高橋五月
高橋 五月(たかはし さつき、1948年5月6日 - )は神奈川県横浜市出身[1]のプロゴルファー。 来歴荒川高校卒業[2]後に21歳でゴルフを始め[3]、杉本英世に師事[1]。 1974年秋のプロテストに26歳で合格し[2] [3]、1975年の美津濃プロ新人では4位タイ[4]に入った。 1980年の岐阜関カントリー倶楽部開場15周年記念「岐阜関チェリーカップトーナメント」[5]では2日目に松田敏博・寺本一郎・川上実と並んでの5位タイ[6]に浮上し、最終日には68をマークしてミヤ・アエ(ビルマ)の2位[7] [8]に入る。日本プロでは初日の14番パー5で第2打を20cmにつけるイーグルが効いたか、河野高明・中嶋常幸と共に2アンダー69で並んで首位タイとなる[3]。プロ6年目で初の首位発進を決めると、2日目も踏ん張って5バーディー、3ボギー、4ダブルボギーのイーブンパー71で通算2アンダーをキープし、宮本省三に並ばれたが、初の2日間首位も経験[3]。最終的には山本善隆・金井清一・鷹巣南雄・鈴木規夫・河野に次ぐと同時に宮本・長谷川勝治・藤木三郎を抑え、出口栄太郎・安田春雄と並んでの7位タイであった[3]。 1981年から1986年までシード選手[1]として活躍し、1981年の第1回KSB香川オープンで内田繁・宮本・藤木・高橋純一・榎本七郎と並んでの5位タイ[9]に入り、群馬県オープンでは小林富士夫・川田時志春・中嶋・新井規矩雄を抑えると同時にプレーオフで高橋勝成を下して優勝[10] [11] [12]。 1982年にはKSB香川オープンで内田・新井に次ぐ3位[13]、ダンロップ国際オープンで許勝三(中華民国)・高橋勝と並んでの7位タイ[14]、美津濃トーナメントでは杉原輝雄・羽川豊・内田に次ぐと同時に中嶋・鈴木を抑えての4位[15]に入った。 1983年のKSB瀬戸内海オープンでは初日を十亀賢二・杉原に次ぐと同時に藤木・金井・前田新作・新井・高橋を抑え、磯崎功・小林と並んでの3位タイ[16]でスタートし、最終日には十亀・安田に次ぐと同時に牧野裕・内田・藤木・小林・吉武恵治・杉原・新井・金井と並んでの3位タイであった[17]。ゴルフダイジェストトーナメントでは初日を64で首位[18] [19]スタートし、2日目には2日間60台の内田に並ばれて首位タイ[20]、3日目には辛うじてパープレーで首位を守ったが[21]、最終日には中嶋・藤木・河野和重・青木功と並んでの3位タイ[22] [23]に入った。ブリヂストントーナメントでは2日目の12番パー3でホールインワンを達成[24]。 1984年のパールカントリークラブオープンでは鷹巣・石井裕士に次ぐと同時にデビッド・イシイ(アメリカ)、泉川ピートを抑えての3位[25]に入り、帰国後のKSB瀬戸内海オープンでは藤木と並んでの4位タイ[26]、全日空札幌オープンでは泉川とのプレーオフに敗れて[27] [28]2位に終わる[29] [30]。栃木県オープンでは初日を河野・安達典夫と並んでの3位タイ[31]でスタートし、町野治・川波通幸に次ぐ3位タイ[32]に留まった。KBCオーガスタでは初日に6バーディー、ノーボギーの安定したプレーで6アンダー66の首位[33]スタートを決め、2日目もノーボギー67とスコアをまとめて11アンダー133で首位を守る[34]。3日目は藤木、ドン・プーリー(アメリカ)、出口と並んでの8位タイ[35]に後退し、最終日には尾崎健・倉本昌弘・牧野、ジョーイ・シンドラー(アメリカ)と並んでの5位タイ[36]に入った。ダンロップフェニックストーナメントではフレッド・カプルス(アメリカ)、倉本、ジョニー・ミラー(アメリカ)と並んでの7位タイ[37]に入った。 1985年の栃木県オープンでは浅井教司・渡辺司と並んでの4位タイ[38]に入った。KBCオーガスタでは3日目が台風13号の直撃で中止して迎えた最終日[39]、飯合肇、ファジー・ゼラー(アメリカ)、青木功・尾崎将司・出口と共に9アンダーで並ぶ激戦を繰り広げ、飯合の2位タイであった[40]。 1986年の東北クラシックでは森憲二・宮本康弘・前田と並んでの10位タイ[41]に入るが、森・宮本と共にレギュラーツアーでの最後の十傑入りとなる。 1987年のテーラーメイド瀬戸内海オープンでは新井・新関善美・杉原、ブレッド・オグル(オーストラリア)、入江勉と並んでの5位タイ[42]に入った。 1989年のゴルフダイジェストトーナメント[43]を最後にレギュラーツアーから引退し、その後はテレビ東京解説者[44]などのテレビ出演、レッスン指導、講演と幅広く活躍[2]。 レッスンは歯に衣着せぬ発言と親しみのあるキャラクターから好評し、師匠の杉本に勝るとも劣らないゴルフ理論を持つ[2]。「原則はひとつ。しかし基本はプレーヤーの数だけある」が口癖で、セオリーといわれる基本を、それぞれのプレーヤーの個性に合わせ、アレンジし、プレーヤーに最も適したグリップ、スイングを指導、人気を博す[2]。 「もっと飛ばしたい」「ボールを曲げたくない」「もっと寄せたい」「パターが上手になりたい」「もっといいスコアーで回りたい」など悩むアマチュア・ゴルファーへのゴルフ教室、ワンポイントレッスンは実戦的で分かりやすく好評であったほか、講演ではゴルフコンペでのスコアメイクのコツ、試合での駆け引き、トッププロの人間像、プロの練習方法などの裏話も面白く聞かせた[45]。 2023年までは栃木県下都賀郡壬生町の宮の森カントリー倶楽部に所属し[1]、2024年までは川波・高橋完・植田浩史と共に栃木県プロゴルフ会メンバー[46]であった。 主な優勝
脚注
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia