長谷川路可
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 生涯<暁星学校〜東京美術学校時代>
<パリ・ヨーロッパ遊学時代>
<鵠沼時代>
<目白時代>
<チヴィタヴェッキア時代> →以後の制作過程については「日本聖殉教者教会」を参照
<壁画集団「F・M」の時代>
長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。 日本画家として路可の父・杉村清吉は、東京・芝で糸組物を生業とし、洋風のカーテン地とともに、内閣府賞勲局の大給恒の下で勲章の布の部分である綬(じゅ)の製造販売に当たっていた。明確に美術に関心を持ち作品が残っているのは中学校時代からで、カトリック入信時の洗礼名が画家の守護聖人ルカ。この時代の作品は水彩、油絵が中心だが、暁星中学校卒業後、渡邊華石に師事し、南画を習得している。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学し、大和絵の松岡映丘に師事してからは、大和絵(国画)に専心する。卒業制作が《流さるる教徒》であることからも分かるように、路可はこのとき既に、日本画でキリスト教世界を描くという自らのスタイルを確立させている。 東京美術学校卒業直後には、一転して若き日の憧れを抱いて、大戦間のパリに遊学する。西洋絵画を学んですぐに頭角を現すことになるが、西域壁画を模写する仕事で日本画の源流といったものを肌で感じ、アール・デコ博覧会で美術の新しい潮流に触れたことを経て、自らの「青の時代」に終止符を打つように1926年に制作した《南仏海岸風景》は水墨画で、この作品はサロン・ドートンヌ展に入選している。南仏の海辺を訪れたとき故郷の湘南の海を思い出したのだろうか、異国の海岸の風景といったものを、これまでの日本画家の誰も題材にしたことはおそらくなかったろう。日本人の洋画家の多くが西洋の近代的な絵画に追従しようとしていたときに、路可は西洋の古典的なフレスコ画を学び、そして、まるで自分自身を新たに発見するように描いたのが《南仏海岸風景》で、この作品にある洋の東西を超えていく想像力は、路可の日本画の大きな特徴になっていく。 1927年、パリから帰国後は、師・松岡映丘らが結成していた「新興大和絵会」と行動を共にしたが、しばらくは主にフレスコ画を出品していた。1935年、「帝展」の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成すると、長谷川路可も結成メンバーの一員となった。1937年「国画院同人第一回展」に路可は《トレドに於ける映丘先生像》(日本画)を出品する。ただ、翌年の映丘の死去により活動が休止したこともあり、「新興大和絵会」の東京美術学校時代の仲間だった遠藤教三・狩野光雅と「三人展」(後に「翔鳥会」と改称)を組織したが、戦況の悪化もあって6年ほどで活動は終了した。 路可は自らを表現するという近代的な芸術家であるとともに、絵を描くことで風景を写し取り、絵を描くことで人に敬意を表し、絵を描くことで人を楽しませることのできた稀有な画家だった。1925年(大正14年)、ブリュッセルの日本大使館で行われた朝香宮鳩彦王のベルギー王室への答礼の晩餐会で、エリザベート王妃の「藤の花を」というご希望をその場で席画して、ものの数分間で描き上げてご覧にいれたという逸話が残っている。 日本画でキリスト教世界を描くというのは、東京美術学校時代から一貫したテーマであったが、中でも1949年に「第十回カトリック美術協会展」に出品し、翌年バチカンが主催し、ローマののサンピエトロで行われた「宣教美術展」に多くの日本人画家とともに出品した二双一曲の屏風絵《受胎告知》(現・教皇庁立ウルバニアーナ大学所蔵)は、左隻に百合の花を捧げる少女のような大天使ガブリエル、右隻に青いガウンを着て書見台の前で腕を交差させてお告げを受け入れる聖母マリアというルネサンス期の巨匠が描いたスタイルを踏襲しながら、日本画らしいシンプルな表現で見事にキリスト教世界を描き出している。 路可の代表作であるチヴィタヴェッキア「日本聖殉教者教会」の天井画《聖母子像》もまた、フレスコ画ではあるものの、その線は日本画そのものである。室町時代の盛装をした聖母マリアと、お稚児さんのような身なりをしたイエス・キリスト。