三上法夫
三上 法夫(みかみ のりお、1947年3月1日 - )は広島県広島市出身[1]の元プロゴルファー。 来歴ジュニアの時からゴルフの非凡さを認められ[3]、崇徳高校時代の1962年には全国高校選手権では個人戦で沼澤聖一の5位に入る[4]。1964年の関西学生では決勝戦で2連覇を果たしている中部銀次郎と対戦し、3-2で三上が高校生で初めての優勝を飾った[5]。 明治大学時代の1967年には関東学生・日本学生を共に準優勝し[6]、1972年にプロ入りする[1]。 1979年の日本国土計画サマーズ[7]ではマンデートーナメントから勝ち上がり、2日目は1アンダーの14位であったが、3日目には7バーディー、1ボギーでコースレコードタイの66をマークし日吉稔と共に首位タイに浮上[8]。最終日には2アンダー70で回って通算9アンダー279で逃げ切り[9]、同年のフジサンケイクラシック・佐藤正一に次いで2例目の本戦優勝[10] [11] [12] [13] [14]で、ツアー初優勝を飾る[15]。最終ホールはパーで優勝を決め、森憲二と共に追い上げて2位タイ[9]の吉川一雄に祝福された[16]。 1980年の白竜湖オープンでは新井規矩雄・尾崎直道・尾崎健夫・藤木三郎に次ぐと同時に吉川と並んでの5位タイ[17]、1981年の富山県オープンでは関水利晃・杉本英世と並んで松井利樹の5位タイ[18] [19]、1982年のKSB香川オープンで内田繁・新井・高橋五月に次ぐ4位[20]に入る。 1984年のミズノオープンでは新井・尾崎直に次ぎ、中嶋常幸・山本善隆・藤木・謝敏男( 30代半ばで身体を故障してシード権を失うが、1986年の暮れからつるや専属プロとなり、1987年2月に雪の降る西宮高原GCで一緒にラウンドしたことがきっかけで、大阪大学の森勇蔵教授がクラブを作成[3]。同年4月に推薦出場したブリヂストン阿蘇オープンでは3日目の18番でバーディーパットが惜しくも短く「落ちろ」とばかりに大きなアクション[23]を見せたが、最終日には通算8アンダー[24]でデビッド・イシイ(アメリカ)、佐野修一・山本、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)を破って優勝[25]。シード権を再び獲得するが、インタビューでは「これは大阪大学の森教授のおかげです」と言っている[3]。 同年の日本プロでは気温32度、時折10mを超えるような強風という厳しいコンディションの中、深いラフに何度か入りながらも打ちやすい順目という幸運もあり、初日に4バーディー、2ボギーの2アンダー70で首位に立つ[26]。最終的にはイシイ・金井清一・ジョーンズ・青木に次ぎ、陳志明(中華民国)・高橋勝成と並んで8位タイに入る[26]。富山県オープンでは友利勝良・丸山智弘・入野太と並んでの5位タイ[27]、東北クラシックでは金井・飯合・杉原、テリー・ゲール(オーストラリア)に次ぐと同時に藤木・高橋・イシイを抑え、牧野裕・田中泰二郎・渡辺司と並んでの5位タイ[28]に入る。 1988年にはテーラーメイド瀬戸内海オープンで2日目に泉川ピート、マイク・ファーガソン(オーストラリア)と並んでの9位タイ[29]に浮上し、最終日には森と並んでウェイン・スミス(オーストラリア)の2位タイ[30] [31]に入った。 1988年の関西プロでは秋富由利夫と並んで倉本昌弘の2位タイ[32]、1989年には中四国オープンで上野忠美の2位[33]に入った。 1989年の仙台放送クラシックでは3日目に堅実なショット、パットで5バーディー、1ボギーで67を回り、前日の6位タイから単独首位に躍り出た[34]。最終日には飯合と共に尾崎将と最終組で一緒に回る重圧と意識過剰から、スタートから3番ホールまで2ボギーで自滅し[35]、芹澤信雄・久保田剛司・出口栄太郎と並んでの4位タイ[36]に終わった。 1989年のジーン・サラゼン ジュンクラシックでは尾崎将・米山剛と並んでの6位タイ[37]に入り、1991年のフィランスロピータケダカップ[38]を最後にレギュラーツアーから引退。 主な優勝レギュラー
その他
脚注
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