石井冨士夫
石井 冨士夫(いしい ふじお、1940年8月25日 - 2022年10月17日)は、静岡県伊東市出身[1]のプロゴルファー。 生涯名門・川奈ホテルゴルフコースを経て[2]、中学卒業後の1959年[3]に18歳でプロテストに合格[1]。 1961年に九州で戦後初めて開催された日本プロでは初日、生憎の雨でスタートが1時間遅れ、グリーンの所々に水溜りが出来るという悪コンディションの中、林由郎と共にパープレーの72で4位タイに着けた[4]。 1963年の報知プロ新人[5]、1965年の関東プロでは今井昌雪[6]、1966年には習志野ミリオンで海野憲二[7]を抑えて優勝。 1968年には西日本サーキット下関シリーズでは石井朝夫・細石憲二・中村寅吉と並んでの2位タイ、長崎国際シリーズでは能田・村上隆と並んでの3位タイ[8]に入った。第1回ロレックストーナメントでは河野光隆と共に村上の2位タイ[9]に入り、瀬戸内海サーキット岡山では杉原輝雄をプレーオフで下して優勝[10]。 1969年の日本オープンでは初日にドライバーが凄く当たり、池が張り出した難しい8番パー3で30cmに着けるなどショット全般が好調で、能田征二と1打差2位タイで並んだ[11]。 1970年の関東プロでは今井・三浦勝利・河野高明・佐々木勝を抑えて優勝[12]。第1回東海クラシックでは謝敏男と内田繁の優勝争いかと思われた最終日[13]、終盤にバーディを量産して[14]69をマークし[13]、謝敏とのプレーオフ[13]に持ち込んで、男子初代チャンピオンの栄冠に輝いた[14]。優勝賞金360万円と副賞のトヨタ・コロナMARKⅡハードトップGSSを手にし、女子優勝のサンドラ・パーマー(アメリカ)にウィナーズジャケットを着せかけた[14]。 当時にしては珍しく、衣料メーカーと契約を交わし、派手なウエアと明るい人柄で人気を集めた[1]。 1997年に日本プロゴルフ協会会長に就任し、1999年にツアー部門が独立する形で日本ゴルフツアー機構が設立された後、辞任[15]。 2022年10月17日午前7時48分、前立腺癌のため東京都中央区の病院で死去。享年82[15]。 主な優勝
表彰歴脚注
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