土屋文明土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月18日〈戸籍上は1月21日〉 - 1990年〈平成2年〉12月8日[1])は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東大哲学科卒。伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌「アララギ」の編集に参加。社会化された民衆の生活の内面を表そうとする歌風で、歌集に『往還集』(1930年)、『山谷集』(1935年)など。著述に『万葉集私注』(1949~56年)などがある。 経歴群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれる。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった[2]。父の保太郎は農家の傍ら生糸や繭の仲買で生計を立てていたが、村に居づらく、村を出入りして商売をしていた。3歳から伯母・のぶの嫁ぎ先の福島家で育ち、幼少期にのぶの夫・福島周次郎から俳句を教わった。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。更に左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現・東京大学)に進学。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)に文学部哲学科(心理学専攻)卒業。 戦前1917年(大正6年)に『アララギ』選者。長野県の諏訪高等女学校・松本高等女学校で教頭・校長を務める傍ら作歌活動を続け、法政大学予科教授の1925年に第一歌集『ふゆくさ』を出版。1930年(昭和5年)には斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。信州を去って上京する頃からの歌を収めた歌集『往還集』を発表し、歌人としての地位を確立する。自然主義文学の影響によるともいわれる、露悪的と見えるほど友人や肉親を突き放した冷静な視点の歌い方は、この歌集以降に歌壇に一般的になった[3]。万葉集の研究に打ち込み始めるのもこの頃からである。さらに、都市社会のめざましい変貌を破調も怖れずに即物的なリアリズムで描いた『山谷集』、太平洋戦争へと向かう日本社会の動きを描いた『六月風』・『少安集』などの歌集で内容を深める。 戦中・戦後第二次世界大戦中は日本文学報国会短歌部会幹事長。1944年(昭和19年)7月から約5か月中国大陸を視察。これを基にした歌集『韮菁集』を出版。終戦間近の1945年(昭和20年)5月、東京・青山の自宅が空襲により焼失。このため群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)川戸に疎開、終戦をはさんで6年半同地で生活。この間にも多数の作品を制作し、『山下水』・『自流泉』といった歌集に収められている。疎開先からもしばしば上京して『アララギ』の復刊につとめ、文明選歌欄にて優れた指導力を発揮した。文明門下には近藤芳美、高安国世、吉田漱、渡辺直己、吉田正俊、岡井隆らがいる。 戦後は1952年(昭和27年)に明治大学文学部教授。東京都港区青山南町に終の棲家を定める。1953年(昭和28年)に日本芸術院賞受賞[4]、日本芸術院会員・宮中歌会の選者(1963年には召人)になり、1984年(昭和59年)に文化功労者、1985年(昭和60年)に『青南後集』で第8回現代短歌大賞受賞、1986年(昭和61年)に文化勲章を受章。また同年に東京都名誉都民・群馬県名誉県民となる。 長い間歌壇の最長老として活動し、晩年まで創作活動を続けた。1990年(平成2年)に肺炎のため東京都渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院で死去。100歳没[1]。戒名は孤峯寂明信士[5]。没後、従三位に叙された。墓所はときがわ町慈光寺。 国文学者としての文明『万葉集』の研究でも知られ、代表作に『万葉集年表』・『万葉集私注』・『万葉集名歌評釈』などの著作がある。 代表歌
著書
翻訳
文学碑
脚注関連著作物
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