チヴィタヴェッキア (伊 : Civitavecchia )は、イタリア共和国 ラツィオ州 ローマ県 にある都市であり、人口約52,000人の基礎自治体 (コムーネ )。ティレニア海 に面し、「ローマ の外港 」と称される重要な港湾都市である。
名称
都市の名は「古代の街」を意味する。
地理
位置・広がり
ローマ県最北西部に位置しており、北にヴィテルボ県 のタルクイーニア と隣接する。ヴィテルボ から南東へ約45km、州都・首都ローマ から西北西に約61kmの距離にある[ 4] 。港を中心とした半円状の市域を持つ。
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。VTはヴィテルボ県所属。
地勢
市域東部には、モンティ・デッラ・トルファ (it:Monti della Tolfa ) から連なるモンテ・クッコ(Monte Cucco)が標高200mを越える丘陵を形成している。マランゴーネ川 (it:Marangone ) が市域の南東、サンタ・マリネッラ との境界を流れている。
気候分類・地震分類
チヴィタヴェッキアにおけるイタリアの気候分類 (it ) および度日は、zona C, 1085 GGである[ 5] 。
また、イタリアの地震リスク階級 (it ) では、zona 3B (sismicità bassa) に分類される[ 6] 。
歴史
古代
現在のチヴィタヴェッキアの街は、古代にエトルリア人 が暮らしていた場所に立っている。
この町にある港は、2世紀 の初めにトラヤヌス帝 によって整備された。小プリニウス は、107年に記した書簡に Centum Cellae と記している。この名の起源ははっきりしないが、皇帝のヴィラ (離宮)にあった100(Centum )の部屋と関連付けて説明される。
中世・近世
その後、東ローマ帝国 の支配下の拠点とったが、838年にはイスラム教徒(サラセン人 )に占領された。その後、教皇領 (教皇国家)の一部となった。インノケンティウス12世 時代の1696年 に自由港となった。
近代・現代
近代に入るとローマの外港として発達した。
1848年革命 がイタリアに波及してローマ共和国 が建国された際(イタリア統一運動 参照)、介入したフランス によって1849年 にチヴィタヴェッキアは占領されている。1859年 にはチヴィタヴェッキアとローマを結んで、イタリア最初の鉄道路線とされるローマ=チヴィタヴェッキア線 (現在のピサ=リヴォルノ=ローマ線 の一部)が建設されている。1870年 、この町の教皇軍はイタリア王国 の将軍ニーノ・ビクシオ (Nino Bixio ) に町を明け渡した。
第二次世界大戦 中には、チヴィタヴェッキアはしばしば爆撃を受け、市民の中から犠牲が出た。
日本との関わり
チヴィタヴェッキアは日本との関わりが深い。1615年 には、慶長遣欧使節団 の支倉常長 らがチヴィタヴェッキアに上陸した。この縁で支倉常長が出発した地である宮城県 石巻市 と姉妹都市 協定を結んでおり[ 7] [ 8] 、支倉の銅像 が建立されている。
また、日本二十六聖人 を記念した日本聖殉教者教会 がある。1864年に、支倉とゆかりのあるチヴィタヴェッキアで献堂されたものである[ 7] 。1950年代の再建時に内装を担当した宗教画家長谷川路可 は、チヴィタヴェッキアの名誉市民になっている。また、東日本大震災 の際には、この縁からチヴィタヴェッキアとフェラーリ の両者が被災した石巻市に義援金を送っている。
経済・産業
チヴィタヴェッキア港は、中部イタリアと地中海の各地を結ぶ交通の結節点となっている。
また、漁業も盛んである。このほか、チヴィタヴェッキアには2つの火力発電所がある。このうちのひとつの燃料を石炭に転換しようとする計画があるが、大気汚染を懸念する市民の反対を受けている。
人口
人口推移
人口推移 年 人口 ±% 1871 9,718 — 1881 11,636 +19.7% 1901 15,220 +30.8% 1911 17,064 +12.1% 1921 20,635 +20.9% 1931 29,124 +41.1% 1936 27,477 −5.7% 1951 32,870 +19.6% 1961 38,138 +16.0% 1971 44,188 +15.9% 1981 49,389 +11.8% 1991 51,201 +3.7% 2001 50,032 −2.3% 2011 51,229 +2.4% 2021 51,880 +1.3%
