志村年子
志村 年子(しむら としこ、1942年1月1日[1] - )は、日本の声楽家(メゾソプラノ)、オペラ歌手。 経歴東京都出身[1]。桐朋学園大学音楽学部卒業。畑中良輔、畑中更予、佐々木成子[2]に師事。 フランクフルト州立音楽大学に留学。ゲルトルーデ・ピッツィンガー、オットー・ブラウン[2]に師事。ドイツの国家試験(コンサートエグザメン)に合格し、「最優秀賞」を得て卒業[2]。ドイツ各地で演奏活動を行う。 オペラデビューは1971年(昭和46年)11月7日、11日の二期会 オッフェンバック『ホフマン物語』アントニアの母の声である[3]。その後、ワーグナー『ワルキューレ』『さまよえるオランダ人』モーツァルト『魔笛』フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』ヴェルディ『ファルスタッフ』ワーグナー『ジークフリート』など、次々とオペラに出演する。出演したプロダクションの数は、昭和音楽大学オペラ情報センターの記録だけで41を数える[4]。他にも1995年(平成7年)に藤沢市民オペラでのニコライ『ウィンザーの陽気な女房たち』ライヒ夫人[5]、日本人の現代曲でも1996年(平成8年)に水戸芸術館ACM劇場(初演)および東京室内歌劇場で原嘉壽子『さんせう太夫』瞽の老婆[6][7]、1999年(平成11年)に新国立劇場で原嘉壽子『罪と罰』母を演じる[8]など、レパートリーは幅広い。元・二期会会員[9]。 1977年(昭和52年)にはNHK委嘱のラジオ合唱劇 三木稔『タロウ』母ちゃんを演じている[10]。 1989年(平成元年)には團伊玖磨オペラ『ちゃんちき』の渡欧公演に参加し、ブダペスト、ドレスデンなど東欧4か国で演唱した。 コンサートでも、指揮:小澤征爾・新日本フィルハーモニー交響楽団とベートーヴェン『第九』で共演[2]。名古屋ヘンデル協会で『メサイア』を1976年(昭和51年)に指揮:三石精一・名古屋フィルハーモニー交響楽団、1977年(昭和52年)に指揮:森正・名古屋フィルハーモニー交響楽団、1979年(昭和54年)に指揮:三石精一・名古屋フィルハーモニー交響楽団のソリスト[11]。エルンスト・ヘフリガーとの共演によるバッハ『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』[2]。新星日本交響楽団とは1976年(昭和51年)に『第九』(指揮:山田一雄)1978年(昭和53年)に『第九』(指揮:ハンス・レーヴライン)1980年(昭和55年)にドヴォルザーク『スターバト・マーテル』(指揮:星出豊)同年にモーツァルト『戴冠式ミサ』(指揮:佐藤功太郎)『第九』(指揮:ハンス・レーヴライン)[12]と共演。1977年(昭和52年)にも『第九』指揮:ルカーチ・エルヴィン、日本フィルハーモニー合唱団、日本フィルハーモニー交響楽団に出演。東京コール・フリーデ演奏会『第九』では、1978年(昭和53年)に日比谷公会堂で指揮:渡辺暁雄・日本フィルハーモニー交響楽団、1995年(平成7年)に東京文化会館で指揮:三石精一・新交響楽団、1996年(平成8年)に東京文化会館で指揮:三石精一・新交響楽団と共演を重ねている[13]。1980年(昭和55年)は埼玉第九で指揮:渡辺暁雄・日本フィルハーモニー交響楽団と共演[14]。1982年(昭和57年)には浜松市民会館で浜松フロイデ合唱団の『第九』(指揮:アントニン・キューネル / 新星日本交響楽団)[15]。北日本新聞社と富山県合唱連盟による『第九』に出演[16]。1986年(昭和61年)、1987年(昭和62年)、1988年(昭和63年)、1989年(平成元年)には品川区民管弦楽団の『第九』に連続して出演[17]。1992年(平成4年)には高岡市民音楽祭でのロッシーニ『スターバト・マーテル』[18]でソロを務めている。他にも共演多数。 リサイタルにおいては、1970年(昭和45年)に西ドイツから一時帰国しデビューリサイタルを開く[2]。1978年(昭和53年)に第112回毎日ゾリステンで「志村年子メゾソプラノ独唱会」を開催[19]。1988年(昭和63年)に東京音楽大学助教授[20]である夫の志村安英と行った「志村年子が歌うブラームス」、1990年(平成2年)の「2人のマーラー」、1992年(平成4年)の「ちょっとアカデミックに珠玉の歌曲をどうぞ」、2000年(平成12年)には「水戸芸術館開館10周年記念事業シリーズ『日本の歌・この100年』1-3歌曲の流れ-そして現代へ-」[21]への参加などに取り組んでいる。 後進の育成も手掛けており、門下生に渡辺理恵[22]、山口万里子[23]、山﨑淑子[24]、中島麻紀子[25]などがいる。1997年(平成9年)には「第2回梅の里音楽祭&『日本の歌』スプリングセミナー '97」(群馬県榛名町(現:高崎市))[26]の講師も担当している。 受賞歴
ディスコグラフィー
脚注
関連項目 |