井上幸一 (ゴルファー)
井上 幸一(いのうえ こういち、1946年9月29日 - )は神奈川県出身の元プロゴルファー。 父・井上清次(1915年 - 1992年)も元プロゴルファーで、1952年に日本プロを制し、後に岐阜関カントリー倶楽部で森口祐子を育てたことでも知られる[1]。 来歴1969年にプロ入り[2]すると、1978年の中部オープンでは初日から首位で、最終日もノーボギー、2バーディーと堅実なプレーでスコアを縮め、通算11アンダー277で[3]鈴村久・石井秀夫・内田繁・石井裕士・野口英雄・大場勲・豊田明夫を抑えて優勝[4]。10年目で初のタイトルを獲得し[4]、同年の日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞[2]。 1979年にはくずは国際では栗原孝・上原宏一・杉原輝雄・新井規矩雄と並んでの3位タイ[5]、関西プロでは中村通・宮本康弘・内田・鈴木規夫に次ぐと同時に吉川一雄・石井・大場・入江勉・出口栄太郎を抑え、山本善隆と並んでの9位タイ[6]、富山県オープンでは豊田とプレーオフを戦って2位[7]に入った。KBCオーガスタでは3日目に17番で2打を56cmに寄せてニアピン賞の乗用車を獲得するが、同年は日本国土計画サマーズでもニアピン賞を獲得しており、前年にもニアピン賞を2度獲得[8]。大会自体はイーブンパーの25位タイに終わり、試合後には「これからはニアピンよりもタイトルを」[8]と語った。 同年には吉川と共にワールドカップ日本代表に選出され、団体でヘール・アーウィン&ジョン・マハフィー(アメリカ)、ケン・ブラウン&サンディ・ライル(スコットランド)、アントニオ・ガリード&マヌエル・ピニェロ(スペイン)、ハイメ・ゴンザレス&ラファエル・ナバロ(ブラジル)、陳志明&呂西鈞(中華民国)、エディ・ポーランド&デス・スミス(アイルランド)に次ぎ、マーク・ジェームス&マイケル・キング(イングランド)、ジャン・ガライアルド&ベルナール・パッカシオ(フランス)を抑え、ダン・ホールドソン&ジム・ネルフォード(カナダ)と並んで7位に入る。 1980年の富山県オープンでは入江勉・内田を抑えると同時に鈴村照男をプレーオフで下して優勝し[9]、1981年の新潟県オープン[10]では藤木三郎・長谷川勝治・湯原信光・陳健忠(中華民国)と並んで竹安孝博の2位タイ[11] [12]に入った。 1982年には左手の怪我を押して中日クラウンズに出場し、初日には各選手とも和合特有の強風の中で、小さくて速いグリーンに苦戦してアンダーパーは132選手中僅か6人という中、鷹巣南雄と共に68を出して首位に立つ[13]。井上はパットが好調で一時は3アンダーまで伸ばしたが、後半の7番で1mのパーパットを打ち切れず2アンダーに後退し、終盤の7番から3連続バーディを奪った鷹巣に並ばれた[13]。2日目には左手を庇ってのショットがブレ気味であったが、好調なパットで1バーディ、2ボギーで通算1アンダーの3位タイに後退して内田と並び、最終的には橘田規・羽川豊と並んでの12位タイ[13]であった。 1983年のペプシ宇部トーナメントでは2日目に64をマークして6位[14]、3日目には68で2位[15]に浮上し、最終日には69で[16]4日間とも着実にスコアを縮めた金井清一を追い上げての2位[17]に入った。 1983年のゴルフダイジェストトーナメントでも金井の2位[18]であった。 1984年の日本プロマッチプレーでは初日の1回戦で前年優勝の中嶋常幸と対戦し、10、11番の連続バーディーで逆転して1アップした中嶋に18番で追いついてエキストラホールに持ち込む[19]。19ホール目、293mを短い10番パー4で井上が1mにつける会心のショットを放ち、前年覇者を振り切った[19]。中嶋は前年から日米ツアーを回ってほぼ休みなしの状態の上、大会前に野球のバットスイング100回などのトレーニングも行い、かなり疲れていた[19]。井上はラウンド中も炎症止めのスプレーをかけるなど体が痛そうな中嶋を目撃し、試合後に中嶋は「井上さんに休みをもらった」とコメントしている[19]。井上は2日目には藤木に10、11番連続アップで流れを掴んで4-3で勝ち、準決勝では好調の尾崎健夫と大接戦を演じる[19]。午前18ホールは尾崎健が6つ、井上が5つ取り、尾崎健1アップで折り返したが、7番パー5では井上が2オンするなど先手を取って逆転、一時3アップとなった。そこから尾崎健も粘り、1ダウンの最終18番で追いついてエキストラホールに入る[19]。37ホール目にグリーンを外した井上が寄せてパーで上がった後、5mのバーディーパットの尾崎健は80cmほどショートして次へ進むと思われた直後、そのパーパットを外す痛恨の3パットで決着した[19]。決勝は中村通と対戦し、一進一退の展開から、まず中村が攻める[19]。14番から3連続アップして抜け出したが、井上も休憩を挟んで2つ取り返し、後半6番までで中村が1アップとどちらに転ぶか分からなかった[19]。25ホール目、流れを引き寄せたのは中村で、7番パー5で2mのバーディーパットを沈めた[19]。8番で5mを入れ、9番パーではアプローチをOKにつけて3連続アップ[19]。残り9ホールで4アップとして一気に井上を突き放しドーミーホールの33ホール目、15番で井上は先に3mのバーディーを沈めたが、中村が1.5mを入れ返して4-3で決着し、井上は2位に終わった[19]。 1984年の東北クラシック[20]では3日目に18番ホールの第3打をチップインするなど、2位を4打差と大きく引き離す単独首位[21]に立ち、最終日通算12アンダーで優勝を飾ると、ゴルファー仲間から手荒な胴上げ[22]で祝福された。同年の三菱ギャラントーナメントでは山本と共に安田春雄の2位タイ[23]、KBCオーガスタでは混戦模様の最終日、トップから3打差に12人という大激戦[24]の末、中嶋と並んで尾崎直道の2位タイであった[25]。新潟オープンでは藤木と共に4日間60台をマークし、安田・前田新作・高橋勝成・飯合肇・金井・海老原清治・安達典夫を抑えての2位に入った[26]。 サントリーオープンアマプロでは76を打って38名の参加プロ中で36位であったにもかかわらず、歌手の藤山一郎はじめ4名のアマチュア選手が3イーグル、12バーディの8アンダーという快スコアを叩き出したため、井上は前年に続く団体優勝で賞金を手にした[27]。 1985年には関西プロで前田・中村・石井・山本を抑えて鈴村と並ぶ2位タイ[28]、中部オープンで出口・石井・鈴村・内田を抑えて2位に入る[29]。フジサンケイクラシックでは5位[30]、全日空札幌オープンでも中嶋・倉本・高橋・尾崎将司に次ぐと同時に杉原・長谷川・湯原・新井・須貝昇を抑えて5位であった[31]。 1986年の中日クラウンズでブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、須貝・泉川ピート・尾崎将・高橋と並んでの7位タイ[32] [33]に入ったのが最後の十傑入りとなり、1988年の全日空オープン[34]を最後にレギュラーツアーから引退。 1989年からは札幌ゴルフ倶楽部輪厚コース支配人に就任し、最初は会員権の営業も担当[35]。客が昼も夜も歓待してくれたが、井上は営業で気が抜けず、その緊張感の連続が大変であった[35]。後には楽しくゴルフがプレーできるようになり、「下手になったね」と冷やかされながらプレーした[35]。 主な優勝
脚注
外部リンク |