十亀賢二
十亀 賢二(そがめ けんじ、1946年11月26日 - )は愛媛県出身の元プロゴルファー。 来歴1972年の中四国オープンでは細石憲二の2位に入り[2]、1974年の同大会では開催された松永カントリークラブのコースレコード64を樹立し、1966年の中四国選手権で内田繁が記録した67を8年ぶりに塗り替えた[3]。 1975年の同大会では冨田三十士・増田光彦を抑え、岡部洋三と並んで上野忠美の2位タイ[4]に入った。 1982年の静岡オープンでは初日を竹安孝博・宮本康弘・河野高明と並んでの6位タイ[5]でスタートし、2日目には青木基正・出口栄太郎・謝永郁(中華民国)と並んでの10位タイ[6]となる。 1983年にホームコースの志度カントリークラブ[7]で開催されたKSB瀬戸内海オープンでは、初日に6アンダー66の単独トップに立つなど大会を盛り上げ[1]、安田春雄[1]・牧野裕[8]・内田[8]・藤木三郎[7]・小林富士夫[8]・杉原輝雄[1]・吉武恵治[8]・新井規矩雄[8]・金井清一[7]・高橋五月[8]、高橋勝成[1]、磯崎功・前田新作[9]、石井秀夫・鈴木規夫・石井裕士[10]を抑えて優勝。 最終日には、予選落ちの石井裕が、誤って後輩の石井秀のバッグを持ち帰る珍事[10]が発生する中、十亀は終盤17番まで通算5アンダーの単独トップと好調[1]を維持。最終ホールは流石に硬くなったのか、パー5で2打目をボギーで通算4アンダーとなり、大差で追いかける安田とのプレーオフで雌雄を決することになる[1]。安田は前日イーブンパー72で21位、最終組から7組も前で4アンダー68のベストスコアをマークし、通算4アンダーでホールアウト[1]。安田は上位に浮上していたが、最終組が終わるまで1時間半もあったため、帰路の飛行便を1便早めて帰宅を急いでしまい、最終組の十亀がホールアウトした時に、トップに並ぶ安田はすでに高松空港のロビーにいたのである[1]。 プレーオフが決まって関係者は安田を探していた時、すでに安田は空港にいることが判明[1]。その時に当時スポーツ紙記者であったゴルフジャーナリストの武藤一彦はプレスルームで「まずいことになった」と感じ、高松空港に事情を話し、ロビーの安田に呼び出しをかけ、できれば折り返しコースに電話を入れてくれるよう頼んだ[1]。やがて、5分もしないうちに安田からプレスルームに電話が入った。プレーオフになった旨を伝えると驚愕し、息を呑んで「どうしよう」と何回も口走った[1]。安田は「ホールアウトしたときは首位と4打差で、2位には2打差しかなかったが、5、6人がひしめき、俺の優勝なんか考えもしなかった。逆転なんて誰が見たってありっこなかった」と語り、流石に慌てて「俺、失格なの?」「それとも始末書?」「どうしたらいいの?」と矢継ぎ早に武藤に質問[1]。 プレーオフの権利を放棄することは罰則の対象ではなかったが、その後は競技委員長の増田[7]ら本部役員との話となった。結局優勝は十亀、2位に安田と決まり、プロゴルフ界では以来、優勝争いをする者は最終組がホールアウトするまでコースの外に出ない、という取り決めが常識となった[1]。表彰式で十亀はコース上空に機影を発見し、手を合わせた[11]。 同年の兵庫県オープンでは寺本一郎・川上実に次ぎ、金山和雄と並んでの4位タイ[12]に入った。 1984年の富山県オープンでは初日に松本紀彦・佐野修一・天野勝・鷹巣南雄に次ぐと同時に今井昌雪・野口茂・秋富由利夫・井上幸一と並んでの6位タイ[13]でスタートし、1987年の中四国オープンでは倉本昌弘・上野に次ぐと同時に奥田靖己と並んで4位タイ[14]に入る。 1987年のKSB瀬戸内海オープンでは初日を秋富、ブレッド・オグル(オーストラリア)、高橋勝・高橋五・杉原・中尾豊健と並んでの3位タイ[15]、1988年のテーラーメイド瀬戸内海オープンでは初日を室田淳・入江勉・吉村金八と並んでの3位タイ[16]でスタートした。 1985年から松永CCでプロ・アマ・研修生により行われている「ミッドサマーオープン」[17]では1988年・1990年2位、1993年2位タイ、1994年3位タイに入った[18]。 1993年のキャスコ岡山オープンでは田中文雄と並んでの7位タイ[19]に入り、1996年のミズノオープン[20]を最後にレギュラーツアーから引退。 シニア転向後は2003年の日本シニアオープンで初日に首位の野口裕樹夫と3打差、海老原清治と並んでの2位タイ発進を決める[21]。 主な優勝
脚注
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