壱岐 (戦艦)

1906年2月12日、横須賀港にて撮影された壱岐
艦歴
発注
起工 1886年3月8日ロシア帝国海軍インペラートル・ニコライ1世として)
進水 1889年5月20日(インペラートル・ニコライ1世として)
就役 1905年6月6日日本海海戦にて捕獲され大日本帝国海軍へ編入)[1]
除籍 1915年5月1日
沈没 1915年10月4日[2]
性能諸元
排水量 常備:8,440t[注釈 1]
満載:9,960t
全長 垂線間長:99.9m
水線長:101.0m
全幅 20.4m
吃水 7.6m
機関 ベルヴィール式石炭専焼缶16基
+直立型三段膨張式三気筒レシプロ機関2基2軸推進
8,000ihp
燃料 石炭 1,000t
最大速 16ノット[注釈 2]
航続距離 4,900海里(10ノット時)
兵員 611名
装甲 水線帯:360mm
砲塔:230-250mm
ケースメイト:150mm
甲板:60mm
兵装 30.5cm(30口径)連装砲1基2門
15.2cm(40口径)単装砲6基6門
12cm(40口径)単装砲6基6門
8cm(40口径)速射砲6基6門

壱岐(いき、旧字体壹岐)は、日本海軍戦艦(のち海防艦[3][4]。 艦名は、旧国名壱岐国」に因む[5]。 日本海軍の法令上は旧字体壹岐だが[6]、本項目では壱岐と表記する。 1915年(大正4年)10月4日、裕仁親王(のち昭和天皇)および東郷平八郎元帥が観戦する中(御召艦榛名)、標的艦として撃沈処分された[7][8]

艦歴

「壱岐」は、元はロシア帝国艦隊装甲艦インペラートル・ニコライ1世ロシア語: Император Николай I)であった[5][9]ロシア帝国海軍時代には、一時はバルチック艦隊の最有力艦艇であり、旗艦を務めたこともあった。

「インペラートル・ニコライ1世」はバルチック艦隊に所属して日露戦争に参加、ニコライ・ネボガトフ少将指揮下の第3艦隊(第3太平洋艦隊)に所属し、ネボガトフ少将の旗艦としてウラジオストクに向かう[10]。航海中の1905年(明治38年)5月27日、バルチック艦隊は日本海軍(連合艦隊、司令長官東郷平八郎大将、旗艦三笠)と交戦する。 戦闘で負傷したジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は大破した旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」から駆逐艦ブイヌイ」に脱出、艦隊の指揮権はネボガトフ提督(旗艦ニコライ1世)に委ねられた[11][12]。 翌5月28日、ネボガドフ提督指揮下のロシア側5隻は連合艦隊に包囲され、降伏する[13]日本海海戦[14][15]。 本艦と同時にオリョールアプラクシンセニャーヴィンも降伏した[16][17]。「イズルムード」のみ逃走に成功した[16][18][19]

6月6日、日本海軍は捕獲したロシア軍艦5隻を改名する[6][20]。 「オリョール」は戦艦「石見」、「アドミラル・セニャーヴィン」は海防艦「見島」、駆逐艦「ベドーヴイ」は「皐月[20]、「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」、そして「インペラートル・ニコライ1世」は戦艦「壱岐《壹岐》」と命名された[3][5]。 同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)はそれぞれ軍艦籍に編入される(壱岐は二等戦艦籍)[21][22]。 本艦は、横須賀鎮守府籍と定められた。

同年10月23日、東京湾で凱旋観艦式(明治天皇御召艦浅間、先導艦八重山)が行われる[23][24]。元ロシア海軍艦艇(相模《ペレスウェート》丹後《ポルタワ》、壱岐、沖島見島)等も凱旋観艦式に参列した[25][24]12月12日、壱岐は一等海防艦に類別される[4][26][27]。翌年、佐世保工廠での修理が終わる[10]

1915年(大正4年)5月1日、「壱岐」は帝国軍艦籍[28]および艦艇類別等級表から除籍される[29]。本艦は標的艦として処分されることになった。 同年10月1日熱田神宮参拝を終えた大正天皇皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)は[30]、東宮御学問所総裁東郷平八郎・同幹事小笠原長生・東宮侍従長入江為守・海軍元帥井上良馨等と名古屋港より駆逐艦「樺」を経由して巡洋戦艦「榛名」(第一艦隊司令長官吉松茂太郎)に乗艦する[31][7]。 10月2日の射撃予定は、悪天候により延期された[32]。 10月3日の射撃予定も、「壱岐」の曳索切断のため中止となる(皇太子は上陸して二見興玉神社の夫婦岩を見学)[33][34]10月4日午前10時15分以降、皇太子(榛名座乗)や東郷元帥が見学する中、三重県鳥羽沖(伊勢湾沖合)で金剛型巡洋戦艦2隻(金剛比叡)は「壱岐」に対する実弾射撃を開始した[2]。射撃前、東郷元帥は皇太子に「壱岐」の艦歴や日本海海戦当時の状況を説明している[8]。 射撃されて十数分後、「壱岐」は右舷に傾斜して転覆し、沈没した[2]。 10月26日、横須賀海軍工廠長は「壱岐」の模型を裕仁親王に献上した[35][36]

年表

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 梶川良吉 大佐:1905年6月14日 - 1905年11月2日
  • 西紳六郎 大佐:1905年12月20日 - 1906年8月30日
  • 森義太郎 大佐:1906年8月30日 - 1907年8月5日
  • 奥宮衛 大佐:1907年8月5日 - 8月10日
  • (兼)奥宮衛 大佐:1907年8月10日 - 1908年2月20日
  • (兼)築山清智 大佐:1908年2月20日 - 1908年4月1日
  • 築山清智 大佐:1908年4月1日 - 12月10日
  • 上村経吉 大佐:1909年5月25日 - 1910年7月16日
  • 吉島重太郎 大佐:1910年7月16日 - 12月1日
  • (兼)東郷静之介 大佐:1910年12月1日 - 1911年4月1日
  • (兼)久保田彦七 大佐:1911年4月1日 - 5月22日
  • (兼)矢島純吉 大佐:1911年5月22日 - 12月1日
  • (兼)東郷静之介 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日
  • (兼)今井兼胤 大佐:1912年12月1日 - 1914年5月29日
  • (兼)岡田三善 大佐:1914年5月29日 - 1915年5月1日

脚注

注釈

  1. ^ 写真太平洋戦争第2巻』245頁の壱岐解説では、常備排水量9,672tとする。
  2. ^ 写真太平洋戦争第2巻』245頁の壱岐解説では、速力15.5ノットとする。