文化・観光
海から見たチヴィタヴェッキア
文化遺産
ミケランジェロ要塞
聖フランシスコ教会
テルメ・タウリーネの浴場の遺跡
ミケランジェロ要塞 (it:Forte Michelangelo )
港湾防衛のための要塞で、当初は教皇ユリウス2世 によってドナト・ブラマンテ に建設が委ねられ、1535年、パウルス3世 のもとでアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ によって完成された。要塞の上部のマスキオ Maschio と呼ばれる塔はミケランジェロ の設計によるもので、要塞全体の名となっている。この要塞はローマ帝国時代の建築物の上に建てられており、おそらくはローマ海軍の兵営であったと考えられている。
ロッカ
山城 。15世紀、教皇シクストゥス5世 によって再建された。
聖フランシスコ教会 (it:Cattedrale di San Francesco (Civitavecchia) )
もともと存在していた小さな教会を改修する形で、1610年から建設が行われた。現在の外観は19世紀につくられたバロック・ネオクラシック様式である。
テルメ・タウリーネ (it:Terme Taurine )
市の北部、Ficoncella に所在する温泉。ローマ時代の浴場の遺跡が残り、現在も市民に人気がある。
日本聖殉教者教会 Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi
チヴィタヴェッキア駅にほど近い海沿いのヴィットリア通り(Viale della Vittoria)にある。同教会は第二次世界大戦 で破壊されたが、1951年 再建にあたり、内装を日本人宗教画家長谷川路可 が担当し、内陣5面の日本聖殉教者殉教場面とエピソードのフレスコ 壁画、内陣天井画として和装の聖母子像と聖人像、会堂両側の壁龕6面の聖画を6年がかりで独力で描き上げた。この功績により、1954年 10月、長谷川路可はチヴィタヴェッキア市名誉市民に列せられている。また、帰国後の1960年 、第8回菊池寛賞 を受賞した。なお、長谷川路可は1967年 、残された天井画の完成やイスラエル ナザレ の受胎告知教会 に描く予定のモザイク 『華の聖母子』制作の交渉でバチカン を訪れ、7月3日ローマ で客死した。遺骸はチヴィタヴェッキアに運ばれ、7月7日、同教会でチヴィタヴェッキア市葬が執り行われ、数千名の市民が列席したという。
支倉常長像(北緯42度5分38.9秒 東経11度47分24.5秒 / 北緯42.094139度 東経11.790139度 / 42.094139; 11.790139 (支倉常長像 ) )
港にほど近いルイジ・カラマッタ広場(Piazza Luigi Calamatta)近くに所在する。石巻市との姉妹都市締結20年を記念し、1991年に建立された[ 9] 。
交通
チヴィタヴェッキア港
チヴィタヴェッキア駅
鉄道
チヴィタヴェッキア駅 (Stazione di Civitavecchia )
教皇国家時代の1859年 、イタリア最初の鉄道のひとつであるローマ=チヴィタヴェッキア線 が、ローマとを結んで建設された。現在のピサ=リヴォルノ=ローマ線の一部になっている。
道路
欧州自動車道路
高速道路
国道
港湾
「ローマ港」Porto di Roma とも称される。中部イタリアとサルディニア島 、シチリア島 、マルタ島 、チュニス 、バルセロナ などを結ぶ主要航路の出発点である。多くのフェリー が発着するほか、地中海クルーズ船 の拠点となっている。EUによる「海の高速道路」 (Motorways of the Sea ) 構想において、拠点港の一つとされている。
姉妹都市
支倉常長像
支倉常長 ら慶長遣欧使節団 の出発地・上陸地という縁による。日本・イタリア間の姉妹都市協定としては4番目に古い[ 8] 。支倉常長像は姉妹都市交流20周年を記念して建立された。
姉妹都市交流40周年を迎えた2011年10月11日、支倉常長像前で姉妹都市交流40周年記念式典が催された。式典に先立ち、同年3月11日に発生した東日本大震災 の追悼ミサが日本聖殉教者教会で行われた。震災の影響で石巻市関係者の出席は叶わず、代わりに駐イタリア日本大使が一連の行事に出席している[ 7] 。
脚注
外部リンク