摩耶 (砲艦)
摩耶(まや)は、日本海軍の砲艦[2]。 艦名は兵庫県神戸市の摩耶山にちなむ[2]。 建造場所の神戸にちなんだ命名であろう、と片桐大自は考察している[13]。 艦名候補に「吉野」「飛鳥」の2つがあった[14]。 概要小野浜造船所で製造された「愛宕」と同型の砲艦[15] (摩耶型砲艦[3])。 1886年(明治19年)進水[7]、 1888年(明治21年)竣工した[2]。 竣工後は清国や朝鮮半島の警備任務を多く行い、日清戦争、北清事変、日露戦争に従軍[16]、 1908年(明治41年)に除籍された[6]。 艦型→詳細は「摩耶型砲艦 § 艦型」を参照
他艦との相違点
要目船体重要寸法や排水量などは文献によって色々な値がある。
公試成績
艦歴建造1884年(明治17年)
12月20日に小野浜造船所で製造する砲艦が
次いで(造船所)所長が留綱を切断し船体は滑り始めたが、推進器中心が水面に到達した付近で停止、艦尾は進水台から離れて浮いている状態になってしまった[25]。 直ちに水圧機や滑車を使い海面に引き下ろそうとしたが、木材や滑車が破損するなどで上手くいかなかった[25]。 潮が引いているために、11時頃に作業を中断、午後2時から再開し4時頃に船体を引いて、船体が20フィート程滑り降りた[25]。 もう一度同じ手順で作業を行い更に約15フィート滑り降りた[25]。 まだ艦首部分のキールが進水台上に乗っていたため、最期に100人ほどを甲板の上に載せて艦尾を沈める形にして、午後5時30分にようやく進水が完了した[25]。 1887年(明治20年)10月29日にスクリュー交換後の試運転を行い、速力約10.5ノットを記録した[27]。 1888年(明治21年)1月20日に「摩耶」は竣工した[2]。 同日横須賀鎮守府所管と定められた[4]。 1888年2月8日小野浜を出港したが、左舷機械エアポンプが故障、兵庫港に停泊し修理を行った[28]。 2月20日兵庫を出港して試運転を行ったが、修理が不充分で当日は小豆島に仮泊、翌21日兵庫港に戻った[29]。 兵学校の学習船を曳航して江田島に回航するために、3月21日小野浜を出港した[30]、 翌22日エアポンプのテールカバーが破損、多度津に停泊し修理を行い[31]、 27日江田島に到着した[32]。 「摩耶」は4月7日に江田島から呉に回航[33]、 4月10日に神戸ヘ向け呉を出港し[34]、 13日兵庫港に到着した[35]。 残工事運搬の問題などが有って竣工時の「摩耶」に兵器はまだ装備されておらず、横須賀に回航し横須賀造船所での装備が計画されており[36]、 4月6日付けで横須賀への回航が命令された[37]。 5月23日兵庫発[38]、 翌日から27日までは天候不良のために鳥羽港に待避し[39]、 5月30日横須賀に到着した[40]。 横須賀造船所では艤装の新設・改造・修理工事や[41]、 機関部の改造工事[42]などを行った。 12月8日に公試運転を施行[43]、 12月26日に城ヶ島沖で艦砲の発射試験が行われた[19][44]。 翌1889年(明治22年)に速射砲の台座工事が行われた[20]。 1889年1889年(明治22年)3月19日横須賀鎮守府常備艦と定められた[45]。 5月10日に横須賀鎮守府常備艦の役務を解かれた[46]。 1890年1890年(明治23年)8月23日に種別を第一種と定められた[47]。 1891年-1892年1891年(明治24年) 10月6日朝鮮国警備のために呉を出港[16]、 1892年(明治25年)9月26日竹敷に帰国した[16]。 1893年1893年(明治26年) 4月20日警備艦の役務を解かれ、第1予備艦に指定された[5]。 1894年1894年(明治27年) 4月4日警備艦に指定[48]、 6月18日常備艦隊へ編入された[49]。 7月13日常備艦隊から除かれ、再び警備艦に指定[50]、 7月19日再度常備艦隊へ編入された[51]。 日清戦争同1894年7月23日佐世保を出港、7月25日日清戦争開戦[16]。 10月5日佐世保軍港に一時帰国[16]、 10月15日佐世保を再度出港した[16]。 「摩耶」は旅順・大連・威海衛攻略作戦等に参加した。 1895年(明治28年)6月2日佐世保軍港に帰国した[16]。 1895年-1897年同1895年 11月6日清国警備のために佐世保を出港した[16]。 11月15日「摩耶」は西海艦隊から除かれ、常備艦隊に編入された[52]。 1897年(明治30年) 4月12日佐世保に帰国した[16]。 12月26日韓国警備のために神戸を出港した[16]。 1898年-1900年1898年(明治31年)3月21日、類別等級が初めて制定され[53]、 「摩耶」は二等砲艦に類別された[13][54]。 9月19日薄香(平戸島薄香湾)に帰国した[16]。 1899年(明治32年) 3月1日韓国警備のために呉を出港[16]、 10月4日竹敷に帰国した[16]。 北清事変北清事変が発生したため、1900年(明治33年)7月26日「摩耶」は呉を出港した[16]。 日露戦争日露戦争では 1904年(明治37年)2月6日尾崎を出港[16]、 旅順攻略作戦に参加した。 1905年(明治38年)2月6日竹敷に一時帰国[16]、 5月4日竹敷を出港[16]、 5月28日尾崎に一時帰国し同日同地を出港[16]、 6月24日舞鶴に一時帰国した[16]。 7月6日鷲泊港(礼文島)を出港[16]、 樺太作戦に参加した。 8月1日小樽港に帰国[16]、 以降は国内にあった[16]。 1907年-1908年1907年(明治40年) 5月2日旅順警備のために田助(現平戸市田助町)を出港[16]、 1908年(明治41年) 5月5日部崎(現北九州市門司区)に帰国した[16]。 除籍後1908年(明治41年)5月16日除籍[6]、 艦艇類別等級別表から削除された[55]。 同日付けで雑役船舟になり[56]、 横須賀海兵団練習船として使用された[13]。 1911年(明治44年)4月1日付けで横須賀海兵団から「摩耶」を還納し廃船とするよう訓令が出され[57]、 廃船とされた[13]。 同年11月24日付けで内務省に移管[58]、 12月11日内務省へ引き渡され[59]、 兵庫県港務部検疫番船「摩耶号」となった[13]。 1918年(大正7年)池田商事に売却され「摩耶丸」と改名、1935年頃に解体された[3]。 艦長※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
脚注注釈
出典
参考資料
関連項目 |