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この項目では、元皇族の清子内親王について説明しています。侯爵黒田長成の夫人については「島津清子」をご覧ください。 |
黒田 清子(くろだ さやこ、1969年〈昭和44年〉4月18日 - )は、日本の元皇族。上皇明仁、上皇后美智子の長女。伊勢神宮祭主(2017年〈平成29年〉6月19日 - )[1]で、東京都職員・黒田慶樹の妻。勲等は勲一等。
皇籍離脱前の身位は内親王で、皇室典範における敬称は殿下。旧名、清子内親王(さやこないしんのう)、諱は清子、御称号は紀宮(のりのみや)、お印は未草(ひつじぐさ)であった。第125代天皇明仁(上皇)と美智子(上皇后)の第1皇女子(2男1女のうち第3子)。第126代天皇徳仁及び秋篠宮文仁親王(皇嗣)の妹。学位は学士(国文学)(学習院大学・1992年〈平成4年〉)。
略歴
内親王時代
1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王と同妃美智子夫妻(当時)の第三子(2男1女のうち第1女子)宮内庁病院として誕生。体重2,250グラム、身長45.2センチメートルで未熟児だったが、健康状態は良好だった。夫妻にとって唯一の内親王(女子)であり、また「いずれは嫁ぎ皇籍から離れる身」という想定で教育された。特に1977年(昭和52年)から1987年(昭和62年)にかけて、毎年母娘2人で小旅行(皇室ゆかりの社寺・陵墓への訪問を含む)を行っていた。
1973年(昭和48年)、柿ノ木坂幼稚園に入園し、年少の1年間のみ通う。翌年からは学習院幼稚園に入園し、初等科から大学まで学習院に通学した。1989年(平成元年)に成人を迎え、祝賀行事も予定されていたが、祖父・昭和天皇崩御により、翌1990年(平成2年)3月に延期された。
1992年(平成4年)、学習院大学文学部国文学科(現・日本語日本文学科)卒業。山階鳥類研究所非常勤研究助手になり、労働対価による給与を得た史上初の内親王となった。公務のかたわら研究活動を継続し、1998年(平成10年)から2005年(平成17年)まで山階鳥類研究所非常勤研究員。赤坂御用地と皇居の鳥類の研究を手がけ、その成果を元に平凡社より出版された『日本動物大百科』のカワセミの項目の執筆を担当した。また、福祉活動の面では盲導犬関連の公務に積極的に携わっていた。
兄の親王2人が妃を迎えて、1994年(平成6年)頃には自身の結婚報道が過熱し、記者会見で「報道された男性に迷惑がかかるため自粛して欲しい」と自ら要請した。
2003年(平成15年)1月ごろ、次兄の秋篠宮文仁親王の友人で幼少時から面識のあった東京都職員(現・都市整備局担当部長)の黒田慶樹と再会。2004年(平成16年)1月に求婚を受け承諾。同年2月に両親である天皇明仁及び皇后美智子(いずれも当時)に紹介した。12月30日に婚約を発表。当初11月に予定された婚約内定は新潟県中越地震に配慮して一度延期され、さらに大叔母にあたる宣仁親王妃喜久子の薨去に伴って再延期された。
2005年(平成17年)3月19日、納采の儀。また、同年10月21日、警視庁府中運転免許試験場にて運転免許試験を受け、普通免許(AT車限定)を取得。10月28日に、内親王として最後の園遊会に出席した。
結婚、及び、皇室からの離脱 2005年(平成17年)
- 11月12日
- 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀が行われ、十二単姿で皇祖神に別れの挨拶。
- 宮殿・松の間にて朝見の儀が行われ、ローブ・デコルテに勲一等宝冠章・ティアラを佩用・着用した正装姿で、両親である天皇明仁及び皇后美智子(いずれも当時)にこれまでの感謝と別れの挨拶。
- 11月15日
- 10:00ごろ、御所・皇居を出立。
- 11:00、帝国ホテル蘭の間にて、両親の天皇・皇后、長兄夫妻の皇太子同妃(当時)らが出席のもと結婚式。
- 天照大神を祀った式場を設け、斎主は神宮大宮司北白川道久(旧皇族)が務めた。
- また、新郎新婦の親族の座席の配置は、皇族の方が身分が高いため通常とは左右が逆になった。
- 14:00、2人で結婚の会見を行う。
- 16:00、同ホテルにおいて結婚披露宴を天皇皇后・皇太子夫妻・秋篠宮文仁親王一家をはじめとする皇族および旧皇族らのほか、石原慎太郎東京都知事(当時)などが出席。石原都知事が乾杯の発声を務めた。なお、歴代の天皇が内親王の披露宴などに出席したのはこれが初めてである。
- 同日午前、新居がある区役所で区長に対する婚姻の届出が受理されたことにより、皇族の身分を離脱し皇統譜から一般国民として登録される戸籍に異動して、民間人「黒田清子(くろだ さやこ)」となった。
- 11月16日
結婚後
清子内親王は長らく内廷皇族として両親の天皇明仁及び皇后美智子の傍らにあって良き相談相手でもあり、特に母親の美智子上皇后は「内親王の存在を心の支えにしていた」との趣旨の言(内親王降嫁前の皇后記者会見)が伝わる。殊に平成期に入って以降は両親および2人の兄の良き支えであったといわれる。次兄・秋篠宮文仁親王も「頼りない自分たちを許してほしい」との趣旨の内親王への言葉を寄せている(書籍『秋篠宮さま』)。
2008年(平成20年)4月には、天皇・皇后の結婚記念日を黒田邸で祝った。また、2009年(平成21年)12月には、夫とともに天皇一家のこどもの国訪問に参加するなど、結婚以後も上皇・上皇后および今上天皇一家・秋篠宮家などと親密な交流がある。
2012年(平成24年)4月26日から2013年(平成25年)10月6日まで、伊勢神宮の臨時祭主を務めた[1]。伯母である池田厚子伊勢神宮祭主を補佐し、2013年(平成25年)10月に行われた第62回神宮式年遷宮などの神事に奉仕した[1]。
2017年(平成29年)6月19日付で、伯母の一人である池田厚子(昭和天皇第4皇女子)の後任として、明治以降で11人目となる伊勢神宮祭主に就任した[1]。2019年(平成31年)3月15日、勅使、伊勢神宮大宮司の小松揮世久らとともに「退位及びその期日奉告祭」を行った[2]。同年(令和元年)5月10日、同じく勅使、小松揮世久らとともに「即位礼期日奉告祭」を行った[3]。
2021年(令和3年)11月16日、宮内庁は黒田清子の姪にあたる今上天皇第一皇女子の愛子内親王が同年12月1日に成年となるにあたり、その4日後の12月5日に行われる成年行事で着用するティアラを新調せず、黒田清子のものを借用すると明らかにした[4]。新型コロナウイルス感染拡大の現下の状況に鑑み、行事に合わせて制作しなかったとした。黒田清子自身が喜んで借用に応じたと言う。愛子内親王のティアラをめぐっては今年度予算に制作費が計上されず、ティアラが用意されるかに注目が集まっていた。ただ、頭の形などはそれぞれ違うため、ティアラは、宮内庁が管理する公金ではない「お手元金」と呼ばれる費用で、今回新しく調整し準備をした[5]。
年譜
逸話など
- 皇室典範制定後、皇室の慣習によらない成人期まで一貫して両親の下で養育された皇女(内親王)である(昭和天皇の成人した4人の皇女のうち末子の島津貴子を除く、東久邇成子、鷹司和子及び池田厚子の3人は全員が学齢期以降は両親と別居して養育された)。
- 天皇の皇女(娘)としては皇室典範制定後初めて皇族・華族出身者ではない男性と結婚した(なお内親王で初めて皇族・華族出身者以外の男性と結婚したのは従叔母にあたる千容子)。
- 結婚前は内親王として国際親善、外国訪問、社会福祉、慈善事業など各分野で積極的に公務に従事し、宮内庁の信頼も厚かった。また、父が即位して天皇となり、2人の兄親王が独立した後は両親の側近くにあってよき相談役であった。特に父帝が前立腺癌を、母后が失声症を患ったときには、両親の側にあって心身ともに支えた。また、姪にあたる眞子内親王と佳子内親王の姉妹は「ねえね」と呼び、清子を慕っていたと言う。
- 結婚前に「理想の男性像は、長兄皇太子徳仁親王(当時)」と発言したことがある。
- 趣味の一つは学習院女子中等科から始めた日本舞踊で、国立劇場での発表会などに度々出演している。1994年(平成6年)には花柳流の名取試験に合格しているが、皇族の立場では芸名を名乗るのを控えていた。
- 言語能力の高さもよく知られるところであり、和歌の才能も高く評価されている。
- アニメなどのサブカルチャーにも関心があったとされ、結婚式で着用した白いドレスは「中学時代から憧れていたアニメーション映画『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインの衣装を模した」と報道された。また、その際に学友達が公開した直筆の絵は『ルパン三世 カリオストロの城』のラストシーンを描いたものであった。