若い頃から修練した日本画の技術と、カトリック信者としての信仰、さらにはおそらく長崎の潜伏キリシタンが信仰したとされる「マリア観音」への共感もあって、この和装の《聖母子像》を作り上げたのに違いない。チヴィタヴェッキアの祭壇画《日本二十六聖人殉教図》にしても、長崎の「日本二十六聖人記念館」の《長崎への道》にしても、フレスコ画でありながら、その表現は日本画のスタイルを踏襲している。路可の日本画家としてのキャリアは、日本画の枠を越えて、フレスコ画の大作へと結実していった。 壁画の模写19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国の探検家・東洋学者たちが中央アジア・西域の遺跡を調査し、壁画をはじめ多くの遺物を持ち帰ったことがある。日本画の源泉とでもいうべき貴重な壁画の重要性を感じていた日本の美術史研究家、東京帝國大学の松本亦太郎教授、京都帝國大学の沢村専太郎助教授らは、これらの西域壁画を模写できないものかと考えていた。そこで白羽の矢が立ったのがパリ遊学中の長谷川路可である。その経緯については諸説がある。 路可の話によれば、1924年ブリュッセルで開かれた国際学術会議に松本教授が参加した際、路可が大使館から依頼されて通訳を務めたときにその仕事ぶりが信頼され、松本教授から模写を依頼されたという。路可は留学中の身だからと固辞したが、西域の壁画こそ日本画の源泉という指摘が路可を決断させた。また、路可がルーブル美術館でドラクロワの『タンジールの舞女』を模写をしていたところに東京美術学校教授の結城素明が現れて路可に西域壁画の模写を打診し、折から来仏していた沢村専太郎助教授を紹介したという話も伝わっている。沢村助教授は、路可の模写期間中、作業に付き添って交渉その他のマネージメントを引き受けた。 一般の画家が練習用に模写するのと違い、考古学的な資料として模写するのであるから、「重ね描き」といって直に作品に和紙を重ね、ときにめくって確かめながら写し取るという方法で正確に模写が行われた。足掛け3年、折衝期間などを除いた正味約1年8ヶ月の歳月をかけて、70数点に及ぶ模写が行われた。これらの模写作品は、現在東京国立博物館、東京大学、京都大学、東京芸術大学に分割所蔵されており、特に東京国立博物館では東洋館で定期的に架け替えながら常設展示されている。 路可が模写を行った場所は次の施設である。
ベルリンのフェルケルクンデ博物館の収蔵品の多くが、第二次大戦の戦禍のために失われ、戦後に移管されたインド美術館を経てアジア美術館に継承されたものを除き、路可の模写のみが原寸大・彩色史料としては、世界唯一となったものが少なくない。 もう一つのケースは、路可がチヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会の壁画の制作を進めていたときに、ブリヂストンの創業者石橋正二郎の依頼によるものである。自分の使いたい絵の具のためには自らが負担しても構わないという路可の仕事ぶりに感銘した石橋は、バチカン美術館所蔵のポンペイ壁画やルネサンス期の名画のいくつかを模写することを条件に、多額の寄付を申し出た。これらの模写作品は、石橋美術館・ブリヂストン美術館に分けて収蔵され、ブリヂストン美術館の4作品は、館内のティールーム「ジョルジェット」に常掲されていた。 カトリック画家として少年・長谷川龍三は1914年、17歳の暁星中学5年の夏休みに北海道北斗市のトラピスト修道院で一夏を過ごした。午前4時に起床し、午後9時の祈りが終わると就寝するという生活。労働修道士にまじって牧草を刈ったり、厨房の仕事や掃除など献身的な生活を続けながら、中沢神父様からカトリックの教えを授かり、同宿した詩人の三木露風からは芸術の尊厳について話を聞かされていたという。そうした体験を経て、その年のクリスマスを前に暁星学校でハンベルクロード神父から受洗し、洗礼名は画家の守護聖人であるルカだった。 東京美術学校日本画科に入学すると、3年生のとき《南蛮寺》を制作、翌年第2回帝展に《エロニモ次郎祐信》を出品し、路可はカトリック画家としての歩みを始める。また、美校在学中、露風には《聖ドミニコ像》(日本画)を白陵号でを贈っている。卒業制作は細川ガラシアを描いた《流さるる教徒》で、この作品から路可という雅号を名乗るようになる。