伊藤博文 (棋士)
伊藤 博文(いとう ひろふみ、1960年2月8日 - )は、将棋棋士。伊達康夫八段門下。棋士番号は166。奈良県大和高田市出身。 棋歴中学1、2年の頃、将棋クラブでアルバイトをして将棋に夢中になる[1]。 1974年、14歳で奨励会に入会。初段昇段をしてからの2年間、二段に上がれず、退会まで考えた[1]。しかし、1980年8月に王位戦(中原誠対米長邦雄)の第4局の記録を務めた後に調子を上げ、その翌年から二段・三段と昇段していき、1984年8月に四段昇段(プロデビュー)を果たす。 1985年、第19回早指し将棋選手権の予選で、師匠の伊達との師弟対決で勝利。 1987年、第37回NHK杯戦で予選を勝ち抜き、本戦初出場。第48回(1998年)、第56回(2006年)でも本戦出場。 順位戦C級2組では初参加(1985年度・第44期)から5年間は24勝26敗のほぼ五分五分の成績を挙げるも、第49期(1990年度)、第50期に2年連続で降級点を喫する。第51期(1992年度)は6勝4敗で勝ち越し、降級点を1つに戻す。第52期には8勝2敗・6位の成績を収め、これが伊藤にとって順位戦における最高成績となった。第55期(1996年度)、第57期(1998年度)に降級点を喫して累計3点となり、フリークラスに降級。 2001年5月29日に順位戦復帰条件の一つである勝率の規定を満たし、C級2組へ復帰が決定。フリークラスからC級2組への昇格は伊奈祐介に次ぎ2例目[2]であるが、フリークラスへ降級後のC級2組復帰は史上初。 しかしながら、復帰後すぐの第61期(2002年度)、第62期(2003年度)に2年連続で降級点を取ったところで、2004年4月にフリークラス宣言によるフリークラス転出をした。 竜王戦は、第1期で5組からのスタート、以降、昇級も降級もない状態がしばらく続いたが、第20期(2007年度)に残留決定戦で敗れて6組降級。 第66回(2016年度)NHK杯将棋トーナメント予選・東西決勝で中村太地六段を破り、本戦トーナメントへ出場(10年ぶり4回目)。当年度出場者の最年長だったが、本戦1回戦で最年少の増田康宏四段に敗れた。 2020年3月末にてフリークラス在籍期限を満了。2020年5月26日の第33期竜王戦6組昇級者決定戦・今泉健司戦が公式戦最後の対局となり、同日付で現役を引退[3]。 棋風
人物棋士番号が前後する伊藤博文と小林宏は奨励会三段当時、1984年8月の第一例会の第1局でいずれも四段昇段を決めた。 東西で異なる例会日程のため四段昇段決定日は数日異なるが(伊藤は同年8月1日・関西、小林は同年8月3日・東京)[5]、 いずれも同時期の例会(8月第一例会)の第1局で昇段しており、「同じ時点での四段昇段」の事例は当時前例がなかった。 そのため、二人のどちらを昇段順(棋士番号)で先として取り扱うかが問題となった。 成績内容による判断なども検討された中、関東関西の異なる例会日を基にするのではなく、 同時四段昇段の二人を「登録順位決定戦」(非公式戦)で戦わせることになった[5]。この「登録順位決定戦」は1984年8月17日に東京・将棋会館で小林宏の先手(振り駒・持ち時間各90分)で行われ、120手で伊藤が勝利した[5]。 この結果、昇段順は伊藤が先、小林が後となり、棋士番号は伊藤が166番、小林が167番となった。また、両者初参加となる第44期順位戦のC級2組の順位についても、伊藤(43位)、小林(44位)の順となった。
弟子女流棋士
(2024年5月12日現在) 昇段履歴→昇段規定については「将棋の段級」を参照
主な成績在籍クラス→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
年度別成績
脚注
関連項目外部リンク |
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