佃 (東京都中央区)
概要江戸時代初期、摂津国佃村の漁師が拝領して造成した島が佃島と呼ばれるようになり、明治になってその北側の石川島を合併して現在の町名「佃」となった[4]。 寛永年間(1624年-1644年)に摂津国西成郡佃村(現大阪市西淀川区)の漁師数十名が江戸幕府より鉄砲洲沖、大川(隅田川)河口部の干潟を拝領し、周囲を石垣で固めて100間(180m)四方の島を築造し1644年(正保元年)に完成し佃島と命名したと伝わっている。[5][6] 現在は埋立地の拡大により川の河口は3kmほど南西に移動している[7]。 1990年代には超高層住宅街の先駆けともなった。 だが、佃には今も風情溢れる狭い路地が残っており、これは人の温かさを感じられるコミュニティ空間として機能している[8]。 歴史東京の佃は、大阪の佃と深い縁がある。 大阪の佃と東京の佃の縁に関する説明は、1766年に江戸で書かれた佃島由緒書に書かれるなどして東京で伝わっている話と、大阪の神社などで伝えられている話で食い違いがある。どれが真実か分からないので、全て併記する。 大阪の佃の地名については、貞観年間(859年-877年)にすでに佃と呼ばれていたとする伝承と、慶長年間(1596年-1614年)に徳川家康が命名したとする伝承があり[9]、大阪の佃の命名の時期ははっきりしない。 一説によると、そもそも天正10年(1582年)の本能寺の変で家康が急遽帰国する際に、家康を助けるために大阪の佃の漁民が舟を出したことが、そもそもの家康と大阪の佃の漁民の縁だと言われている[10]。家康が摂津国の神崎川を渡ろうとした際、佃の漁師(庄屋)だった森孫右衛門が舟を貸してくれたおかげで三河国の岡崎城に帰還でき、徳川家とこの漁民の間に強い絆が出来たという[11][12][13]。 一方、大阪で伝えられた話では、経緯は天正14年(1586年)に徳川家康が摂津国の多田の廟(現在の兵庫県川西市の多田神社[14])に参詣する際、大阪の田簑嶋(たみののしま)と呼ばれていた地の漁民が神崎川の渡船を務めたことに始まる、という[15]。一説には、家康はほうびとして全国での漁業権と税の免除を認める一方、田も作るよう命じたことから、地名を田簑嶋から佃に改めた、という[15]。(だが、前述のように、大阪の佃は貞観年間(859年-877年)にすでに佃と呼ばれていたとする伝承もある。) 明和3年(1766年)に書き上げられた「佃島由緒書」(つくだじまゆいしょがき)の写しには、上述の縁で天正18年(1590年)の家康関東入国の際に、佃村の名主の森孫右衛門(もり まごえもん)が家康の供を命じられ、二代将軍徳川秀忠の時代に、森孫右衛門と隣村の大和田村(現在の大阪西淀川区)の漁民33人が江戸にやってきた、と書かれている[10]。(「佃島由緒書」の文面は『都市紀要』26に収められている。[10]) 一方、大阪の神社に伝わる話では、天正18年(1590年)8月の家康の関東下向の際、大阪の佃の漁夫33人に加え、田蓑嶋神社宮司の平岡正太夫の弟の権太夫好次は田蓑嶋神社から分霊して江戸へ向かい、安藤対馬守重信、石川大隅守の邸内に一時奉祭した、と伝わっているという[15]。 その後、彼らは鉄砲洲(の沖の干潟、あるいは小島)を拝領し(造成が完了した時に)、大阪と同じ佃と名付けたという[15]。 なお、その干潟あるいは小島がもともと何と呼ばれていたかに関して、江戸後期の「江戸名所図会」には「文亀年間(1501年-1504年)の江戸の旧図には向島とある」と書かれている[16]。 正保3年(1646年)6月29日には住吉四柱大神と徳川家康を祀り住吉神社となった[15]。 江戸の佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし[17]、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村である[18]。佃村漁民の関東での漁労活動は、当時多く見られた近世の畿内漁民の関東進出の一角ともされる[19]。 佃村の漁民たちは自由に漁業を営む権利や[20]、 年貢免除の特権を獲得し、江戸中期においても隔年で本国と江戸を行き来し御用を務めていたとされる[21]。漁民が移り住んだ地で、古くから佃煮でも有名である[22](佃煮の由来については諸説あり佃煮#歴史を参照)。
一方、中世期には隅田中川の河口部に位置していた島(16世紀初頭の文亀古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)を、寛永3年(1626年)、旗本石川八左衛門重次が徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称されるようになった[23][24]。 現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の佃島と石川島の場所に該当する。 明治期幕末に水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、後のIHIの造船所になった。1979年(昭和54年)に操業停止し建物は解体された。旧来の石川島の部分に該当する。 昭和期1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層住宅を中心とする大規模再開発「大川端リバーシティ21」の整備が行われた。
町名の変遷明治時代に南に拡張され、1896年(明治29年)までに、旧来の島部(佃島(現在の佃一丁目および佃二丁目北部))と、明治期における埋立部(新佃島西町(現在の佃二丁目南部)および新佃島東町(現在の佃三丁目))を併せた、現在に至る町域が確立した[25]。 旧町名の「佃島」・「新佃島西町」・「新佃島東町」のうち、佃島には丁目がなく、新佃島西町には一丁目から三丁目が、新佃島東町には一丁目・二丁目があった。新佃島西町と新佃島東町は、佃川(現在の新月陸橋の位置)から佃大通りまでの区域が一丁目、佃大通りから現在の八重洲通りまでの区域が二丁目、そして新佃島西町のみ現在の八重洲通りから隅田川派川までの区域が三丁目だった。新佃島西町と新佃島東町の境は、清澄通りだった。 その後、1967年(昭和42年)3月1日の住居表示の実施により、佃一丁目から三丁目が新設された。新町設置に際して、中央区は「佃」の漢字が当用漢字に入っていないことを理由に、町名を「津久田」(「つくだ」の読みより)・「津久多」(「つくだ」の読みより)・「住江」(住吉神社より)・「相生」(相生橋より)・「三角」(佃島の形状より)などに変更しようとしたが、地元の町内会を中心として作家や評論家などが反対運動を起こしたことにより、「佃」の漢字の使用を継続することとなった。旧佃島は、現在の八重洲通りから新月陸橋までの区域から現在の中央区立佃島小学校・中央区立佃中学校の敷地の区域およびその他一部区域を除いた部分が佃一丁目とされた。旧佃島のうち佃一丁目とならなかった区域(現在の八重洲通りから隅田川派川までの区域・現在の中央区立佃島小学校と中央区立佃中学校の敷地の区域・その他一部区域)と旧新佃島西町の全域は、佃二丁目とされた。旧新佃島東町は、そのまま全域が佃三丁目となった。 河川・橋・堀世帯数と人口2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[26]。
施設教育公園企業施設観光文化財東京都指定文化財佃島盆踊り(念仏踊り)東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)。1976年(昭和51年)1月16日指定[27]。指定名は「佃島の盆踊」。 毎年7月13日・7月14日・7月15日に、佃小橋付近で実施される。無縁仏や水難による仏の供養が目的であるため、踊る人はまず会場に設けられた仏壇で手を合わせる。音頭を取る人が太鼓に合わせて櫓の上で歌い、踊る人はその櫓を輪になって囲んで踊る。 江戸幕府は治安維持政策のために、江戸の中心部ではこの佃島盆踊り(念仏踊り)を唯一の例外として、他で行われていた踊りを禁じた。そのため、東京中心部において江戸時代から現在まで続く唯一の盆踊りである。 文化財の所有者は「佃島盆踊保存会」(保存会)とされ、この会が踊りの継承・伝承の役割を担うとされている。しかし2017年(平成29年)11月に、別団体「歴史と伝統を守る佃島盆踊りの会」(盆踊りの会)が地元住民有志によって設立された。保存会と盆踊りの会は対立関係にあり、中央区が仲裁を試みている。2018年(平成30年)の夏には、両団体が別々に盆踊りを主催したため、同じ場所で2度の盆踊りが開催された。 中央区指定文化財以下には、佃には関係しているが、所在地が佃ではない文化財が含まれる[28]。
中央区民文化財以下には、佃には関係しているが、所在地が佃ではない文化財が含まれる[28]。
交通バス
道路
関連する人物
佃を題材・舞台・背景とした作品江戸時代の浮世絵、落語から、昭和、平成、令和の芝居やドキュメンタリー番組、テレビドラマ、ロケ地等として登場する作品、テレビCMなどまで佃が登場するものは数多い。古いほうから掲載。 浮世絵落語
小説・随筆
芝居ドキュメンタリーテレビドラマ
映画
漫画
アニメ楽曲季語他画像一覧
脚注出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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