植田浩史

植田 浩史
Hiroshi UEDA
基本情報
名前 植田 浩史
生年月日 (1958-11-12) 1958年11月12日(66歳)
身長 169 cm (5 ft 7 in)
体重 65 kg (143 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
経歴
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植田 浩史(うえだ ひろし、1958年11月12日 - )は大阪府出身のプロゴルファー

来歴

父の勧めで、中学1年生の時に初めてクラブを握った[1]。高校1年の夏まで野球部に所属していたが、足が遅く、体が小さく「一生レギュラーになれない」とゴルフに転向[1]

近畿大学4年時には朝日杯争奪・全日本学生選手権で優勝し、当時の同期には水巻善典大町昭義らがいた[1]

大学卒業する時にゴルフ部の監督から薦められ、栃木県・矢板カントリークラブにいた河野高明に弟子入りし、公私にわたって指導を仰いだ[2]

1984年[3]7回目のプロテストで合格し[4]1989年には栃木オープン埼玉オープンで優勝[5]。同年のKBCオーガスタでは初日に最終ホール、第3打をピン5mにつけバーディー、首位[6]に着けた。  

1988年のCITICORP OPENでは初日に69をマークして鈴木弘一寺本一郎加瀬秀樹村上隆と並んでの4位タイ[7]でスタートし、2日目には72で泉川ピート安田春雄須藤聡明高見和宏町野治と並んでの9位タイ[8]に終わった。

プロ入り10年目の1994年にはNST新潟オープンで初日に6アンダーで首位に立ち[9]東海クラシックでは3日目に通算9アンダーで単独2位に浮上[10]するなど3位タイ[11]ゴルフダイジェストトーナメントでは3日目に18番で第3打をピン側に寄せバーディーを奪い通算13アンダーで単独首位[12]に立つなど2位タイ[11]に入る。6試合でベスト10入りし、賞金ランク20位として初のシード権を獲得[11]

2000年マンシングウェアオープン KSBカップでは2日目の12番、189ヤードのパー3番で6番アイアンでのティショットが6ヤードほど手前に落ちると、そのままピンに向かって転がっていきカップインし、ホールインワンを達成[13]。自身4度目、試合では2度目のホールインワンでこの日、5つスコアを伸ばしたものの、通算2アンダーという高いカットラインに、甲斐なく通算1オーバーで予選落ち[13]。その後はフィランスロピーアイフルカップ、NST新潟オープンと順調に予選を通過し、2日間競技の福島オープンで優勝[1]。久光製薬KBCオーガスタでは3日目に通算10アンダーで迎えた最終18番は残念ながらボギーとしたが、首位と4打差で決勝に進出[1]

2000年から2005年までは日本プロゴルフ協会トーナメントディレクターを務め、自身でピン位置も決めたりし、選手の攻略法やピン位置も読めるようになった[2]

2006年日本プロ[14]を最後にレギュラーツアーから引退し、2009年からはシニアに転向[11]。デビュー戦となったファンケルクラシックでは最終日ベストスコア66の好スコアをマークして6位に入る健闘を見せる[11]。その後も日本シニアオープン7位タイ、PGA Handa Cupフィランスロピー10位、日本プロシニア10位タイとベスト10入りして賞金ランク15位に入り、シード権を獲得[11]

2010年の開幕戦スターツシニアでは初日、2日目とノーボギーで、最終日は1打差の4位からでいきなり3連続バーディーのロケットスタートで勢いをつけた[2]高橋勝成の追い上げもあって大接戦となったが、10番をボギーにして一旦は後退しながら14、16番のバーディーでいつもにない粘り腰を見せた[2]。この日7バーディー、2ボギーの5アンダー67で回り、68の高橋勝と通算13アンダーで並んでプレーオフとなる[2]。プレーオフでは1ホール目の18番で13mのロングパットを寄せて確実にパーに収め、高橋は1mのパーパットを外してあっさりと決着[2]。レギュラー、シニアを通じて初のツアー優勝を手にし、続く榊原シニアオープン6位タイ、PPTシニア4位タイと優勝争いに加わり、シニアツアー前半戦を大いに盛り上げた[15]

