畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2月12日 - 2012年(平成24年)5月24日)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教育者、合唱指揮者、音楽評論家、作曲家、詩人、翻訳家(訳詞家)、エッセイスト。日本芸術院会員。日本の洋楽の発展に多大な功績を残した。
経歴
福岡県門司市(現:北九州市門司区)に浅野セメントに勤める父・勝次郎と、琴および三絃の師匠をしていた母・筆の長男として生まれる[3][4]。四人家族で、二つ上の姉がいる[4]。旧制門司中学校に入学、ラッパ鼓隊に所属し小太鼓を担当する。進学先として受験科目に苦手の数学が無い東京音楽学校を選び、人前で歌ったことはなかったが消去法で「声楽科」と書いたという[4]。1940年(昭和15年)門司中学校を卒業。澤崎定之に師事し、一浪した後の1941年(昭和16年)東京音楽学校本科声楽部に入学。宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。その妻がユダヤ人であることが判明したヴーハープフェニッヒが解任された後は木下保に師事。また、橋本國彦のクラスで作曲と対位法を学んだ。1943年(昭和18年)9月、東京音楽学校を戦中時のため繰り上げ卒業[3]。同年召集され姫路の陸軍中部54部隊に配属される。1945年(昭和20年)陸軍一等兵として上海で終戦を迎える。上海抑留を経験した後の1946年(昭和21年)4月に復員し、復帰したヴーハープフェニッヒに再び師事して東京音楽学校研究科修了[3]。
1947年(昭和22年)毎日ホールにて「第一回畑中良輔独唱会」[注釈 1]でリサイタルデビュー。リリック・バリトンとして、その音楽的解釈力の深さと卓越した演技力で、デビュー当時より高い評価を受ける[6]。1948年(昭和23年)藤原歌劇団公演モーツァルト『ドン・ファン(ドン・ジョヴァンニ)』日本初演のマゼット役でオペラデビュー。以来オペラでは主にモーツァルト歌手として活躍し、『魔笛』『フィガロの結婚』などの数多くの日本初演に出演する。中でも『魔笛』のパパゲーノは100回以上演じている[3]。ヒュッシュ、タリアヴィーニ、タッシナーリ[7]と共演するなど、オペラ上演史に輝かしい足跡を残した。また、歌曲ではドイツ歌曲と日本歌曲に造詣が深く、特に日本歌曲では全国縦断連続リサイタルを行い、その普及に多大な貢献をした[6]。
音楽教育にも力を注いだ結果、弟子の多くが優れた声楽家となって日本はもとよりヨーロッパでも第一線の歌手として活躍している[8]。ことばを礎にした歌唱の大切さを唱え、ドイツと日本の歌曲を中心に体系的な指導を続けた。公開講座・セミナーも多数開催している[3]。監修・解説を手掛けた数々の教則本は声楽を学ぶ者の必読書となっている。また、『日本名歌低声用50曲集』(カワイ出版)『イタリア歌曲集』(全音楽譜出版社)などの多数の歌曲集の編纂、監修にも携わった。小中学校の音楽教科書・教師用指導書も執筆している。
- 1948年(昭和23年)東京音楽学校 講師
- 1949年(昭和24年)東京藝術大学 講師
- 1958年(昭和33年)東京藝術大学 助教授
- 1969年(昭和44年)- 1983年(昭和58年)東京藝術大学 教授
- 1964年(昭和39年)- 1975年(昭和50年)国立音楽大学 講師
- 1983年(昭和58年)東京芸術大学 名誉教授
- 2006年(平成18年)- 2012年(平成24年)東邦音楽大学 客員教授
1952年(昭和27年)二期会の結成と同時に参加、創立メンバーとなる。1956年(昭和31年)「青の会(畑中門下生の会)」主宰。1969年(昭和44年)東京室内歌劇場を設立。1971年(昭和46年)日本演奏連盟理事。1972年(昭和47年)日本音楽コンクール委員[3]。
二期会においては、1954年(昭和29年)にジャン・カルロ・メノッティ『アマールと夜の訪問者』の訳詞を妻の畑中更予と手掛け[9]、1956年(昭和31年)にリヒャルト・シュトラウス『薔薇の騎士』日本初演における訳詞を内垣啓一と手掛ける[10]など、草創期から翻訳家(訳詞家)としても活動し、新たな作品を日本に紹介し定着させる意欲的な取り組みを行った。
