1974年の野球(1974ねんのやきゅう)では、1974年の野球界における動向をまとめる。
競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セ・リーグ
パ・リーグ
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
パシフィック・リーグプレーオフ
1974年 パシフィック・リーグプレーオフ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月5日(土) |
第1戦 |
ロッテオリオンズ |
3 - 2 |
阪急ブレーブス |
阪急西宮球場
|
10月6日(日) |
第2戦 |
ロッテオリオンズ |
8 - 3 |
阪急ブレーブス
|
10月7日(月) |
移動日
|
10月8日(火) |
第3戦 |
雨天中止 |
県営宮城球場
|
10月9日(水) |
阪急ブレーブス |
0 - 4 |
ロッテオリオンズ
|
年間優勝:ロッテオリオンズ
|
日本シリーズ
1974年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月16日(水) |
第1戦 |
ロッテオリオンズ |
4 - 5 |
中日ドラゴンズ |
中日球場
|
10月17日(木) |
第2戦 |
ロッテオリオンズ |
8 - 5 |
中日ドラゴンズ
|
10月18日(金) |
移動日
|
10月19日(土) |
第3戦 |
中日ドラゴンズ |
5 - 4 |
ロッテオリオンズ |
後楽園球場
|
10月20日(日) |
第4戦 |
中日ドラゴンズ |
3 - 6 |
ロッテオリオンズ
|
10月21日(月) |
第5戦 |
中日ドラゴンズ |
0 - 2 |
ロッテオリオンズ
|
10月22日(火) |
移動日
|
10月23日(水) |
第6戦 |
ロッテオリオンズ |
3 - 2 |
中日ドラゴンズ |
中日球場
|
優勝:ロッテオリオンズ(24年ぶり2回目)
|
個人タイトル
ベストナイン
オールスターゲーム
高校野球
大学野球
社会人野球
メジャーリーグ
できごと
1月
2月
- 2月8日 - 株式会社東京スタヂアムが午前10時より東京球場にて株主総会を開き、精算、決算の報告を承認し、解散となる[5]。
- 2月12日 - 日本野球規則委員会が東京・銀座のプロ野球コミッショナー事務局にて、救援投手に対するセーブ記録の採用などルールの一部改正を発表[6]。
- 2月18日 - セ・リーグは東京・銀座の連盟事務所にて理事会を開き、今年度から救援投手に「セーブ」が採用されるため最多セーブ投手を表彰することを決定[7]。
- 2月19日 - パ・リーグは東京・銀座の連盟事務所にて理事会を開き、今年度より最多セーブ投手を表彰する、ダブルヘッダーの第一試合で暴力行為を働いた選手・監督は第二試合に出場させないことなどを決定[8]。
3月
4月
5月
- 5月8日 - 後楽園球場での日本ハム対太平洋3回戦の試合で、7回表に太平洋のファンが日本ハムの三塁手の阪本敏三めがけてビール瓶を投げつけ阪本は頭を裂傷し、日本ハムナインとファンが小競り合いする騒ぎが起きる[22]。
- 5月10日 - 巨人の高田繁が中日球場での対中日5回戦で、セ・リーグタイ記録の1試合6打数6安打[23]。
- 5月16日 - 福岡市は太平洋に対し、同球団が作成した4月27日の試合でのドン・ビュフォードと金田正一が乱闘している写真がデザインされた17日からの対南海4連戦、21日からの対ロッテ3連戦の宣伝用のポスターの回収を要請、オーナーの中村長芳も球団代表の坂井保之に対して撤去を命じる[24]。
- 5月19日
- 阪急の高井保弘が後楽園球場での対日本ハム9回戦に9回1死一・二塁の場面で今津光男の代打で出場、三浦政基から4号3点本塁打を放ち、代打本塁打13本ののプロ野球タイ記録となる[25]。
- 阪急の森本潔が後楽園球場での対日本ハム9回戦の2回表に3号本塁打を放ち、プロ通算100号本塁打を達成[26]。
- 5月21日 - ロッテの山崎裕之が平和台球場での対太平洋7回戦に先発出場し、プロ通算1000試合出場を達成[27]。
- 5月23日 - ロッテの木樽正明が平和台球場での対太平洋前期8回戦に先発登板し、3失点の完投で6勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[28]。
- 5月26日 - 近鉄の佐々木宏一郎が大阪球場での対南海ダブルヘッダー第2試合の9回戦に先発し、プロ通算500試合登板を達成[29]。
- 5月30日 - 巨人の王貞治が甲子園球場での対阪神11回戦の三回表に15号3点本塁打を打ち、プロ野球史上初の通算600号本塁打を達成[30]。
