大中臣淵魚
大中臣 淵魚(おおなかとみ の ふちな)は、平安時代初期の貴族・神職。但馬守・大中臣継麻呂の三男。官位は従四位上・神祇伯。 経歴大同4年12月(810年1月)従五位下に叙爵。弘仁6年(815年)神祇大副に任ぜられる。のち、弘仁13年(822年)従五位上、弘仁14年(823年)正五位下、天長5年(827年)正五位上、天長7年(829年)従四位下・神祇伯と嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進した。 仁明朝の天長10年(833年)従四位上・摂津守に叙任。長らく神祇伯を務め、天長10年(833年)賀茂大神に奉幣し[1]、承和9年(842年)には伊勢・八幡の祟りによる日照りを鎮めるために祈祷を行っている[2]。また、弘仁6年(815年)から承和9年(842年)にかけて28年に亘って伊勢神宮祭主も務めた。承和10年(843年)上表して致仕し、官界を退いた。 嘉祥3年(850年)3月3日卒去。享年77。最終官位は散位従四位上。 人物慎み深い一方、きめ細かく行き届いた性格で、神事を良く理解し熟達していた。病のために自邸で伏せるようになると、人や物に交わることなく一人奥深く籠もって静かに過ごし、病人のための薬や食事を摂りつつ、死期を待っていたという[3]。 官歴注記のないものは『六国史』による。
系譜「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。 脚注参考文献 |