和16年)10月から翌月まで再度、海軍省事務嘱託となった。 戦後は1947年(昭和22年)11月に公職追放仮指定を受ける[1]。 栄典
脚注参考文献
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