現在、上記《南蛮寺》と共に東京藝術大学大学美術館に収蔵されている。 東京美術学校卒業後からまもなく、23歳で路可は欧州航路でフランスへと渡る。これは憧れのパリに行って、念願だった西洋絵画の技法を学ぶつもりで旅立ったのだろう。渡仏した1921年の冬、暁星中学校の先輩岩下壮一から、在欧中の戸塚文郷、小倉信太郎と共に呼び寄せられ、ロンドンで「ボンサマリタン」という修道会を設立する動きと行動を共にしたことがある。早朝からのミサ、労働、夕方の長いお祈りとともに日本への布教を考える毎日だったが、ラテン語の習得に悩む路可に対して、戸塚から「君は君の芸術をもって神様の光栄のために働きたまえ、フラ・アンジェリコのように。」と諭され、岩下からも「君は芸術家として立派に布教できるのだから、神父の職を得て布教につくすより、むしろ専門にカトリック美術を勉強し、芸術をもって生涯を送った方がよい。立体派、キュービズムに影響されずにイタリアの正統画風を学ぶべきだ。」と忠告され、パリへ帰り、芸術活動に専念することになる。 パリに戻った路可は洋画の作品を次々と発表し、サロン・ナショナルやサロン・ドートンヌに入選するほどに頭角を現すが、西域壁画の模写の仕事と「アール・デコ」という新しい美術の潮流に接したことで壁画への興味が生まれ、また岩下の「イタリアの正統画風学ぶべき」という言葉に従うかのように、フレスコ画をフォンテーヌブローの「フレスコ研究所」でポール・アルベール・ボードワンについて修得する[2]。 路可の帰国した1927年は、小田急小田原線の開通した年でもある。小田急電鉄創設者利光鶴松が、長女(伊東)静江の意を受けて東京府下狛江に私的聖堂(後にカトリック喜多見教会となる。)を建設した際、その壁画制作を路可が依頼された。会堂は1928年7月に竣工し、内陣および側壁に長谷川路可による日本最初のフレスコ壁画《聖母子・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル》と《天地創造》が壁面を飾った。この壁画のうち内陣の《聖母子ほか》の壁画だけが、1978年、聖堂の移転改築の際に路可の弟子の宮内淳吉の手によりストラッポされ、喜多見駅前の新しいカトリック喜多見教会小聖堂に10年後に復元された。壁画完成後、路可は大和絵画家らしく『喜多見教会縁起絵巻』という長尺の絵巻物も制作し、1929年の第9回《新興大和絵会展》に出品している。このことがきっかけで、1929年、小田急江ノ島線開通に際して南林間駅前に伊東静江が開いたミッション・スクール大和学園高等女学校の図画担当講師に招聘された。2013年7月、カトリック喜多見教会の閉鎖に際し、《聖母子ほか》と《喜多見教会縁起絵巻》は学校法人大和学園聖セシリア(大和市)に寄贈され、現在同学園が所蔵している。 1928年に黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎とともに理事として「カトリック美術協会」を結成。1932年の第1回「カトリック美術協会展」より、渡伊前年の第10回展までほぼ連続して日本画を出品し、中心的な役割を果たした。鵠沼時代の路可は、鎌倉の天主公教会大町教会(現・カトリック由比ガ浜教会)に在籍し、片瀬の山本家の仮聖堂でのミサにも出席した記録がある。1937年、この地にカトリック片瀬教会が建設されることになった。聖堂の建物は純日本風の建築様式にすることになった。一見寺社風の聖堂が1939年の「聖ヨゼフの祝日(3月19日)」に献堂された。この時点で路可は既に目白へ移っていたが、聖壇両脇の床の間を飾る《エジプト避行》、《ルルドの聖母》(これは1946年路可筆の《聖家族》に架け替えられた)の掛け軸と、礼拝室両側に《十字架の道行き》の14面の色紙、さらに司教館玄関に飾られている扇面《宣教師》を描いている。この他、各地の教会のために描いた日本画の作品としては、名古屋市カトリック南山教会の《信徒》(1940年)、鹿児島カテドラル・ザビエル教会にザビエル渡来400年記念絵画として描いた《臨終の聖フランシスコ・ザビエル》、《少女ベルナデッタに御出現のルルドのマリア》、《聖ザビエル日本布教図》(1949年)が知られている。 カトリック画家、長谷川路可の生涯最大の仕事はイタリア チヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会聖堂の内部装飾である。