音楽評論は、歌手活動よりも早く1942年(昭和17年)に始めており[7]、舞台芸術全般への広範な教養にあふれた名文で知られ、『レコード芸術』(音楽之友社)声楽評を1952年(昭和27年)から2012年(平成24年)まで60年の長きにわたり執筆。朝日新聞の音楽評も1965年(昭和40年)から2009年(平成21年)まで担当した[3]。その他にも寄稿が多数あり、国立国会図書館デジタルコレクション[11]だけでも約800件[注釈 2]の寄稿が存在する。
合唱の分野では、戦後に第二次東京交声楽団を結成し代表を務め、1952年(平成27年)には福永陽一郎とともに東京コラリアーズを設立している。また、1960年(昭和35年)慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の専任指揮者に就任し、2012年(平成24年)までの52年間にわたって指導している。同合唱団で畑中の薫陶を受けた団員は約1000名に上る。福永陽一郎が逝去した後、1999年(平成11年)から藤沢男声合唱団の指揮者を引き継ぐ。また、2006年(平成8年)に逝去した北村協一の後を受けて、2008年(平成10年)まで神戸市混声合唱団の指揮者も務めている。その他、客演指揮多数[3]。
作曲家としては、10代で作曲を開始しており、東京音楽学校在学中には作曲と対位法を橋本國彦のクラスで受講。復員後、作曲家と演奏家の提携活動「新声会」に第2回から参加[5]。1977年(昭和52年)に全音楽譜出版社から『畑中良輔歌曲集』が出版されている[3]。
詩作にも手を染め、詩集『超える影に』を出版している。畑中の詩は歌曲のテキストとして幾人かの作曲家に用いられており、中田喜直『四季の歌』、三善晃『超える影に』、大中恩『四つの諷刺的な歌』が生まれている[3]。
他にも奏楽堂日本歌曲コンクール、五島記念文化財団、三菱UFJ信託芸術文化財団の審査員・選考委員[3]、全日本合唱教育研究会会長、文部省の教育課程審議会委員等を歴任している[8]。
2012年(平成24年)5月24日、間質性肺炎のため死去[13]。90歳没。
受賞歴
主な門下生
藍川由美、池田美保、岩崎由紀子、大川隆子、大島洋子、岡崎裕美、片岡啓子、亀山勝子、邱玉蘭、久保田美江、黒川和子、小泉惠子、小濱妙美、小林滋子、酒井美津子、瀬山詠子、曽我栄子、太刀川悦代、玉川美栄、茶谷宏子、戸山志津江、長井純子、中山早智恵、濱田千枝子、細谷美直、松本美和子、山城道子、山本哲子、吉武由子、和座知佐、荒道子、大藤裕子、鬼頭礼子、小見佳子、桐生郁子、小山由美、志村年子、莊智世惠、長野羊奈子、中山牧子、永富啓子、小貫岩夫、笠井幹夫、河瀬柳史、近藤安个、篠崎寿、太刀川昭、辻裕久、堤温、永田峰雄、中村健、服部洋一、平尾啓、藤井宏樹、吉川貴洋、宇佐美桂一、大久保光哉、小川雄二、翁長剛、小栗純一、長内勲、折江忠道、鎌田直純、北川潤、木村文男、城間繁、末吉利行、谷口伸、築地文夫、築地利三郎、土野研治、綱川立彦、中村義春、西義一、林剛一、樋本英一、平野忠彦、堀内康雄、柳沢安雄、小原伸一、佐藤正浩、堀野浩史、若杉弘、山田茂 (指揮者) ほか多数
エピソード
- 畑中が学生合唱の指揮に出現した後、舌鋒鋭い福永陽一郎をして「このごろは、コンクールに出るのが、必ずしも最上級ということではなくなって、そのかわり、慶應のワグネル・ソサィエティーの男声合唱団の演奏が、非常に高いレベルに達していることを、多くの人たちが認めて、男声合唱の標準が変わってきた[15]」と言わしめた。
- 主宰した声楽グループ「青の会」の名前は、いつまでも青二才、との自戒をこめたものである[16]。
- 犬を思わせる人懐こさと、納得いかないことにはすぐかみつく性分から、「ブル」「ブル先生」という生涯のニックネームが生まれた[17]。
- あくなき探求心・好奇心と、驚異的な記憶力を持ち、クラシック音楽にとどまらず、古今東西の文学・美術全般、伝統芸能からポップカルチャーに至るまで「あらゆるジャンルの教養を携えた、芸術への道先案内人[17]」であった。ビートルズもローリング・ストーンズも来日公演のチケットを自分で買い求めた。