出典

  1. ^ 写真日本の軍艦2巻、245頁(壱岐写真解説)
  2. ^ a b c d 昭和天皇実録二巻、153-154頁「(大正四年十月)四日 月曜日(標的艦壱岐に対する射撃開始)」
  3. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)第199コマ『◎戰利軍艦石見壹岐沖島見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三) 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル|戰艦「アリヨール」 イハ|戰艦「インペラートルニコライ」第一世 |海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 オキノシマ|海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 シマ
  4. ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940)第53コマ『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)艦艇類別等級別表中左ノ通定ム(別報)|軍艦|海防艦|一等|鎮遠、壹岐、|』
  5. ^ a b c d e f #幕末以降帝国軍艦写真と史実第67コマ(原本100頁)『壹岐(いき)
    艦種二等戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考國名なり、壹岐國に採る。
    艦歴舊露國軍艦、艦名「インペラートル・ニコライ」第一世。露國聖夜得堡造船所建造、明治21年進水。日露戰役中「バルチック」艦隊の一艦として、日本海々戰に戦果、明治38年5月28日竹島の南南西約18浬の地點に於て我が艦隊之を捕獲す、露國第三艦隊第三戰隊司令官「ネボガトフ」少将の旗艦たり。同年6月6日帝國海軍艦と定め「壹岐」と命名、同年12月一等海防艦に編入、大正4年5月1日除籍。
    ― 要目 ― 長333.4呎/幅67.0呎/吃水24.0呎/排水量9,672噸/機關 直立三聯成機2基 ベルビル罐/馬力8,000/速力15.5/乗組人員600/船材 鋼(甲帶14吋)/兵装 12吋砲2/6吋砲6/4.7吋砲6/其他輕砲|起工(記載なし)/進水 明治23-10/竣工(記載なし)/建造所 露國セント・ピータースブルグ』
  6. ^ a b #達明治38年6月p.2『達第七十三號 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛|戰艦アリヨール イハ|戰艦インペラートルニコライ第一世 |海防艦ゲネラルアドミラル、アプラキシン オキノシマ|海防艦アドミラル、セニヤーウヰン シマ
  7. ^ a b #東郷全集1巻コマ319-320(原本613-614頁)『此の時第一艦隊は、伊勢灣外に於て廢艦壹岐(元の露艦「ニコライ」一世にして、日本海々戰の際我に降伏したるものなり。其の排水量噸數九六七二。)を標的として戰闘射撃を試みることゝなり東宮殿下には之を臺覽あらせらるゝ爲め、同月一日鶴駕東京を發し、熱田神宮に御参拝の後名古屋沖に碇泊せる第一艦隊の巡洋戰艦榛名はるな(排水量噸數二七五〇〇、速力二七、五)に御乗艦遊ばされ、供奉員の外に東郷元帥も小笠原幹事と共に之に陪乗せり。』
  8. ^ a b #東郷全集1巻コマ319-320(原本613-614頁)『射撃は四日午前に於て遺憾なく施行せられたり。之に先だつて標的艦壹岐は他艦に曳かれつゝ御召艦の近傍を過ぎ行きぬ。時に殿下は武官等を随へ給ひて後甲板にあらせられしが、東郷總裁は恭しく御前に進み、重々しき口を開きて、壹岐の前身たる露艦「ニコライ」一世の日本海に於ける戰況、竝に遂に鬱陵島附近に於て我が艦隊の爲めに包圍せられ、他の三艦と共に降旗を掲げたる其の顛末を御説明申上げ、猶ほ同艦は皇國の艦籍に入りてより盡す所尠からず、今は亦射撃の標的となり、實驗上に貢献する所あらんとする旨を言上せり 此の時元帥は思はず海戰當時を追憶してや、沈箸なる其の面上にも痛烈の氣漂ひ、三笠艦上に立てる面影を髣髴し來れり。(以下略)』
  9. ^ 小野圭司. “明治末期の軍事支出と財政・金融-戦時・戦後財政と転位効果の考察-”. 防衛研究所. 2023年6月11日閲覧。
  10. ^ a b #福井戦艦物語壱112頁『◇壱岐 ― ニコライ一世』
  11. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 259–260
  12. ^ 明治38年6月26日官報第6595号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16-17『○露帝ト提督トノ往復電信 ロゼストウェンスキー提督ハ我軍ニ収容後左ノ電報ヲ露國皇帝陛下ニ電奏方東郷聯合艦隊司令長官ニ依頼シ來リタルヲ以テ許可セラレタリ ツアールスコエ邑ニ於テ