- 動物好きであり、多数の鳩に囲まれて微笑む写真など動物とのスナップが伝わっている。特に犬を愛し、学生時代には盲導犬の育成にも関心を寄せた。祖父母である昭和天皇と香淳皇后や両親らと共に写った写真にも狆や紀州犬など、当時の愛犬を連れて写っている写真もある。
- 全国青年大会の開会式には、第45回(1996年・平成8年)から結婚前年の第53回(2004年・平成16年)まで毎年臨席し、各競技を見学することもあった。
- 意見発表を見学した際、質疑応答の時間に自ら挙手し、発表者に質問を行った。質問は、審査員の他、見学者も可能となってはいるものの、まさか内親王から質問されるとは誰も予想しておらず、発表者本人や周囲が大いに驚いたという。
- 開会式で、参加者全員でウェーブをする企画があった際、一緒にウェーブをした。
- 結婚することが明らかになったのは、最後に出席した第53回大会開会式の翌日だった。
- 南米のウルグアイ政府が2001年(平成13年)に発行した記念切手「日本とウルグアイとの修好80年」に肖像が登場[6]している。これはウルグアイに公式訪問予定であったためであるが、訪問は同年9月11日発生のアメリカ同時多発テロ事件の余波により2003年(平成15年)に延期された。
- 1961年(昭和36年)の夏、那須御用邸(栃木県那須郡那須町)にて、祖父の昭和天皇が日課としていた散策に母の皇太子妃美智子(当時)を伴ったときに、美智子が池のほとりで可憐な白い花を偶然見つけた。おしるしとなった未草は、皇太子妃美智子へその花の名前と由来を教えた昭和天皇の優しさに感銘を受け、「いずれ女の子が生まれたら未草をおしるしに」と密かに思った。[7]
- 1986年(昭和61年)3月に、宮内庁病院に母の皇太子妃美智子が入院した時、「病院に泊まり込んで看病したい」と申し出た。「却って病気に差し障るといけないから」という父の皇太子、祖父の昭和天皇の説得で断念したが、美智子が時間があったら読みたいと思っていた本を音読し毎日テープに録音して、美智子の大きな慰めとなったという。[7]
- 公用車は、トヨタ・プロナード。千葉県我孫子市の、山階鳥類研究所への通勤などで使用されていた。
外遊歴(平成以降)
系譜
著作
単著
編纂
- 紀宮清子内親王編『ジョン・グールド鳥類図譜総覧――Catalogue of the birds in John Gould's folio bird books』玉川大学出版部、2005年。ISBN 4472120003
寄稿
- 紀宮清子内親王ほか「赤坂御用地におけるカワセミの繁殖」『山階鳥類研究所研究報告』23巻1号、山階鳥類研究所、1991年3月。ISSN 0044-0183
- 西海功、柿澤亮三、紀宮清子内親王ほか「皇居の鳥類相(1996年4月 - 2000年3月)」『国立科学博物館専報』35巻、国立科学博物館、2000年12月25日。
- 紀宮清子内親王、鹿野谷幸栄、安藤達彦ほか「皇居と赤坂御用地におけるカワセミAlcedo atthisの繁殖状況」『山階鳥類研究所研究報告』34巻1号、山階鳥類研究所、2002年10月。ISSN 0044-0183
- 紀宮清子内親王、鹿野谷幸栄、安藤達彦ほか「赤坂御用地鳥類調査(1986年9月 - 2001年12月)」『山階鳥類学雑誌』36巻1号、山階鳥類研究所、2004年9月。ISSN 1348-5032
- 濱尾章二、紀宮清子内親王、鹿野谷幸栄ほか「赤坂御用地の鳥類相(2002年4月 - 2004年3月)」『国立科学博物館専報』39巻、国立科学博物館、2005年3月25日。
- 西海功、柿澤亮三、紀宮清子内親王ほか「皇居の鳥類相モニタリング調査(2000年 - 2005年)」『国立科学博物館専報』43巻、国立科学博物館、2006年3月27日。
脚注
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
黒田清子に関連するカテゴリがあります。
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明治天皇より下の世代で、内親王と公称した人物。第1世代は明治天皇の子の世代。 |
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