- 5月31日 - 南海の広瀬叔功が大阪球場での対太平洋6回戦の一回裏に安打を放ち、プロ通算3000塁打を達成[31]。
6月
7月
- 7月4日 - パ・リーグの前期の公式戦が終了[41]。
- 7月5日
- 7月9日 - 川崎球場での大洋ホエールズ対巨人11回戦の二回表巨人の攻撃、先頭打者の河埜和正への初球を主審の平光清はファウルと判定、これに対し巨人の監督の川上哲治が死球だと平光に抗議し、平光は暴力行為があったとして川上に退場を命じる。巨人の監督が退場処分を受けたのは、1956年7月31日の甲子園球場で行われた対阪神16回戦で水原円裕監督が審判に暴力行為で退場処分を受けて以来[45] [46]。
- 7月15日 - 巨人の王貞治が後楽園球場での対阪神14回戦の八回裏に23号満塁本塁打を放ち、プロ野球新記録の通算13本目の満塁本塁打を記録[47]。
- 7月13日 - 太平洋は前サンディエゴ・パドレスのマティ・アルーの入団を正式発表[48]。
- 7月17日 - 日本ハムのテリー・レイが対日生球場での近鉄後期1回戦の一回裏に3つボークを取られ、1イニング3ボークのパ・リーグ新記録[49]。
- 7月21日 - プロ野球オールスターゲーム第1戦が後楽園球場において行われ、9回裏パ・リーグの攻撃中、一死一塁の場面でロッテの山崎裕之の代打に阪急の高井保弘が起用され、オールスターゲーム史上初となる代打逆転サヨナラ本塁打を記録。パ・リーグが3対2で勝利し、高井はこの試合のMVPを獲得[50][51]。
- 7月30日 - 巨人の王貞治が神宮球場での対ヤクルト17回戦の五回表に27号3点本塁打を放ち、プロ通算1500打点を記録[52]。
8月
- 8月4日 - 巨人の王貞治が甲子園球場での対阪神17回戦の六回表に安打を放ち、プロ通算2000安打を達成[53]。
- 8月6日 - 巨人の長島茂雄が中日球場での対中日14回戦の五回表に2点適時打を放ち、プロ通算1500打点を達成[54]。
- 8月13日 - 広島の山本一義が広島市民球場での対阪神戦19回戦に先発出場し、プロ通算1500試合出場を達成[55]。
- 8月16日 - 近鉄の土井正博が日生球場での対日本ハム後期6回戦の六回裏に24号本塁打を放ち、プロ通算300号本塁打を達成[56]。
- 8月18日 - 日本ハムの高橋直樹が日生球場での対近鉄の後期8回戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した[57]。この後、ルール改定が行われ、「勝ち投手になった場合、その人物にはセーブをあたえない」という規定が追加されたため、現在では達成不可能。
- 8月29日 - 日本ハムの張本勲が神宮球場での対太平洋後期8回戦に出場し、プロ通算2000試合出場を達成[58]。
9月
- 9月3日 - 中日の飯田幸夫が中日球場での対広島20回戦の九回裏無死満塁の場面で代打で起用され、3号サヨナラ満塁本塁打を放つ。代打サヨナラ満塁本塁打は史上6人目[59]。
- 9月22日 - ロッテの金田留広が静岡での対日本ハムダブルヘッダー第二試合の後期13回戦に先発して16勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[60]。
- 9月26日 - 南海対日本ハムの後期9回戦が後楽園球場で行われ延長11回4対4の引き分けに終わり、ロッテの後期優勝が決まる[61]。南海の佐野嘉幸が六回表に代打として出場し、プロ通算1000試合出場を達成[62]。
- 9月29日
- 日本ハムの高橋博士が後楽園球場での南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦で史上初の1試合全ポジションに付く[63][64]
- 日本ハムの森中通晴が後楽園球場での対南海ダブルヘッダー第二試合の後期13回戦に登板し、プロ通算500試合登板を達成[65]。
- 9月30日 - 南海の球団社長の新山滋がオーナーの川勝伝に対し、「心身の疲労と企業発展のための新陳代謝」を理由に辞任を申し出て了承される[66]。
10月
11月
12月
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
脚注
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野球の歴史 |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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