    皇帝陛下 五月十四日(五月二十七日)午後一時三十分對馬南端ト日本トノ間ニ於テ十二隻ヨリ成ル日本艦隊主力及十二隻ヨリ尠カラサル其巡洋艦艦隊ト戰闘ヲ開始セリ|二時三十分「スワロフ」ハ中央位ヲ去ルノ止ムヲ得サルニ至レリ|三時三十分幕僚ノ一部及小臣ハ知覺ヲ失ヒタルマヽ「ブイヌイ」ニ移サレシカ同艦ニハ已ニ沈没セル「オスラビヤ」乗員一部ヲ収容シアリタリ|艦隊ノ指揮権ハネボガトフニ委セリ「ブイヌイ」ハ夜間艦隊ト相失セシカ翌朝二隻ノ驅逐艦ヲ伴ヘル「ドンスコイ」ニ遭遇シテ「オスラビヤ」ノ兵員ヲ同艦ニ移シ又小臣ハ「ベドウイ」ニ移サレ「グロムキー」ト共ニ前進セリ|十五日(二十八日)ノ夕刻「ベドウイ」ハ二隻ノ日本驅逐艦ニ降伏セルヲ知レリ|十七日(三十日)「ベドウイ」ハ佐世保ニ引致セラル|十八日(三十一日)ネボガトフ佐世保ニ在リト聞ク 侍從将官ロゼストウェンスキー(以下略)』
  13. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 262–263(降伏時写真解説)
  14. ^ #日露戦役海軍写真集(3)第44コマ『日本海々戰中敵将子ボカトフの降伏(明治三十八年五月二十八日)日本海々戰中、敵の提督子ボカトフは、力盡きて其の檣頭に降伏の信號を掲げ、我艦隊は直ちに打ち方を止めて降伏を諾す。圖は子ボガトフの乗艦ニコライ一世を去りて我が艦隊に収容せられんとするときの光景なり。)』
  15. ^ #日露戦役海軍写真集(3)第29コマ『日本海の降伏艦隊』
  16. ^ a b c 明治38年6月26日官報第6595号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16-17ネボガトフ少将以下投降士官ノ取扱 ネボガトフ少将ハ我國ニ収容後間モナク左ノ電報ヲ露國皇帝陛下ニ電奏方東郷聯合艦隊司令長官ニ依頼シ來リタルヲ以テ許可セラレタリ|聖彼得堡 皇帝陛下 謹テ奏ス前夜ノ激戰ノ後五月十五日(二十八日)戰艦「ニコライ」一世「セニャーウン」「アブラキシン」「アリヨール」及巡洋艦「イズムルード」ハ浦潮斯徳ニ向ケ進航ノ途次二十七隻ノ日本軍艦(水雷艇ヲ算入セス)ノタメニ方圍セラレタリ彈丸ノ缺乏大砲ノ破損及「アリヨール」ノ戰闘力喪失ノタメ敵艦隊ニ抵抗ヲ試ルハ絶對ニ不可能ナル状態ニ在リ且ツ此上二千四百ノ人名ヲ失フハ無益ナルノミナラス亦避クヘカラサリシヲ以テ高速力ヲ利用シテ逃走シタル「イズムルード」ヲ除ク外他ノ四隻ハ士官以上ノ帶剱ヲ許シ且ツ士官以上ハ宣誓ノ上本國ニ歸還スルヲ得ル様日本政府ニ對シ盡力スヘシトノ條件ヲ以テ降服スルノ已ムヲ得サルニ至レリ右條件ハ日本皇帝陛下ノ寛大ナル聖意ニ依リ御承認ヲ得タリ小臣ハ右ニ付テ陛下ノ御聖鑒ヲ仰ク(戦死者、負傷者略)
    尚ホ六月十二日ニ至リ更ニロゼストウェンスキー提督ヨリモネボガトフ少将以下ノ降服ニ關シテ左ノ電報ヲ露國皇帝陛下ニ電奏方依頼シ來リタルヲ以テ許可セラレタリ|皇帝陛下 陛下ノ御親電ヲ拝受シタル數時間前ニ至リ小臣ハ戰艦「アリヨール」、「ニコライ」、「セニヤーウン」、「アプラキシン」カ五月十五日(二十八日)敵ニ降服シタルノ報道ニ接セリ小臣ハ此災害ヲ聞キ茫然爲ス所ヲ知ラスコレ全ク小臣一人ノ責任ニ對スルモノト思惟ス小臣ハ茲ニ悲惨ノ状況ニ在ル者ニ對シ陛下ノ御聖鑒ヲ切願ス ロゼストウエンスキー(以下略)』
  17. ^ #福井世界戦艦317頁『(8)その他の戦艦』
  18. ^ #東郷全集1巻コマ260-261(原本435-436頁)『二十八日の一般戰況』
  19. ^ 日本海海戦の証言 2018, pp. 260–261「ネボガトフ艦隊の降伏」
  20. ^ a b #達明治38年6月p.2『達第七十四號 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛 戰利驅逐艦「ビヱードウヰー」ヲ皐月サツキト命名ス』
  21. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)第52コマ『明治三十八年六月六日(達七六)軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス』
  22. ^ #達明治38年6月p.3『達第七十六號 軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄「三笠」ノ次ニ「石見」ヲ、「鎮遠」ノ次ニ「壹岐」ヲ、海防艦ノ欄二等ノ部ニ「沖島」「見島」ヲ、驅逐艦ノ欄「霰」ノ次ニ「皐月」ヲ追加ス 明治三十八年六月六日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』
  23. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.240『明治三十八年凱旋観艦式艦艇配置圖』
  24. ^ a b #福井戦艦物語壱100-102頁『日本海軍を襲った"パニック"』
  25. ^ #戦役外患篇コマ259-261(原本484-488ページ)『大觀艦式(明治三十八年十月二十五日報知新聞)』
  26. ^ #達明治38年12月pp.6-8『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵山本権兵衛』
  27. ^ #帝国最新軍艦帖、大正1年コマ71『一等海防艦 壹岐 First Class Coast defence ship "Iki."』
  28. ^ #達大正4年5月p.1『達六十七號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 壹岐 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正四年五月一日 海軍大臣 八代六郎』
  29. ^ #達大正4年5月p.1『達第六十八號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「、壹岐」ヲ削ル 大正四年五月一日 海軍大臣 八代六郎』
  30. ^ 大正4年10月4日官報第952号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3番『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如本月一日午前六時東宮御所御出門同六時三十分東京停車場御發車午後三時三十分熱田停車場御着車熱田神宮御参拝ノ上名古屋築港ヨリ軍艦榛名ニ御乗艦同四時三十五分御發艦アラセラレタリ』
  31. ^ 昭和天皇実録二巻、151-152頁「(大正四年十月)一日 金曜日(第一艦隊特殊射撃に行啓/熱田神宮に参拝/名古屋港/御召艦榛名/鳥羽沖に御仮泊)」
  32. ^ 昭和天皇実録二巻、152頁「(大正四年十月)二日 土曜日(東郷井上両元帥の懐旧談/射撃中止)」
  33. ^ 昭和天皇実録二巻、52頁「(大正四年十月)三日 日曜日 午前八時鳥羽沖を御出航、演習海域へ向かわれるも、標的艦壱岐の曳索切断のため、演習は再び延期される。(以下略)」
  34. ^ 大正4年10月4日官報第953号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ8番『○東宮行啓御發着割中變更 皇太子殿下伊勢灣附近ニ於テ施行ノ特殊射撃御覧ノタメ第一艦隊ヘ行啓御發着割中左ノ通御變更アラセラレタリ(以下略)』
  35. ^ 昭和天皇実録二巻、158頁「(大正四年十月)二十六日火曜日 午後三時四十五分御出門、御参内になり、御車寄において雍仁親王・宣仁親王と共に陸軍特別大演習より還幸の天皇を御奉迎になる。横須賀海軍工廠黒井悌次郎より元軍艦壱岐沈没模型が献上さる」
  36. ^ 昭和天皇実録二巻、159頁「(大正四年十月)三十日土曜日 午前、関東都督中村覚参殿につき、謁を賜う。昌子内親王参殿につき、御対顔になる。今月上旬の第一艦隊行啓のことなど、種々お話しになり、元軍艦壱岐沈没模型をお見せになる。」
  37. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)第57コマ『大正四年五月一日(達六八)艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「壹岐」ヲ削ル』

参考文献

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2 
  • 新人物往来社編『軍談 秋山真之の日露戦争回顧録 黄海海戦と日本海海戦勝利の要因』新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年2月。ISBN 978-4-404-03809-8 
  • 戸高一成 編『日本海海戦の証言 聯合艦隊将兵が見た日露艦隊決戦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年3月。ISBN 978-4-7698-3058-0 
  • 豊田穣『旗艦「三笠」の生涯 日本海海戦の花形 数奇な運命』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年2月。ISBN 978-4-7698-2931-7 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、1993年8月。ISBN 4-7698-0654-X 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
  • 真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • 雑誌『丸』編集部 編「多賀一史「日本海海戦と日本戦艦への影響/拿捕艦」」『写真 日本の軍艦 戦艦 II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』 第2巻、光人社、1989年8月。ISBN 4-7698-0452-0 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。 
    • 『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。 
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。 
    • 『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。 
    • 『大正4年 達 完/5月』。Ref.C12070069200。 

関連項目

外部リンク