1950年、聖年に際してバチカンを訪れた路可は、同年の8月、既に金山政英駐バチカン代理公使の紹介で、松風誠人を介して、日本聖殉教者教会の壁画制作を依頼されており、翌年の年頭から下絵の制作に取りかかった。夏には現地入りし、フレスコ壁画制作に着手する。清貧を重んじる修道院の中の生活である。「朝は未明の鐘とともに起き、スパゲッティの繰り返される貧しい食卓に長い祈りの後のイタリア語の談話に耐え、心おきなく語り合う友人もないただ一人の日本人として、この長い期間を身にしみて異郷にある思いをした。(朝日新聞昭和32年9月15日)」こうした環境の中で、足場組みなどは現地の職人に手伝わせたが、祭壇画、天井画の制作は独力で進められた。 こうして祭壇画《日本二十六聖人殉教図》と天井画《聖母子像》《アッシジの聖フランチェスカ像》《聖フランシスコ・ザビエル像》《聖フェルミナ像》《支倉常長像》などが出来上がったところで、1954年10月10日、コスタンティーニ枢機卿を迎えて、路可が後に「生涯最良の日」と記した壁画完成の祝別式が挙行された。そこに列席したのはイタリア側はチヴィタヴェッキア・タルクイニア教区長ジュリオ・ビアンコーニ司教、フランチェスコ・ダンジェリ修道院長、ジアチント・アウリッチ元駐日大使、宗教に否定的だったイタリア共産党のチヴィタヴェッキア市長レナート・プッチ、在外外交官など日本側からは原田健駐イタリア大使夫妻、井上孝治郎駐ヴァチカン公使夫妻、パリ美術家連盟の関口隆志画伯などが参列し、また、高松宮様からはご紋付きの祭壇掛けが贈呈された。さらには日伊合作オペラ映画「蝶々夫人」に出演するためにローマに滞在していた女優の八千草薫、東郷晴子、歌手の田中路子ほか、宝塚歌劇団の女優15名が着物姿で参列し花を添えたという。その席で路可はフランシスコ会から「ビアン・フェザンス」(傑出した後援者)という称号を受け、またチヴィタヴェッキア市からは名誉市民に推挙された。 コスタンティーニ枢機卿はその祝辞の中で、殉教者たちの信仰を表す表現の深さ、少年を含む殉教者の示した一途な信仰や日本人の神秘性を称賛し、「祭壇の周囲に描かれたこの壁画が、感動すべき日本信徒の殉教をわれらに知らせたばかりではなく、画家がイタリアで学んだ技術を立派な形でわれらに示したことに注目しなければならない。」と述べ、東西の文化交流が結実し、日本画の技法とフレスコ壁画が巧みに融合したこの壁画の美術上の卓越さを指摘すると、参列した一堂に深い感銘を与えた。その後路可は、ウルバニアーナ大学(ローマ)の神学部礼拝堂に聖フランシスコ・ザビエルの生涯を描いたフレスコ壁画の連作《イグナチオ・ロヨラとのパリ時代》《リスボンでの乗船》《インドでの説教》《日本での僧侶への洗礼》《中国・上中島での臨終》を制作し、帰国したのは1957年8月だった。 カトリック画家、長谷川路可の生涯最後の仕事は、長崎市の西山刑場跡に建てられた日本二十六聖人記念館における制作である。1966年に壁画《聖ザビエル像》を制作したところで心臓病で東京女子医大病院へ入院、翌年、フレスコ壁画《長崎への道》を制作、これが大作としては遺作となった。 路可はその生涯の中で、さまざまな絵画(日本画)をバチカンに献上し、《切支丹曼荼羅》(1927年)《ゲッセマネ》(1934年)《切支丹絵巻》三巻(1951年)《暁のマリア》(1967年)は現在バチカン宣教民族美術館に所蔵されている。1927年、長崎司教区のヤヌアリオ早坂久之助師の、日本人として初の司教への叙階を表慶した≪切支丹曼荼羅≫は、「日本のカトリック信徒よりローマ法王ピオ11世に贈る」として描かれたもので、大和絵風の画面に和装の聖母子が天女のように降臨し、帆船に乗って日本にたどり着いた宣教師や、南蛮寺で信徒になった人々、迫害されるキリシタンといった日本の「切支丹」の歴史を一枚の絵に描きこんだもので、路可のその後のスタイルを確立したメルクマークとなる代表作である。おそらく大和絵という和の感覚と、キリスト教世界が融和することを確信した作品だったろう。最後に献上した≪暁のマリア≫も、天女のようなマリアが雲に乗ってイエスを抱きながら降臨する作品だった。