沼澤聖一
女優の篠ひろ子、その夫である直木賞作家の伊集院静は義弟。また実弟にゴルフクラブ設計家の沼澤雄二、甥に元プロサッカー選手の青山隼がいる。 人物東北学院高校時代は1962年の全国高校ゴルフ選手権個人・男子で猛暑にもかかわらず粘り強さを発揮し、三上法夫を抑えて初出場初優勝[1]。1963年の同大会では午前のラウンドを78にまとめた後、午後のインでは1アンダーの35、アウトも1番から7番まで連続パーで140台が期待されたが8番のショートホールでバンカーショットをミスしてダブルボギー[1]。9番でもボギーを叩いたが、通算152ストロークは大会新スコアを記録し、戸張捷・山田健一、中学生の入江勉を抑えて史上2人目の連覇を達成[1]。 1964年に入学した日本大学ゴルフ部では西田升平と同期で山田の1年先輩、高橋信雄の2年先輩に当たり[2] [3]、竹田昭夫監督の下で同期の西田と共に柱となり、猛烈を極めたスパルタ練習を積んで頭角を現す[4]。在学中は副部長を務め[5]、日本学生、中日杯関東学生2連覇、朝日杯などで優勝[6]。日本オープンでもローアマ争いをし、学生やアマチュアゴルファーの基盤を作る[6]。 1966年には戸塚カントリー倶楽部西コースのスクラッチ競技でコースレコード70を出し、同コースで行われた日本学生で優勝[7]。 卒業後の1968年10月にプロ入りし[2]、1974年にはシード入りを果たす[8]。 1972年の沖縄テレビカップ(6380ヤード、パー72)では時に56歳5ヶ月と4日、レギュラーの最年長優勝記録を樹立[9]した中村寅吉、細石憲二・今井昌雪・山本善隆・橘田規・宮本省三・新井規矩雄に次ぎ、杉原輝雄・村上隆・尾崎将司らを抑えての9位に入った[10]。大会は2日間54ホールの忙しくタフな試合であったが、この試合の参加人数などは不明だが、日本中の100数十人のプロが参加し、当時は沖縄返還記念の行事として大々的に開催された[10]。 1974年にはブリヂストントーナメントで2位に入ったほか[11]、日本シリーズ初出場[12]を果たす。 1975年の沖縄クラシックでは初日を陳健忠&謝永郁(中華民国)・日吉・坂下定夫・草柳良夫と並んでの4位タイ[13]でスタートし、2日目には草柳・陳健・謝永と並んでの2位タイ[14]に浮上。3日目には北西の風5mで肌寒く、あまり良いスコアが出ない中で3アンダー69[15]をマーク、通算6アンダー[16]210[15]で単独首位[16]に立った[17]。最終日にはアンダーパーは8選手と、全般にスコアは伸びなかった中を手堅くパープレーでまとめ、通算6アンダー282でベテラン勢の追撃を振り切り、内田繁・謝永に3打差付けて優勝[12] [18]。18番の第2打をミスしてグリ一ン手前のバンカーに落としたが、ピン側50cmに寄せる見事なリカバリーでトーナメント初優勝を決め、賞金250万円を獲得[11] [19]。鈴村照男、新井に次ぐ3人目の学士プロの優勝となった[12]。 その後は全英オープン、アメリカPGAツアー、オーストラリアツアー、アジアサーキット、南米ツアー、南アフリカ・サンシャインツアーなど世界各地を転戦[6]したが、目の網膜を損傷し、42歳でレギュラーツアーの競技生活を断念[5]。 ツアー引退後、豊富な海外ツアー経験などを基に[5]NHKゴルフ解説者を14年間勤め、その後はTBS系解説、ゴルフネットワークなど年間35試合を担当し、2000年にはコメンテーター・オブ・ザ・イヤーを受賞[6]。 その後は渋谷109ゴルフスクールを開校したほか、杜の都ジュニアゴルフスクールを立ち上げ[6]、故郷でのジュニア育成などで活躍[5]。 現在は沼沢聖一スタジオゴルフ主幹、東京都港区のゴルフスクール「GOLF&FITNESS POINT芝浦」ヘッドプロ[6]。 主な優勝
脚注
外部リンク
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