静岡茶静岡茶(しずおかちゃ)は、静岡県で生産されているお茶(緑茶)及び、そのブランド名である。牧之原台地とその周辺地域が最大の生産地であり、生産量は日本国内第1位であるが、年々第2位の鹿児島茶との差が縮まっている(2020年の統計では1,300トン差)[1][2]。産出額においては2019年に鹿児島茶に抜かれ、1970年から49年間続いた首位の座から陥落した[3][4]。 歴史鎌倉時代、円爾(聖一国師)が仏教修行のため渡った宋から茶樹の種を持ち帰り、駿河国足窪(現:静岡市葵区足久保)に植えたことが、静岡茶の始まりと伝えられる[5]。南北朝時代の中原家文書『師守記』は、貞治元年(1362年)に山名郡浅羽庄の柴重西、岡郷付近(現:袋井市)の茶が中原家に贈られたと記す。江戸時代に入ると慶長年間より、御用茶を駿河の足久保や大河内から江戸の将軍家へ届ける下命があった[6]。また東海道沿道では参勤交代の武士を始め多くの旅人が行き交い茶の消費や江戸への出荷も増えた。 大政奉還の翌慶応4年、徳川宗家の家督を徳川慶喜から相続した徳川家達が静岡藩70万石に移封され、6000人もの幕臣が駿府に移った。その中で慶喜の護衛にあたった精鋭隊(静岡転出後は新番組と呼ばれた)隊長の中條金之助、副隊長の大草太起次郎、松岡万ら約300名が明治2年、版籍奉還を受けて帰農を決意し、牧之原台地で茶園の開墾に乗り出した[7]。明治3年には彰義隊の残党数名も合流した[8]。また大井川の川越人足も明治3年の渡船許可によって職を失い、関係者の尽力によって100名ほどの者が牧之原への入植を許された[9]。その後農民らによる牧之原はじめ静岡県各地での茶園の開墾も増えていった。 水の便が悪い牧之原台地は稲作農民から放置されており、開墾は大正時代初めにかけて続いた。但し、水田ほど水を必要としない茶園も水の確保には苦労し、灌漑などの環境整備、品種改良や栽培・茶葉加工方法の工夫による品質向上の取り組みは太平洋戦争後まで続いた[10][11]。 近年は、山の斜面や肥沃な台地で多く栽培されているため、乗用の大型摘採機の導入などが難しく、跡継ぎ不足や高齢化が進む生産者にとって負担が大きいこと[12][13]、ペットボトル飲料の普及による急須で淹れる「リーフ茶」需要の低迷で、品質を売り物にしている静岡茶のニーズに合致しなくなったことを理由に年々生産量及び茶栽培面積の減少が続いている[2][14]。 表示基準社団法人静岡県茶業会議所と社団法人日本茶業中央会により、以下の厳格な表示基準が規定されている。基準を満たさないものは「静岡茶」と表示することができない。
生産量
静岡茶に属するブランド「静岡茶」として販売される以外に、一部ではさらに産地を限定した地域ブランドが存在する。
普及活動見学・体験・販売施設[19]
条例制定静岡県は2016年12月21日の県議会定例会で「小中学校の児童生徒の静岡茶の愛飲の促進に関する条例」を可決した(同年12月27日施行)[20]。 このほか静岡市や藤枝市には静岡茶の地産地消を推進するための条例が制定されている[20]。 学校給食静岡市、島田市、掛川市、菊川市などの小中学校では静岡茶を学校給食に採用している[20]。 出典・脚注
関連項目外部リンク |
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