路可の示した、布教した国々にはそれぞれの国の聖母子像があるという考えは、「宣教美術」を後押しするバチカンの枢機卿や大司教の目指した美術のあり方であり、その後、イスラエル・ナザレの受胎告知教会で各国の聖母子像を展示するという企画へとつながっていく。なお、日本からは1968年、路可の下絵を基に「F・M」会員が≪華の聖母子≫という作品を作り献上している。また、バチカンの「宣教民族博物館」では、路可の作品がしばしば展示されている。 フレスコ、モザイク壁画のパイオニア長谷川路可は日本におけるフレスコ、モザイク壁画のパイオニアとして活躍した画家である。フランス遊学でポール・ボードワンから伝統的な手法を学んだあと、日本聖殉教者教会の壁画を制作しながらローマ美術アカデミーのフェルッキオ・フェラッツィにアドヴァイスを受け、また現地の美術家ニコラ・アロッチらとも親しく交流しながら、フレスコ技術の習得に努めていった。 初めての渡欧から帰国後間もない1928年、旧カトリック喜多見教会の前身に当たる伊東家聖堂に日本初のフレスコ壁画を制作した。以来、路可の制作した壁画・床絵・天井画などの次の作品が記録に残っている。
これらの壁画作品は、動かせず展覧会などに出品することができない上、作家自身の自由意志だけでは制作できない。また建造物の一部であるから、建築主および建築家との連携、信頼関係が必要となる。今井兼次、村野藤吾といった建築家と親交を持っていた路可は、極めて恵まれていた。 イタリアから帰国する1957年までの壁画作品を、路可はほとんど独力で制作したようだ。帰国した時、路可は60歳を迎えていた。壁画を制作するには、数メートルの櫓を組み、立ったままの制作となり、天井画ともなればさらに無理な姿勢を強いられ、体力的にも相当大変な作業に違いない。1958年、武蔵野美術学校本科芸能デザイン科講師となった路可は、服装史を担当しながら、1960年、油絵科などの学生にも呼びかけて壁画集団「F・M」を結成した。「F・M」とはフレスコ、モザイクを意味する。以後の壁画制作のほとんどは「F・M」の学生を指導しながらの共同制作となった。フレスコの場合は自ら筆をとることが多かったようだが、モザイクの場合は「ローマンスタイル」というイタリア中世からルネサンスにかけてのシステムを踏襲し、路可が下絵を描き、「F・M」のメンバーが下図の拡大、材料調達、材料作り(石割り)、現場制作のほとんどを担当した。現在、フレスコ、モザイクの分野で活躍する画家の多くがここから育っていった。 戦前の日大芸術科でフレスコを教えていたときから、学生達と「日本フレスコ画協会展」を開くなど、フレスコ画による展覧会の試みも継続され、ブリヂストン美術館での個展(1958年)、文芸春秋画廊での「F・M展」(1960年〜)などでは、路可はフレスコ画の可能性を広げていくような斬新な試みを展開した。日本の神話を題材にした≪山幸彦のものがたり≫三部作、日本の古代をモチーフにした≪考古的幻想≫≪いかるがの春≫、ラスコーの壁画からイメージした≪孤洞≫、同時代の洋画を意識したような≪イタリアの印象≫≪ファッションモデル≫、さらにはプロレタリアアートを意識したような≪斧を持つ男≫なども制作されている。これらの作業は、フレスコ画を同時代のアートとして普及させていきたいという路可の思いが、作品として現れてきたものだろう。 フレスコ画やモザイク画は、本来、建築と同様の耐久性を期待して開発された技法である。ところが、建築に対する西洋と日本の意識の違いもあるのか、既に遺失してしまった路可の作品が相当数に上る。戦災は致し方ないにしても、建物解体によるものがかなり多い。路可がイタリア時代に新技法として学び、日本に伝えた「ストラッポ」というフレスコ画面の剥ぎ取り補修技術によって保管されている作品もあるが、絹や紙の作品より多くが既に失われているのが現実である。路可の代表作である、イタリア・チヴィタヴェッキア市の「日本聖殉教者教会」内部の壁画も、雨漏りなどの要因で天井の壁に亀裂が入るなど修復の必要性があることが、崇城大学の有田巧教授や、東京文化財研究所の前川佳文の調査によって指摘されている。なお、路可の代表作である旧国立競技場メインスタンドの《勝利》と《栄光》は、分割して壁ごと切り出されたあと、日本スポーツ振興センターの倉庫に保管されていたが、現在、新しくできた国立競技場の東ゲート(青山門)に設置されている。 服飾史教育者路可はフランス遊学時代、エコール・デュ・ルーヴルの西洋服装史専科でも研修している。アールデコ博で建築や装飾、家具や服飾といったものまでもアートの領域になるという新しいアートの潮流を間近に感じたことからきたことだったのだろう。ファッションの中心地、パリで本格的な西洋服装史を学んだ日本人は当時希有な存在だった。鵠沼から目白に居を移すのと相前後して財団法人並木学園が開設した文化服装学院から招聘を受けた。これには壁画模写を依頼した松本亦太郎教授の口利きがあったともいわれている。以後、文化服装学院とは終生関係の深い存在だった。1950年、財団法人並木学園が文化女子短期大学を開設した際、初代学長に徳川義親候が就任したことも、路可の存在なしには考えられない。チヴィタヴェッキアでの制作期間、当然、休職にはなったが、路可の勤務先、文化服装学院の対応は寛大だった。イタリアはファッションの先進国である。想定を超える長期欠勤となった路可を学院の発行する『装苑』、『すみれ』の特派記者という扱いで、定期的に記事を送稿することを条件に、留守宅に給料を届けたのである。1971年、フランスから当時のファッションの中心人物だったピエール・カルダンが来日したときには、文化学園で通訳も含めて同行した。 長谷川路可の教職歴
エピソード長谷川路可が出会ったビッグネーム拝謁したカトリック教皇日本のカトリック平信徒で4人の教皇に拝謁した人物は稀であろう。
鵠沼での出会い路可の実家ともいえる旅館東屋は「文士宿」の異名を持つ。
フランス留学時代の出会い
後援者
イタリア時代に交流した人々彫刻家
映画人黒澤明の『羅生門』が1951年のヴェネツィア国際映画祭で「金獅子賞」を受賞し、その試写会がローマで開かれた時、名監督ヴィツトリオ・デ・シーカと隣席になり、話を交わしたことをきっかけにイタリア映画人との交流が深まった。
チヴィタヴェッキアでの制作見学者長谷川の制作期間中、作業場の足許には下絵が置かれていた。この作業を見学に訪れた人々は、下絵の余白に感想や激励の言葉や署名を残すのが慣例になっていた。すなわち、下絵が芳名録になっていた。漢字で書かれた日本人の名だけでも200名を越す。当時は1950年代であり、1ドルが360円で、外貨持ち出しが厳しく制限されていたことから、ローマを訪れる日本人は限られていた。 代表作
著作
脚注*1 「長谷川路可画文集」(1989求龍堂)などで、この前回の第一回院展(1913)において路可の≪浜辺にて≫が入選したという記事があるが、「大正期美術展覧会出品目録」中央公論美術出版(2002)を見ても、この回の出品リストに≪浜辺にて≫という作品はない。 *2 昭和4年1月1日付の「THE CATHOLOC TIMES」という新聞に「カトリック美術家の団体生まる」という記事で、「上智大学のホイベルス師のもとに一つの協会を作り、黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎、長谷川龍三の六氏が理事となって、日本におけるカトリック的芸術資料の萬集、各自の研究発表、作品展覧、会報発行、講演、作品の交換等による国際的交通等を計画し、毎月一回茶話会をし、その中に事業を進めていきたい。」として「カトリック美術協会」の発足が伝えられている[3]。 *3 路可はチヴィタヴェッキアの「聖殉教者教会」の壁画を描くに至った経緯については、崇城大学美術学部美術学科教授の論文「長谷川路可・チヴィタヴェッキア・1951年~1957年」(崇城大学芸術学部研究紀要第2号)に詳しい。教会のスカルペリーニ神父が当時のバチカン公使の金山政英氏に「どなたか日本人の画家を紹介してくれないか」と相談し、金山氏が路可に打診し、路可は快諾する書簡を送っている。ただ1950年当時、日本はGHQの支配下にあり、出国するにはGHQの許可が必要で、路可は「宣教美術展への作家招待状」をコスタンティーニ枢機卿から受け、「美術家の会議に出席する」という目的で3ヶ月限定のパスポートを手にしてイタリアへ渡る。文化女子短期大学教授という身分のまま、アトリエは知人のダンス教室に使ってもらうという形で留守宅の生活も考えての渡欧だったようだ[4]。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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