多田神社
多田神社(ただじんじゃ)は、兵庫県川西市多田院多田所町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。 六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。前身は「多田院法華三昧寺」と号した天台宗のち真言律宗の寺院であり、境内は現在でも「多田院」の名称で国の史跡に指定されている。初期清和源氏の本拠地であった旧摂津国多田[1]に鎮座する源氏一門の祖廟であり「清和源氏発祥の地」とも呼ばれる。 祭神清和源氏興隆の礎を築いた源満仲からその曾孫・源義家までの五公を祀る。
歴史平安時代天禄元年(970年)に清和源氏の祖・摂津守源満仲が住吉大神の御神託を受けて当地に居館を構え、満仲の末子源賢を開山として天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧寺(通称多田院)が建立された。その際に円融天皇より「此の城をもって禁裏守護職武門の棟梁万代の居城たるべし」との勅諚を賜ったとされる。このことから当地は清和源氏発祥の地と呼ばれている。以後、満仲は自らの武士団(後の多田院御家人)を率いてその館と多田院を中心に多田荘の開発に勤しんだ。 本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光、普賢菩薩像は次男源頼親、四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られたものである。平安時代の長徳3年(997年)8月27日に満仲が没すると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立された。 鎌倉時代以後は清和源氏の祖廟とされたが、この地を代々相続した多田源氏の没落と続く源氏将軍家の断絶により次第に衰微していった。鎌倉時代中期に鎌倉幕府執権・北条泰時が多田荘の地頭となると、以後は得宗家によって地頭職が相伝された。そこで幕府は多田院社殿の大規模な復興を行うこととし、文永10年(1273年)に西大寺の忍性を造営奉行に任じて再興させた。これにより多田院の宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがては源頼光も祀るようになった。幕府は正応6年(1293年)には摂津国内に棟別銭10文を課して多田院の修築費用に充てさせている。 正和5年(1316年)10月13日には多田院堂供養が行われ、渡辺氏、能勢氏、塩川氏など50数名の多田院御家人が出席している。 室町時代室町時代に入ると清和源氏である将軍足利尊氏が崇敬し、以後室町幕府の保護を受ける。延文3年(1358年)には2代将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められ、これ以降歴代足利将軍の分骨が埋葬されることとなった。なお、満仲の廟所はまれに「多田院鳴動」といって大事件の前触れとして廟が音を立てて震えることがあったという。室町時代だけでも、応永22年(1415年)、応永34年(1427年)、寛正5年(1464年)、文明4年(1472年)、文明14年(1482年)、長享元年(1487年)、延徳3年(1491年)、永正4年(1507年)の8回あったという。文明4年(1472年)には鳴動に関連して満仲に従二位が贈位されている。 戦国・江戸時代戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢による兵火によって社殿が焼失し以後荒廃したが、江戸時代に入り姫路藩主榊原忠次、老中・小田原藩主稲葉正則や多田院御家人の子孫などによって社殿の寄進や修復が行われた。なかでも清和源氏を称した徳川将軍家による崇敬は大きく、寛文5年(1665年)に4代将軍徳川家綱によって寺領500石の寄進がなされ、寛文7年(1667年)には本殿、拝殿、随神門などが再建された。そして分骨を納めた足利将軍家を倣い歴代徳川将軍の位牌が代々本殿に納められることとなった。さらに元禄8年(1695年)には5代将軍徳川綱吉による社殿の修復がなされ、その徳川家との強い結び付きから「西日光」とも称された。 そして満仲に「正一位多田権現」の神号が贈られると次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていった。 明治以降明治時代になると政府による神仏分離令により、仏教寺院であった多田院は従来の源満仲・源頼光に源頼信・源頼義・源義家の河内源氏三代を合わせた五公を祀る神社に移行した。その際、南大門にあった金剛力士像が1871年(明治4年)に満願寺に、境内の鐘楼は奈良県・西大寺に移されるなどしている。こうして当社は県社に列せられた。 境内
摂末社
文化財重要文化財
国指定史跡国登録有形文化財兵庫県指定有形文化財
川西市指定有形文化財
アクセス拝観時間
川西市源氏まつり四月には、源満仲や源頼光、源頼信、源義家から源実朝までの歴代の源氏の武将の武者行列のある「源氏まつり」が盛大に行われ、巴御前や静御前らの女性は公募で選ばれた女性たちが扮する。源氏の霊廟の性格から、源氏の個々の武士ではなく、清和源氏の武士がほぼ全員登場するところが特徴。また、『平家物語』では鹿ケ谷の密告者として評判のよくない多田行綱も、当社の源氏まつりでは、源頼朝や源義経、源義仲などと同じく源氏の主要な武将の一人として馬上の武者行列に登場する。人気があるのは公募で選ばれた女性が扮する巴御前などの女性陣である。 トラブル国の史跡となっている多田神社の約5万平米の境内に対して、総額で16億円の根抵当権が設定されていることが判明。また、債権者のうちの1社の申し立てにより2024年9月に神戸地方裁判所尼崎支部により競売開始が決定し、それに対して多田神社が異議を申し立てていると報じられた。報道によると、2024年2月に急死した当時の宮司が借金の担保にしたと見られている。神社関係者は知らされておらず、契約書も残されていないとしている[7]。 登記情報から、根抵当権は4件設定されていることが判明。2023年9月15日に京都市西京区の個人を債権者とする根抵当権極度額4億円、2023年9月28日に京都市右京区の法人を債権者とする根抵当権極度額1億3千万円、2023年10月16日に大阪府豊中市の個人を債権者とする根抵当権極度額7千万円、2024年2月21日に大阪府岸和田市の個人を債権者とする根抵当権極度額10億円と、最初の根抵当権設定登記がされた2023年9月15日から2024年2月21日の約5か月の短期間に、16億円にも及ぶ根抵当権が設定されている。最後の2024年2月21日に10億円の根抵当権が設定された直後の2024年2月29日に宮司が死亡している。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク |