旅館東屋旅館東屋(りょかんあずまや)は、1897年(明治30年)頃から1939年(昭和14年)まで神奈川県鵠沼海岸にあった旅館である。多くの文人に愛され、「文士宿」の異名で知られる。名称は「東家」、「あづまや」とも表記される。 歴史草創期地曳き網の漁場があるのみの無人地帯だった鵠沼海岸でビーチリゾートへの開発が始まったのは、東海道線の開通を翌年に控えた1886年(明治19年)、鵠沼海岸海水浴場が開設され、海水浴客受け入れのため旅館「鵠沼 館」が開業したことに始まる。「武州川越の人」といわれる[1]伊東将行が同旅館に職を得る。この伊東将行が日本初の大型別荘分譲地「鵠沼海岸別荘地」の開発を手がけ、旅館東屋を開くのである。1892年(明治25年)当初は貸別荘風のものだったが、1897年(明治30年)、旅館として新築し、初代女将に東京神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭だった長谷川榮(ゑい)をスカウトしてきた。榮は才色兼備で、吉熊時代から人気者だった。吉熊は在京の文人たちが愛用した料亭で、ことに尾崎紅葉主宰の硯友社が常用していた。その一人広津柳浪が開業早々の東屋に滞在し、そこに榮が働いているのを見て、在京の文人たちに知れたという。これが、「文士宿」となるきっかけであった。1898年(明治31年)8月20日の『風俗画報』には、壮大な東屋のイラストが掲載されている。 東屋は、神奈川県高座郡鵠沼村6642番地、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目8番一帯の、約2万平方メートルの広大な敷地に、舟の浮かぶ大きな庭池を持つリゾート旅館だった。魚料理が知られ、仲居が美人揃いだと評判だったという。本館は木造二階建てで客室は14、卓球室が付随していた。次第に増築した別館部分の客室は10で、庭には亭(ちん)と呼んだ離れが5棟あったというのが震災前の姿である。1906年(明治39年)には隣接して鵠沼海浜医院が開業し、その翌年には鵠沼郵便局が東屋構内に開設されたというから、鵠沼海岸のセンター的役割も果たしていた。保養地の旅館として、海水浴客や避暑、避寒の客を受け入れるばかりでなく、当時「国民病」とも呼ばれた肺結核をはじめとする転地療養の目的でも利用された。藤沢に隣接する湘南の諸都市、鎌倉、茅ヶ崎、平塚には結核療養所が次々に開業したが、藤沢には地元の反対も根強く、結核療養所はなかった。東屋はその代わりにも使われたのである。1900年(明治33年)から翌年にかけて長期逗留した斎藤緑雨はその代表例である。大正時代には大杉栄や北村初雄が知られ、北村は東屋で没した。 1902年(明治35年)9月1日、江之島電気鉄道が営業運転を開始すると、伊東将行は、鵠沼海岸別荘地開発の仕事が多忙になり、東屋の経営権は長谷川榮に委ねられた。長谷川家には成人した兄弟が6人、うち5人が女性で、男性は長谷川繁蔵だけだった。繁蔵は長男・長谷川欽一が誕生して間もなく病床に伏し、欽一は2歳で鵠沼の伯母・榮のもとで育てられる。 大正文化と東屋繁蔵は欽一が3歳に時に病没し、長谷川家の家督は長谷川欽一が引き継ぐこととなる。すなわち、東屋の経営権は長谷川欽一にあると長谷川家は解釈し、伊東家側と意見の対立が生じたが、1920年(大正9年)には和解した模様である。幼い欽一の後見人には、榮の末妹・長谷川寿々と結婚した後藤栄が当たった。1906年(明治39年)、伊東将行は、埼玉県吹上出身の医師・福田良平を招聘したが、彼は後に榮の妹・長谷川蝶と結婚した。1907年(明治40年)、榮の姉・杉村たかが協議離婚の末長谷川姓に戻って、長男・龍三(後の画家・長谷川路可)と共に本籍を鵠沼村に移す。たかは鵠沼に移住して妹を助けることになるが、龍三は暁星学校の寄宿舎で生活し、鵠沼には長期休業の時に帰省する程度だった。またこの年、志賀直哉と武者小路実篤が東屋に滞在して『白樺』発刊を相談し、これがやがて白樺派を生みだしたことは特記すべきだろう。 1916年(大正5年)1月、東屋の初代女将・長谷川榮は、腸閉塞のため鎌倉の病院で急死する。その跡を嗣いで、しっかり者の姉・長谷川たかが二代目女将となる。たかの手で東屋はさらに発展し、藤沢町を代表する湘南随一の名旅館となっていった。鵠沼海岸別荘地開発も軌道に乗った1920年(大正9年)7月29日、伊東将行が脳溢血で死去する。享年75だった。同年9月12日、伊東将行の功績を顕彰する鵠沼海岸別荘地開発記念碑が鵠沼 賀来神社境内に建設される。 たかの一人息子・龍三は東京美術学校に進み、日本画を修得する。1921年(大正10年) 、日本画家長谷川路可として美術学校を卒業後、直ちにフランスに留学した。従弟の長谷川欽一も1922年(大正11年) 、路可を頼ってフランスへ遊学する。ソルボンヌで学び、音楽評論家を目指す予定だったという。ところが、1923年(大正12年)9月1日に起こった大正関東地震(震源:相模湾東部)で東屋は倒壊。庭池には津波の浸水もあった。欽一は東屋復興のため志半ばでフランス遊学から呼び戻される。 