- 漫画『のだめカンタービレ』にも「音楽をやる人たちの空気がよく描けてる」とご満悦[17]だったという。
- 自他ともに認めるグルメであり「芸術の前にはまず美味しいモノよ」。どんなに疲れても、公演後は人を食事に誘った。慶應ワグネルの団員でも、ご相伴に与った者や、店を紹介された者が多い。逝去の前日にも弟子に囲まれ、好物のビシソワーズを飲み干してご機嫌だったという[17]。
- 90歳の逝去直前まで非常に多忙であり、早く寝る日でも午前3時[16]までは仕事の時間と決めていた。2012年(平成24年)2月に開催された卒寿記念パーティーにおける本人の弁によると、睡眠は3~5時間という毎日であった。
- 朝起きて最初にすることは、特別に用意した有機野菜によるグリーン・ジュースをミキサーで作成して飲むことであった。この健康法を畑中に紹介したのはバリトン歌手の小森輝彦である。この生活の模様は2007年に小学館の『サライ』誌「我が家の朝食」コーナーでも取り上げられた。
- 慶應ワグネルの指導は大変厳しく、団員たちは個人レッスンと同様の緊張感で練習に臨んだ。実際に畑中の耳は、100名の合唱であっても団員各個人の声を明確に聴き分けられる能力があり、指名されて一人だけ歌わされたり、容赦なく「そこのボヤスケ!」と怒声を浴びせられることもあった。
- スキーを非常に好み、新国立劇場の芸術監督になるまで、三浦洋一、若杉弘・長野羊奈子夫妻、伊藤京子、中村浩子、岡部多喜子、観世栄夫、慶應ワグネルの団員を誘い、毎冬志賀高原へスキーに出かけていた。腕前はかなりのもので、畑中のスピードについていくのは並大抵ではなかったという。九州出身でスキーに縁のなかった畑中に「スキーは人生を変えるよ」と言って誘ったのは三浦である。三浦は畑中の腕前について「ふだん二本脚で歩けるのがフシギなくらい下手だよ」と平野忠彦に述べていたというが、回数を重ねて上達したようである。
- 自宅には数万枚(カウント不能)のレコード・CDがあり、専用の収蔵部屋・収納棚があったが、そこにも入りきらないレコード・CDがうず高く積まれていた。
主な著書
書籍
楽譜
作曲
編著・監修
初出が早いものも多数存在[22]するが、改訂版が存在するものは新しいもののみを記した。
主なディスコグラフィー
指揮
歌唱
- Auf Flügeln des Gesanges/歌の翼に (ビクターエンタテインメント) VICC-60138
- 信時潔作品集 (ビクターエンタテインメント) KCDK-1206 - 歌曲集『沙羅』ほかを担当。
- 日本の声楽・コンポーザーシリーズ5 大中恩・小林秀雄 (ビクターエンタテインメント) VICC-60045 - 大中恩『五つの抒情歌』を演奏。
主な作曲作品
発表作品のみを記した。畑中によると「歌曲は約50曲、教材や童謡、校歌など約50曲、合唱曲が20曲、ピアノ曲が30曲、編曲多数といったところがぼくの全作品である[5]」という。
ピアノ曲
- ピアノのための前奏曲集 全6曲(1947年12月11日「新声会第6回試演会」で演奏)[5]
- 9つの前奏曲 変ニ長調の作品のみ花岡千春が校訂、初出版[21]
歌曲
- 『秘帖』より「天の夕顔」による四つの歌 中河與一:歌
- 八木重吉による五つの歌
- 低声のための三つの抒情歌 (採花 松田祐宏: 詩、海兵独唱 室生犀星: 詩、花林 (まるめろ) 杉浦伊作: 詩)
- 西條八十の詩による二つの歌
- 『古代感愛集』より二つの歌 釋迢空:詩
- 二つの歌 (小さな家 秋谷豊: 詩、逝にしひとに-片岡鉄兵先生の霊に捧ぐ- 猪野多毛師: 詩)
- 歌曲連集『和泉式部抄』
- 中河幹子による四つの歌
童謡
脚注
注釈
- ^ ピアノ伴奏:中田喜直[5]
- ^ 1946年(昭和21年)- 2000年(平成12年)。畑中の著書[12]にある戦時中の寄稿は収蔵されていない。また、2001年以降の寄稿や、新聞の音楽評は含んでいない。
- ^ 初代
出典
参考文献
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |