エイドリアン・バーンサイド
エイドリアン・マーク・バーンサイド(Adrian Mark Burnside , 1977年3月15日[1] - )は、オーストラリア連邦ノーザンテリトリー準州アリススプリングス出身の元プロ野球選手(投手)。 愛称は「バーニー」。 経歴プロ入りとマイナーリーグ時代1996年にマイナー契約でプロ入りして以降、マイナーリーグでのプレーを続けた。 2004年はデトロイト・タイガースのロースターに入りスプリングトレーニングに参加するが、メジャー昇格はならなかった。8月には、アテネオリンピックにおける野球競技のオーストラリア代表に選出された。 2005年は、トロント・ブルージェイズ傘下シラキュース・スカイチーフス(AAA級)でプレーした。オフの11月には横浜ベイスターズの入団テストを受けたが、不合格に終わった。 2006年開幕前の3月には、この年から開催されるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のオーストラリア代表に選出された[2]。 2007年はサンディエゴ・パドレス傘下3Aポートランドに所属し、26試合に登板した。 日本球界時代2007年オフの11月には、「日豪親善 野球日本代表最終強化試合」のオーストラリア代表に選出された[3]。ここでは、日本代表の強打者たちに対し2回を無安打5奪三振に抑える好投を見せた。 これを見た読売ジャイアンツが左の中継ぎ要員として獲得を決め、同年12月25日に入団が発表された。背番号は31。 2008年はオープン戦から先発・中継ぎ両方で起用され、まずまずの成績を収める。しかし、巨人は外国人枠がセス・グライシンガー、マーク・クルーン、アレックス・ラミレス、李承燁またはルイス・ゴンザレスで埋まるため、開幕一軍からは外れた。ところが、ゴンザレスのドーピング発覚による契約解除と李の打撃不振が重なり、5月26日に初めて一軍に昇格。同日の北海道日本ハムファイターズ戦で初登板初先発し、6回途中2失点で初勝利を挙げた。その後も、先発・中継ぎ双方で起用され活躍。シーズン後半は李の復調により出番が減ったものの、15試合で5勝3敗、防御率3.48と安定した成績を残し、再契約を勝ち取った。 2009年は、シーズン開幕前の第2回WBC代表を辞退。シーズンに専念して開幕を迎えたが、このシーズンはグライシンガー、クルーンに加え、ディッキー・ゴンザレス、ウィルフィン・オビスポの両外国人投手が戦力として台頭。投手に与えられた最大3つの外国人枠をこの4人が争う中、二軍(イースタン・リーグ)でも防御率4点台と結果を残せなかったバーンサイドは完全に競争からはじき出されて一軍登板なしに終わり、同年12月2日に戦力外通告を受けた。 韓国球界時代2009年12月29日、KBO・ネクセン・ヒーローズと契約。背番号は巨人時代の「31」から「29」に変わった。 2010年は年間を通して先発ローテーションを守り、チーム最多の10勝をあげたが防御率が5.34と高かったこともあり、この年限りで退団となった。 台湾球界時代2011年2月、CPBL・Lamigoモンキーズと契約を結んだ。 同年は10試合に先発し6勝3敗、防御率3.74の成績を残していたが、6月2日に解雇された[4]。 メキシコ球界時代2011年シーズン途中にメキシカンリーグのミナティトラン・オイラーズと契約を結んだが、同年限りで退団した。 プレースタイルスリー・クォーターからの速球やスライダーなどをクロスファイヤー気味に投げ、時おり投げるチェンジアップを持ち味とする。投球の際に声を出すことが多い。 先発・中継ぎを両方こなす万能投手であり、首脳陣も起用しやすい。 球速は140km/h前後とそれほど速くないが投球フォームが独特であり、左打者には打ちにくいという印象を与えることが多い。しかし、実際は右打者の方が抑えている。 シーズン中としては異例であるが、一軍投手コーチの香田勲男から指導されスローカーブを習得。2008年8月20日のヤクルト戦(神宮球場)では、スローカーブを駆使し7回無失点で、二塁を踏ませない好投を魅せ勝利投手となる。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
代表歴脚注
関連項目外部リンク
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