山本実彦
山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月5日 - 1952年〈昭和27年〉7月1日)は、日本のジャーナリスト。改造社社長。雅号は亀城。 経歴鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身[1]。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校[2]を自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。 1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業[注 1]。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年(大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。この間、1912年(明治45年)に東京市会議員に選出された[3]。 1919年(大正8年)には改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌となる。また1927年(昭和2年)、世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった『現代日本文学全集』全63巻を刊行し、それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった。1930年(昭和5年)、立憲民政党から衆議院選挙に当選し、戦後は中道主義を掲げた協同民主党を結成し委員長に就任。三木武夫を入党させるなどしたが、公職追放となる[4]。1951年(昭和26年)追放解除[5]。翌1952年(昭和27年)7月死去。墓所は青山霊園(1イ8-3)。総合雑誌『改造』は山本亡きあと、3年で労働争議の末、廃刊となる。 アルベルト・アインシュタインやバートランド・ラッセルの来日招聘にも尽力し、日本の科学界や思想界にも貢献した。 著書
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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