今井昌雪
今井 昌雪(いまい まさゆき、1940年12月21日 - )は静岡県伊東市出身[1]の元プロゴルファー。朝霧ジャンボリーゴルフクラブ所属[1]。 来歴1962年にプロ入りし[1] [2]、同年の日本オープンでは杉原輝雄・陳清波( 中華民国)・橘田規・小針春芳に次ぐと同時に石井迪夫・勝俣敏男と並ぶ6位タイ[3]、1965年の関東プロでは戸塚カントリー倶楽部のコースレコード70を記録して[4]石井冨士夫の2位[5]に入った。 1970年の関東プロでは三浦勝利・河野高明・佐々木勝と並んで石井の2位タイ[6]、1971年のロレックストーナメントでは鷹巣南雄・矢部昭・森憲二と共にアーノルド・パーマー( アメリカ合衆国)と並ぶ2位タイ[7] [8]に入った。 1972年はニュージーランドPGAに杉本英世・河野高・村上隆・内田繁・尾崎将司と共に招待されて出場し[9]、アジアサーキット・フィリピンオープンでは初日に3位に着け[10]、最終日は謝永郁(中華民国)と並んで杉本に1打差付けての首位タイでスタート[11]。村上の追い上げを許すが、鷹巣、ベン・アルダ( フィリピン)と並んで4位タイ[12]と健闘。 国内では沖縄テレビカップ(6380ヤード、パー72)で山本善隆・橘田・宮本省三・新井規矩雄・沼澤聖一・杉原・村上・尾崎らを抑え、細石憲二と並んで、時に56歳5ヶ月と4日、レギュラーの最年長優勝記録を樹立[13]した中村寅吉の2位タイに入った[14]。大会は2日間54ホールの忙しくタフな試合であったが、この試合の参加人数などは不明だが、日本中の100数十人のプロが参加し、当時は沖縄返還記念の行事として大々的に開催された[14]。 中日クラウンズでは初日に尾崎が中村寅と並んで74と出遅れ、2日目には『和製ビッグ3』の河野・杉本・安田春雄が揃って予選落ちするなど日本勢が苦しむ中、ピーター・トムソン( オーストラリア)、テリー・ケンドール( ニュージーランド)に次ぐと同時にサム・スニード(アメリカ)、ジョニー・ミラー(アメリカ)、イレネオ・レガスピ(フィリピン)、謝敏男(中華民国)を抑えて日本人最上位の3位と健闘[15]。 ABC日米対抗個人戦では初日を村上隆と並んでの10位タイ[16]でスタートすると、2日目にはアウトを4バーディの1ボギー、インでも3バーディの1ボギーのいずれも33で回り、この日のベストスコア66をマークして5位タイに躍進[17]。最終日も気合の入ったプレーを見せ、前日まで首位のリー・エルダー(アメリカ)と並ぶ日本勢最高位の4位タイと健闘[18]。 1973年の関東オープンでは謝敏・尾崎と並んでの8位タイ[19]に入り、大箱根カントリークラブ所属[3]を経て、1974年からは富士宮市の朝霧ジャンボリーGC所属プロとなる[1]。 1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[20]に出場し、初日を鈴村照男・鷹巣と並んでの5位タイ、内田とペアを組んだダブルスでは吉川一雄&鈴木規夫ペアと並んでの3位タイ[21]でスタート。2日目に4位タイ[22] [23]とし、最終日にはダブルスで5位[24]に入った。 1975年の全日本ミックスダブルスでは岡田美智子とペアを組み、初日を内田繁&諸星明美ペア・石井富男&鈴木美重子ペア・三浦勝利&藤村政代ペア・村上隆&佐々木マサ子ペア・石井冨&小滝澄枝ペアを抑えての首位[25]でスタートし、最終日には石井富&鈴木の2位[26]、[27]に終わった。 1975年の第1回日本プロマッチプレーでは初日に杉本らとアウト15番目にスタートし、4番の6mパットを沈めて連続3バーディーの好調を維持して、自身が持っていた戸塚CCのコースレコードを更新する4アンダー68で首位に立った[4]。2日目には安田らと共に無難に3アンダーで通過[28]したが、3日目には雨に災いされて波乱含みの中で山田健一に1ホール残して敗退[29]。 ホームの朝霧で行われた1977年の関東オープンでは、初日に小林富士夫・長谷川勝治と4アンダー66で並んで首位に立つ[30]。2日目には崩れて4位に落ちたが[31]、3日目には12番でイーグルを取り、共に首位タイで譲らない村上・川田時志春と激しい首位争いを演じる[32]。16番では第2打をひっかけてサブグリーンとの間のラフに入り、20mはあったものの、ナイスアプローチで一緒につけたが、フックラインを外してボギーに終わる[32]。川田と共に首位を守ろうとするあまり、パットの微妙なタッチにしくじって結局6アンダーと後退し[32]、最終日には矢部・上原宏一と並んでの7位タイ[33]に終わった。 1978年の阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を関水利晃・草柳良夫・吉川・野口茂・鈴木規・高井吉春と並んでの6位タイ[34]でスタートし、最終日には西宮辰幸・高井・中島弘二と並んでの8位タイ[35]に入った。 1979年のくずは国際では初日を橘田光弘・宮本・橘田・上原・中村通、グレッグ・ノーマン(オーストラリア)と並んでの6位タイ[36]でスタートし、最終日には橘田光・岩下吉久・石井裕士・鷹巣・中村・草壁政治・ノーマンと並んでの10位タイ[37]に入った。中日クラウンズでは強風の中で迎えた7番でホールインワンを達成し[38] [39] [1]、関東プロでは青木功・金井清一・川田・長谷川・尾崎・山田に次ぐと同時に謝敏・謝永・菊地勝司・中嶋常幸と並んでの8位タイ[40] [41]に入った。 1984年の富山県オープンでは初日に松本紀彦・佐野修一・天野勝・鷹巣に次ぐと同時に十亀賢二・野口・秋富由利夫・井上幸一と並んでの6位タイ[42]でスタートし、最終日には佐野・鈴木弘一・橘田・内田・松本を抑えて[43]自身唯一の優勝を飾る[1] [2]。 1984年の大京オープンでは2日目に高橋完・三上法夫・島田幸作と並んでの9位タイ[44]に浮上し、3日目には鷹巣・島田と並んでの11位タイ[45]に後退したが、最終日には66をマークして石井裕の2位[46] [47]に入った。 1988年のブリヂストンオープン[48]を最後にレギュラーツアーから引退し、シニア転向後は1992年の近鉄ホームシニアで謝敏・鈴村久と並んでの5位タイ[49]、1993年の近鉄ホームシニアで上田鉄弘・謝敏と並んでの5位タイ[50]、1994年の鳳凰カップでビル・ダンク(オーストラリア)と並んでの8位タイ[51]に入った。 1997年の日本プロシニア[2]を最後にシニアツアーからも引退し、2000年の関東プログランドシニアでは6位[52]に入った。 主な優勝
脚注
外部リンク |