震災後1924年(大正13年)、再建して営業を始めた東屋は、次のような規模であった。本館の客室数は10、2棟の離れは計7室と部屋数は減ったが、それぞれ次の間つきで独立性の高いものになった。別に大広間が設けられ、大宴会も可能になった。また、ビリヤード場も設けられ、後にはダンスホールも建てられた。庭園は庭池の面積を縮小し、当時としては数少ない硬球のテニスコートが2面、敷地の一角に造られた。後には、人力車時代から自動車時代への転換に応じて、車寄せをつけたり湘南遊歩道路側に石畳舗装をした「海浜口」という門を設けたりした。この石畳は現在も残っている。 年号が大正から昭和に替わる1926年(大正15年)1月、芥川龍之介の妻文子の弟・塚本八洲が療養のため鵠沼に移住。この転地が、芥川の鵠沼滞在の契機となった。2月から5月、芥川龍之介が妻と三男也寸志をともなって初めて東屋に滞在、『追憶』を発表し始める。7月20日には東屋の北方にあった貸別荘「イ-4号」を借りて移住し、夏休みに入った長男・比呂志、次男・多加志も呼び寄せて住む。この「イ-4号」というのは、伊東家が東屋の周辺に建てた十数戸の貸別荘の一つで、「イ」は伊東家を表すというが、一般には「東屋の貸別荘」と認識されている。この年に東屋に宿泊した文人は10人以上が判明しており、ほとんどが芥川龍之介との面会を目的にしている。 昭和に入ると、東屋に滞在する文人は極端に減少する。1936年(昭和11年)、川端康成が滞在して少女小説『花のワルツ』を執筆した記録と、武者小路実篤が1935年、1938年、1939年、1940年(廃業後)東屋に滞在して執筆した記録が目立つが、もはや「文士宿」としての東屋の役割は終わったと見て良いだろう。1929年(昭和4年)4月1日、小田原急行鉄道江ノ島線が開通し、鵠沼海岸駅が開設されて「直通」の停車駅となり、アクセスは抜群に向上した。しかしこのことは、ビーチリゾートの滞在型旅館としての性格を失わせる結果となり、むしろ藤沢町の賓館として、接待や宴会場として使われたようである。海岸では神奈川県主導による観光地開発が進められ、魚附砂防林の植栽(1928年(昭和3年))、恒久建物の鉄道省海の家開設[2](1931年(昭和6年))、西洋風の「鵠沼ホテル」開業[3](1933年(昭和8年))、湘南遊歩道路(後の国道134号)開通(1935年(昭和10年))、県立鵠沼プール開場[4](1937年(昭和12年))などが相次ぎ、多くの海水浴客でつかの間の賑わいを見せる。しかし一方では世界恐慌から日中戦争へと軍国主義の暗い影が忍び寄る時代でもあった。 東屋の終焉1927年(昭和2年)、フランス留学より帰国した画家長谷川路可は、東屋の西方にアトリエを構え、近所の若者のために画塾を開いた。小田急が開通すると、大和学園高等女学校(現・聖セシリア女子高校)に職を得て、南林間まで通勤し、美術を担当する。路可の鵠沼生活は10年ほどで、1937年(昭和12年)鵠沼より東京目白へ転出し、病弱となった母・長谷川たかを呼び寄せる。1938年(昭和13年)9月7日、東屋二代目女将・長谷川たかは、目白で死去した。墓所は鵠沼海岸の本眞寺である。 それから1年、1939年(昭和14年)9月11日、長谷川欽一は東屋を廃業する。翌日の『東京日々新聞』は、「突如廃業の声明」「鵠沼名物”文士宿”」と東屋の廃業をかなり大きく報道した。 ここに湘南随一とうたわれた名旅館「東屋」は、半世紀近い歴史を閉じたのである。 その後廃業後も旅館東屋の建物は戦後まで残っていたが、1957年以降切り売りされ、今は見る影もない。ここに大旅館があったなどとは考えにくい状況である。 1950年(昭和25年)、伊東将行の孫で将行の養子となった伊東将治が、旅館東屋跡から西方、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭「東家」を開く。この料亭東家は、1995年(平成7年)12月31日に廃業するが、ごく最近まであったので、旅館東屋と混同されることが多い。藤沢市史をはじめいくつかの文学史研究書にも誤りが見られる。 1997年(平成9年)11月25日、朝日新聞記者の高三啓輔が『鵠沼・東屋旅館物語』という優れた書籍を刊行した。同書は第12回大衆文学研究賞を受賞している。 1998年(平成10年)夏、小説家・佐江衆一(財団法人「神奈川文学振興会』理事)は、藤沢市へ「東屋」記念碑の設置を提唱した。2001年(平成13年)3月22日、それは実現し、「東屋記念碑」設置記念式典(鵠沼公民館)が開かれ、除幕式が執り行われた。 現在、旅館東屋を偲ぶものとして、次のものがかろうじて見られる。
投宿した主な文人東屋には宿帳をはじめ重要な記録類は一切遺っていない。以下の人々については、小山文雄の文人の日記や書簡を永年にわたって調査した結果が『個性きらめく』、『続個性きらめく』、『神奈川近代文学年表〈明治編〉』、『神奈川近代文学年表〈大正・昭和前期編〉』に掲載されているものを基本に整理したものである。
脚注参考文献
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