2011年はシニアツアー開幕前の後援競技、金秀シニア沖縄オープンで優勝してシニア2勝目を飾ると、皇潤クラシックでも優勝争いに加わり2位タイに入って気を吐いた[16]。トータルエネルギーPPT3位タイ、ファンケルクラシック8位タイなど上位の成績を残し、賞金ランク16位としてシード権獲得[16]

2012年9月コマツオープンで通算13アンダーで尾崎直道と並びプレーオフで敗れたが、次戦のISPSハンダ秋晴れでは4位に食い込む健闘を見せ、トータル7試合に出場、賞金ランキングは10位と順位を上げた[17]

2013年は全12試合に出場したが、トップテンはISPSハンダ・フィランスロピー9位タイのみで、日本プロシニア11位があったが、優勝戦線に絡む試合がなく、賞金ランクは前年10位から29位に落ちた[18]

現在は日本プロゴルフ協会ツアー競技管理委員会委員長を務める[3]傍ら、川波通幸高橋完と共に栃木県プロゴルフ会メンバーで[19]太平洋クラブ益子PGAコースの支配人に就任[20]

主な優勝

レギュラー
  • 1989年 - 栃木オープン、埼玉オープン
  • 1992年 - 関東PGAフィランスロピー
  • 1994年 - NISSANオールスターチャリティ
  • 1998年 - アイフルチャレンジカップ
  • 2000年 - 福島オープン
シニア
  • 2010年 - スターツシニア

脚注

  1. ^ a b c d e 「心地良いですねえ…」”. www.jgto.org. 2024年2月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 涙の初優勝! シニア2年目・植田浩史”. www.pga.or.jp. 2024年2月4日閲覧。
  3. ^ a b ゴルフ侍、見参!【真剣勝負!植田浩史プロvsトップアマチュア】”. www.tv-tokyo.co.jp. 2024年2月4日閲覧。
  4. ^ 【80切り】練習場ではターゲットを一点に絞って、スライスとフックを交互に打とう”. www.alba.co.jp. 2024年2月4日閲覧。
  5. ^ 植田 浩史 ウエダ ヒロシ HIROSHI UEDA”. www.smile-pga.jp. 2024年2月4日閲覧。
  6. ^ 植田浩史 男子プロゴルファー KBCオーガスタ 第1日”. photobank.mainichi.co.jp. 2024年2月4日閲覧。
  7. ^ 朝日新聞縮刷版p824 昭和63年7月17日朝刊26面
  8. ^ 朝日新聞縮刷版p860 昭和63年7月18日朝刊22面
  9. ^ 1994年07月28日 単独首位の植田 NST新潟オープン第1日”. kyodonews.jp. 2024年2月4日閲覧。
  10. ^ 1994年10月08日 単独2位の植田 東海クラシック第3日”. kyodonews.jp. 2024年2月4日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 2010年シニア選手紹介”. www.pga.or.jp. 2024年2月4日閲覧。
  12. ^ 1994年10月15日 植田が単独首位 ゴルフダイジェスト第3日”. kyodonews.jp. 2024年2月4日閲覧。
  13. ^ a b 植田浩史が12番ホールでエース達成”. www.jgto.org. 2024年2月4日閲覧。
  14. ^ 植田 浩史選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2024年2月4日閲覧。
  15. ^ 2011年シニア選手紹介”. www.pga.or.jp. 2024年2月4日閲覧。
  16. ^ a b 2012年シニア選手紹介”. www.pga.or.jp. 2024年2月4日閲覧。
  17. ^ 2013年シニア選手紹介”. www.pga.or.jp. 2024年2月4日閲覧。
  18. ^ 2014年シニア選手紹介”. www.pga.or.jp. 2024年2月4日閲覧。
  19. ^ 栃木県プロゴルフ会:メンバー紹介”. www.pga-tochigi.com. 2024年2月24日閲覧。
  20. ^ 益子|新着情報”. 2024年2月4日閲覧。

外部リンク